蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

苦しみまくった

2022-07-30 | 日々のこと
久々ぶりに苦しんだ。
38.4℃の発熱、強い頭痛、倦怠感、悪寒も少々。
コロナワクチン接種4回目の副作用である。
5ヶ月以上前の前回の時も夜中から朝まで布団の上で七転八倒。
その時は、体が何かに反発して小さな爆発を起こすような感じで、なかなか眠れず布団の上で暴れていたのだが。
今回は眠れないとか、そういうようなものでなく、苦痛に顔が歪む感じ。
頭もすごく痛く、熱が高い時はいつもこういう有様。
まだ、すこし頭が痛いが、解熱剤を飲んだので熱は(無理矢理)下がった。

身体が反乱を起こしたようだ。
コロナワクチンを体内に入れたくないと。
総勢、全力で抵抗したのだろう。
もっとすんなり受け入れてくれたら、こんなに苦しまなくてもよいのに。
やはり、身体が嫌だ嫌だと拒絶したのだろう。

それにしても、しんどかった。
もう勘弁してほしい。

ブログにかける思い

2022-07-29 | ブログ
わたし。
淡々黙々と好きなことだけを綴っている。
〆切や、お題ちょうだいも無し。
ああ、なんて楽で自由で開放的なの〜〜、ではあるが、その一方で評価は無し。
元々評価など皆目求めていないので、わたしの魂が救われたら目的は達成される。
そのついでに、お立ち寄りいただく方がおられたらもうそれで十分。
お釣りが来る。

ちなみに、、、
gooブログユーザー向けの「アピールチャンス」というものがあり、自薦のブログ記事がアップされる。
気分が向くと他のブログを拝読することがある。
全く今まで読んだことがない未知のブログで、興味を惹かれた記事があると、他の記事に遡って読んでみる。
その中に、80歳手前の主婦(未亡人のよう)の方のブログが目に止まった。
美しい言葉使い、室内の美しい設え、食器、ゴージャスなメニュー。
昔はこういうブログに度々お目にかかったことがあるが、最近はとんとご無沙汰。
なぜだろう?

たぶん、、、
わたし自身、その理由を推測するには、、、
①興味がなくなった。
②家庭のゴージャスブログには頑張りを見せるための嘘っぽいものも含まれ、ブログのための豪華な生活という、本末転倒になることがある。
いちいち、写真を撮るのは手間もかかる。
主役は自分のつもりが、いつのまにか振り回されていることになる。
そういう「ブログ第一主義」は、わたしは卒業した感がある。
③最近はブログは下火で流行遅れらしく、今一歩、活気がないように感じる。

まあ世間がどうであろうが、自分第一主義のわたしは、一向にお構い無しなのだが。

と、話しは脱線。
話を戻す。 
初めてお目にかかったブログに、興味を持った。

ぱらぱらとページをめくり、過去記事に遡ると、、、
かつて、ブロガーさん同士のトラブルがあったようだ。
こんな素晴らしいブログを書かれるブロガーさんなのに、いったいどんなトラブルがあったのだろうと、興味津々。
コメントを巡ってのトラブルだった。
しかもかなり深刻で長期に渡り尾を引くものだった。

わたしはかつての自分のブログのトラブルを思い出した。
あった、あった、そう言えばあったなあ、、、
コメントは恐ろしい。両刃を持つ。

しかも通りすがりの人ならまだしも、そうでない場合、、、。
暗闇、暗黒のホールに引っ張り込まれそうになった。
すごい負のエネルギー。
世の中にはそういう人が潜んでいる。
たまたまブログで接する機会があり、わたしは震え上がった。
一目散に全速力で逃げた。
君子危うきに近寄らず。

こりゃマズイと思うと飛び退く。
マイナスのものに巻き込まれても、何のメリットも得るものもない。
関わりを避ける。
そのあたり、わたしは逃げ足が結構速い。
防衛本能が無意識に働くのだろう。

独特のネチっこさ、執念深さ、底なしのスゴい吸引力を感じる。
引っ張られる力に抵抗して、その人物から必死で逃げる。
そのためには、その場を離れること、関わりを断つことが大事。
追っかけてきたとしても、相手にしない。
スルーを徹底する。

そんな根性無しのスルー人間には、相手にしてみると、手応えもなく、つまらなく面白くないし、取っ掛かりもないので、いつまでも追ってこない。
スルーの仕方によっては相手の逆鱗に触れることもあるので要注意。
へんに刺激してはいけない。
一瞬にして透明人間になって自分を姿とともに外側も中側も消す。
あれ?どこ行った?と、探されないように、あくまでも相手を刺激せず、消えていくのがよいと思う。
相手と同じ土俵に立たないこと。
仕返ししたり復讐したりしようなんて絶対に思わないこと。
株やファンドでいうところの、損切りをする。
赤字店舗の撤退のようなもの。

そうやって、自分に害があるとみなすと、わたしは逃げる。
モタモタして逃げ遅れたりすると大変な痛手を被る。


ちなみに。
ブログを通してお知り合いになった方々。
わたしは社交性がないので、人数はかなり少ないが、大切な人々となっている。
15年の間に本当に数えるほど。
かつてやり取りがあった方でも、その後、全く音信不通という人もいる。
いきなり長い空白をぽーんと飛ばして、コメントをくださる方もいる。
そういうほのぼのした暖かい繋がりとはまた別に、そうではない事故ニアミス接触に近い、偶然のその場限りの関わりがある人もいる。

今は楽しく落ち着いたブログ生活を送っている。
アピールチャンスで見かけたブロガーさんのようなことはない。
トータルすると、ブログにかなりの情熱や時間はかけるものの、洗顔や歯磨き程度の、日常のほぼ習慣みたいな軽いものになっている。
が、中学生の時から日記は書き続けていて、息抜きとストレス解消になっている。

わたしの大切な話し相手は、自分なのだ。
念仏や写経のようなもので、自分のこころを鎮め、落ち着ける精神状態を生み出している。
そして、ぷぷっと笑ったりして、わたしを笑わせる、わたし。
一人芝居か。ヒマジン。
が、人に迷惑かけずに、自分が楽しければそれでよし。
冒頭にも書いたように、それを読んでくださる方がいるのであれば、十二分すぎる。









またまたやたら長い、、、男女の話

2022-07-27 | オトコとオンナ
今、わたしの家の中は、子育て真っ盛りの風情。
リビングには、ジャングルジム、こどもキッチン(流し付き)、立ち入り禁止用・柵、動物クッション、、、
和室には、紙で出来た大きなお家、どっさりオモチャ、絵本、ぬいぐるみ、、、
インナーテラスには、野球盤ゲーム、、、

初めて孫ができてから、もう10年になるのに、まだこんなかんじ。
下はまだ2歳。さらに次女のところに1歳。
いつになったら、大人っぽい落ち着いた暮らしが出来るのやら。
とは言いつつ、賑やかな家になって、楽しんでいるのだが。
これが毎日だと、髪の毛を振り乱して疲れた顔をしていそうだが、週に2回だから、楽しみを味わえる頻度、距離感となっている。
ではあるものの、親抜きで、子供だけ4人同時に食事やその他の世話をすると、優しい声も維持できなくなる。
子供だけも疲れるが、やがて親が帰ってきて夕食となると、これまた、結構大人用夕食はめんどくさい。
8人分、用意するが、自分の分は食べる気がせず、翌日に回したり、孫が食べてしまったり。
世の中の、孫の世話をしているおばあちゃん、おじいちゃん、頭が下がります。
ご苦労様です。

娘婿(長女の夫)のご両親は、日頃、ひっそりシニア2人暮らしのところを、一度に6人が帰省して泊まられると、さすがに疲労困憊のようす。
お互いに疲れるため、一泊だけ、ということにしているようだ。
その前後に、娘一家は旅館に宿泊して旅気分を満喫。
お互いの精神衛生上、良い。

と、皆さまには他人の家庭など、どうでもよいとは思うものの、わたしのおしゃべりは続く。


ある人気ブログ。ブロガーさんは団塊世代シニア。
夫婦円満の極意を紹介されている。
生まれも育ちも違う二人が夫婦になったのだから、意見や感覚の相違はある。
お互いにそれを踏まえて理解して接し合おうとのこと。
シニアになってから卒婚を言い渡された妻や夫もいて、家庭内別居を余儀なくされているとか。
昔は夫の言うままに、白でも黒と言わされた妻。
「はい」を強制された。
今もそんな国がある。
21世紀の時代に、なんと恐ろしいことか。

しかし、今も自分の考えに同調させたがる男性は確実に存在する。
同じような女性もいる?(あまり知らないが)
わたしの知っている男性のほぼほぼ100%は、自分の意見を押し通そうとする。
たまたまなのか?
それとも、わたしがなんでもハイハイと頷くタイプだったからなのか?
従わせやすい?

男性を立てる女性など、今時シーラカンスかも知れない。
自分に力がないから、奥の手を使っているのかも知れない。
わたしは、超超超、時代遅れの女性である。
たまたま生まれつきの性質なのか、環境のせいなのか、はたまた生きる知恵なのか。
いずれにしても、時代錯誤感があるのは否めない。
男性というものは立ててこそ力を発揮する。
が、踏みつけられても力を発揮する。
どっちみち、力を発揮する。

と同様に、女性も褒められて伸びる。
けなされても、悔しさをバネに頑張る。
どちらにしても、頑張る。

みんな頑張っている。
それにしても、、、優しそうで柔軟性のありそうな男性でも、必ず立てなければならない、、、と、わたしは思っている。
なぜなら、立てると、力以上の力が出てくるように思う。
(逆に、ジェンダー価値観を押し付けられ、役割期待感に耐え切れず押しつぶされる人もいるが)
男性が女性に対して優越感を感じている部分が、 DNAにまだ残存しているように感じる。
(今の若い人はさておき)
歴史の流れから見ると、女性解放運動、ウーマンリブからまだ50年ぐらいしか経っていない。
女性の参政権が認められたのは昭和21年だということを今、調べてみて知って驚いた。
明治時代後半ぐらいかとタカを括っていた。
そんな最近だったとは、、、!!!

男女雇用機会均等法は1987年施行、、、というと、まだ35年しか経っていない。
意外や意外、ほんの少し前のことだったのか。
そうなると、男女平等、女性の自立、社会での活躍は、長い歴史の時間の中では最後ラストのちょっと期間。
原始時代から生きている人間の DNAは、そうそう短時間に急激に書き換えられない。
しかし、直近の出来事で全てがオセロゲームのようにひっくり返ることもある。

ちなみに、高齢少子化の波は、もはや波などというものではなく現実である。
中国やインドなどの人口が多い国は、強い。
マンパワーは有力な資源である。
円安で日本買いが進み、不安を抱いている。
バブル時、外国の土地やビルを買い漁っていた日本が、、、変われば変わるものだ。
日本は先進国だと安心している人に警告。
発展途上国ではなく、衰退途上国だと表現する人もいる。

時代の移り変わりに着いていけなくても、崖っぷちの草にしがみついても、自分の位置だけは確保したいものだ。

で、男性を立てる話しは?
忙しくてまとまらなくなってきた。
お互いに協力し合わないと、ピンチを切り抜けられない。
どっちが上とか下とか小さいことを言っている場合ではなく、力を合わせて頑張らなければ。



こだわり

2022-07-26 | 日々のこと
昨日、Amazonでリュックサックを買った。
このリュックサックは、12年前に買ったものと全く同じモノ。
値段は少し高くなっていた。
1個目は、2011年にパリへ行くために、前年2010年に近所の商業施設の鞄屋さんで購入した。
実際にパリ計画を行動に移すまでの1年間は家の押し入れで眠っていた。

昨今、同じリュックサックを何度も(ダンス)パーティ会場で見かける。
たぶん、みなさんも、機能性が抜群なため、手放せないのだろう。
軽く丈夫で、ぞっこん気に入り、ずーーっと使っているのだが、全くダメにならないので買い替える必要がなく、嬉しいやら困るやら。
なぜ困るかというと、機能性がいつまでも損なわれないため、買い替えることが出来ない。
なら、そのまま使い続けたら良いのだが、10年以上も頻繁に使っていると、さすがに見た目がくたびれてくる。
部分的に破れたり千切れたり取れたり、部品がトラブルを起こしたりしないのだが、表面が全体的に色褪せてくる。
なかなか壊れないために、見た目は劣化するが決定的ダメージは訪れないため、延々と使っている。

のではあるが、、、
さすがに、いくら好きでも、色褪せ方に使用歴史が漂ってきそうで、ちょっとヘンコな人みたいに見えそうで、この度、全く同じものを買い替えることにした。
せめて色違いにすればよいのだが、気に入った色がなかったため、前と同じ色にした。
毎日わたしを見かける人が見ても、リュックサックの変化に全く気づかないと思う。
まあ良いのだ。
わたしが良ければ。

と言いつつ、ホントは色違いのネイビーが良かったのだが、無かったから諦めた。
ネイビーが出るのを待てば良いのだが、買い替えたい気持ちがある今!この時を逃すと、また買い替えないような気がして、えいやっと動いた。
じつのところ、デザインのモデルチェンジやマイナーチェンジが繰り返され、全く同じ商品はなかなか見当たらなかったため、同じものを見つけた途端に飛びついた。

この商品ラインのサイズ違いは持っている。
が、押し入れに眠ったまま、新古品となっている。
やはり出番は、自分の行動に沿うものでないと使用しがたい。
リュックに合わせて行動するのではなく、行動に合わせてリュックを選ぶ。
他にもスタイリッシュタイプや本革高級タイプ、スポーツタイプも持っているが、やはり機能性、サイズ感が、今のわたしにピッタリ。
明日、届くようなので、新旧入れ替えたい。
12年間ご苦労様。(うち1年は、ベンチ入りスタンバイ期間)

わくわく。
全く同じものなのに、買い替えても買い替えなくても、やはりわたしは、ヘンコかしらん。

良い味、出してます

2022-07-25 | 日々のこと
昨日、長女の上から3番目(下から2番目)孫(5歳女児)が、おばあちゃんに、とプレゼントしてくれた絵。
中央右端のメガネかけている人?(動物?)が、わたしらしい。
よーく見てみると、頭の上、真ん中に、なにやら鍋蓋のツマミのような丸いものが乗っかっている。
これはわたしのお団子ヘアなのかなあと。
なるほど、わたしなわけだ。
ありがとう。ウルちゃん。
ちなみに、彼女が自分で自分にネーミングした名前(ウル)はまだイキているようだ。
次の名前を付けるまで、あとどれぐらいこの自称ネームを使うのか、誰もわからない。本人も。

彼女は最近、トランプやことわざカルタに参加するようになった。
もっと前は、邪魔するだけの厄介モノだったのに、驚きの成長だ。
その代わりにウルの妹(もうすぐ2歳)が今度は邪魔する脅威のディストロイヤーになっている。
子供の成長は早い。
わたしは本気になっても、ことわざカルタは取れる枚数は下から2番目。
ことわざカルタ、覚えるのも見つけるのも取るのも、彼らは早い。
目を細めて喜んでいたのだが、自分の鈍化を認めざるを得ないことになり、ちょっと胸が痛い。
(老化ではなく、鈍化だと思っている。
実際は老化による鈍化か?
どこが違う? 同じなのだが、わたし的には微妙に違う)

わたしは、ことわざカルタに関しては、もはや戦力外宣言をとっくに受けた。
だが、トランプ部門は、配られたカードの運もあり、まだ在籍中。


ウル。
この子は、自分で作詞作曲の歌を大きな声で歌う。
どうも宇宙規模の歌詞内容だ。
星だの地球だの、わたしは進む〜だの、勇敢で壮大なテーマの歌詞、曲調になっている。
何かのTV番組か映画で見聞きしたものを自分流に歌っているのではないかと想像する。
わたしがアドリブ歌詞を追加してオリジナルで即興で歌うと、さっそくその歌詞を歌に付け加えていた。
ものおじせず堂々とバアちゃんちで歌ってくれるのは、はたしていつまでかな?
きっとしばらくすると歌わなくなると予想している。
長女の子供たちは、みんな内弁慶系で、外では大人しい。恥ずかしがり屋さん。
よく考えると、わたしも夫も、長女も娘婿も、静かなタイプ。
人見知りをしたりする。

長女Mは、ガチャガチャしていないクール系。
先日、長女Mが学生時代に所属していた体育系クラブの部員紹介をインターネットで見つけて読んだ。
一種のデジタル・タツーであるが、面白かった。
部の後輩が先輩を一人一人紹介するものだった。
紹介文がなかなか的を得ていて、長女Mが後輩に恐れられている様子がうかがえて、笑えた。

今、ファミリーに新しい人材が一人増えて、異才を放っている。
次女の夫なのだが、全ての面で、異文化流入感がある。
やはり、遠い地からの文化が運び込まれるのは、カルチャーショックとなり、変化をもたらす。
次女の夫にしてみても、カルチャーショックかも知れないが。
次女は、新しい文化と、自分が生まれ育った文化の狭間で、気を揉んでいることだろう。
二人の別々のキャラクターが生み出した、またまた新しいキャラクター(ベビー)を育てながら、異種が混ざり、家族になっていくのかなと。

わたしは次世代の若者、男性が3人も周囲にいて、幸せである。
一年に数回しか集まらないが、似たり寄ったりの年齢のおとこたち。
最年長と最年少では、3歳しか離れていない。
同じ時代の空気を吸って成長している、この3人。
一人は実の息子、二人は娘婿。
わりとティストが似ているのは、解せる。
なぜなら、姉妹の夫たちなので、姉妹は共通のものがある。
そして、性別は違っても、きょうだいにも、共通のものがある。
だから、全員似たような年齢で、似たような雰囲気。
当たり前といえば、当たり前。

スポーツ選手も、芸能人も、芸術家もいない。
非道な極悪人も遊び人も禁治産者もいない。
仕事の系統は似ている。
だから、5人集まると、似たり寄ったり、話さなくても話しても、共通のものがある。
ジャンル的に同じ世界にいるような気がする。
娘婿たちのご両親たちも、またそれぞれの地方に根付いた生活を送られていて、それぞれに個性がある。
面白いものだ。
明るく朗らかな人々で、ほんとうに幸せだ。
感謝している。
誰に?
わたし教の神様に。




涙と仲良し

2022-07-24 | 日々のこと
今日は珍しく在宅の日曜日。
いったい何年ぶりだろう?
ひとりで、ゆっくりしている。

朝からこころ洗われる音楽を聴き、目もいっしょに同時に洗われた。
涙の大安売り。

宮崎監督の映画音楽「コクリコ坂から」が聴こえた途端に、涙。
11年も前の映画か。
この映画は、わたしは一人で都会の映画館で観た記憶がある。
その時の心情がオーバーラップするわけでもなんでもないのだが、涙腺が緩んだ。
ダンス曲として会場、フロアに流されることもある。
なんだろう?
何かが琴線に触れるのか。

最近、なんでもかんでも琴線に触れまくりだ。
わたしの琴線は、琴線やピアノ線よりもずっと太くて太縄のようになっていて、ちょっとしたことでもすぐ反応するのだろうか。
安物の、忙しい琴線だ。

悩みがあり(また!)決断、判断が出来ないまま、ずるずると日が経っている。
わたしはいつも、万年病気の人のように、小さな悩みを抱えている。
それでかどうかは知らないが、すぐ涙が出る。
涙は癒しになりストレス解消に良いらしいので、まあ、ほっておこう。
また明日から新しい週になり、悩みと共に週が始まる。
いつもならバタバタして帰宅するなり汗をかきかき夕食準備にかかるが、今日は、在宅なので、ゆっくりのんびり。
昨日、材料を買い揃えたメニューに、あと30分したら、準備に取り掛かろう。

あ、そう言えば、最後に。
映画「リメンバー・ミー」は、すごく良かった。
2018年、メキシコへの行き帰りに飛行機の中で2回も観た。
忘れられない映画の一つになった。
また近い将来、涙腺を刺激することだろう。


今日のブログは中身の無いものになった。
こころ穏やかだと、何も浮かばないようだ。

自分と向き合う

2022-07-20 | 暮らし
わたしは、気に入らないことがあると、自分のブログに吐き出す。
と同時に、なぜそのような負の感情を引き起こしたのか、原因を探り検証してみる。
さらに、どうすれば、マイナス不快感情が和らぐか、考える。
検証している途中あたりで、めんどくさくなるか、眠くなるかで、忘れることもある。
他にすべき用事があると、それどころではなくなる。
大概は、時間が経つと消える。

この逆に、どうしても思い出せない人名、単語など、必死で思い出そうとするが、思い出せなくてイライラする。
あ行から、あいうえお、と順番に、か行、さ行、た行、な行と次々、言葉の初め部分を当てはめてみる。
あかさたな、はまやらわ、ん、、、まで来ても思い当たらないと、また最初から、あかさたな、、、と、再トライ。
すると、あかさたな方式の検索結果ではなく、突然頭に浮かぶ。
つまり、ある程度の時間が経過すると思い出す、ということだ。
これは面白い。
わたしの脳の回路が暖まるにはある程度の時間がかかる。
オイルヒーターのようだ。

つまり、、、
忘れたい嫌な感情も、思い出したい単語も、
時間が経過すると自然に自分が望んでいる方向に導き出される。

もちろん、この逆もある。
いつまで経っても忘れられない嫌な感情や、いつまで経っても思い出せない単語もある。
それはそれ。

これとは反対に、
いつまで経っても忘れられないプラスの感情、出来事や、いつまで経っても思い出せない大事なこともある。
あるいは、普段は無意識で何も思わないのに、何かが誘因となって、急に突然、思い出し蘇る気持ちもある。
こころの中に仕舞い込んでいるもの。

中には、わざと努力して鍵をかけて無理やり仕舞い込んでいるものもある。
トラウマの原因になったりする。
楽しい思いは、鍵をかけなくても、いつ思い出してもまた楽しくなってくる。

理由や状況はハッキリ覚えてなくても、感情だけが脳に焼き付くことがある。
プラス感情の場合もマイナス感情の場合も。
認知症になるとこれが顕著に現れることがある。

自分の脳の傾向を知るとよい。
くよくよ、いつまでも引きずるタイプか、あっけらかんとしたタイプか。
今更、長年の付き合いである自分の脳を改善、改造は出来ない。
なので、自分をよく知り、自分で理解しコントロールする。
そのコントロール法が、時間にまかせ、自然にまかせること。
ただし、これは、仕事には適していない。
そんなことをしていたら、仕事にならない。
業務に差し障る。
いかに的確な処理、処置、判断、決断をするかがキー。
素早い適切な対応が望まれる。

わたしの脳傾向は仕事に適していない、真逆。
リタイアした自分に、もうそんな能力や行動、責任は求められないのだと思うと胸を撫で下ろす。
仕事バリバリだった人は、逆にそんな張り合いのない生活は生き甲斐を失うことだろう。
魂が抜けた、どんより腐った目をしているかのごとく。
わたしは、全然そんな風には感じず、じつに楽しく何事もない毎日を平穏無事に生きている。
つつがないことこそ、喜び。
人によるのだろうか。個性の違いか。
年齢、置かれている状況、生活内容にもよるのだろう。

ちなみに、
宗教によって洗脳され、家庭が崩壊、家族を苦しめることがある。
本人は悪いことをしているとは思っていない。
家族は地獄の苦しみである。
そもそも何もなく平和に楽しく生活している人には、宗教を強くすがりつくほど頼りにはしない。
不幸がある人が、その隙を埋めようとして深みにハマる。
例えば、安倍さん事件の犯人の母。
幼い子供たちを残し夫が自死したとか。
同情の余地はある。
みるみるうちにハマっていき、自分で考える力を奪われていく。
子供がこんな事件を起こした今でさえ、まだ洗脳は解けていないようだ。
本人も家族も、安倍さんの遺族も、日本中の全員を不幸にする。
誰が救われるというのか。
自分以外の人を全員不幸にして、母親本人は救われたのか。

人の気持ちは恐ろしい。
狂気は凶器となる。

ブリッコの行く末

2022-07-19 | 人生
わたしは、最近、「この人に、嫌われている」とハッキリ感じる瞬間が何度かある。
何故嫌われるのか、だいたい見当がついている。
ブリっコだからだ。

ブリブリブリ。
こんな年になってもブリっコだなんて、笑える。
嫌われる理由は、推測、憶測だが。

ブリブリで、見る人が見るとすぐ見抜ける、嫌味な女性なんだろう。
今の世の中の風潮の逆を行くタイプ。
かといって、逆風にめげているわけではない。
わたしは昔のタイプなのだ。
良いとこ取りをして、何食わぬ顔で利用している。
だから同性には絶対に嫌われる。
魂胆見え見えブリッコの同性ほど、イヤなものはない。
まあしかたない。
ブリッコが染み付いている。
ブリッコで今日まで生き延びてきた。

女子枠でポイントアップ、かさ上げ。
能力を補うには、それしかないから。
ああ、やだやだ。
嫌われるけれど、それがわたしの生きる道。
今にペシャンコになることだろう。
でも女子枠のチャージがある。

さて、さて。
ブリブリブリッコ、女子枠とは。

あたし、デキなぁ〜い、だって、ひ弱い、か弱い女子だからぁ〜
こんな女子がいるせいで、デキる女子がどれだけ足を引っ張られて泣かされたことか。
なかには、命を張って抗議した女性もいる。

にもかかわらず、、、
この21世紀の時代に。
何を寝ぼけたことを言っている?
わたし。

だって、できないんだもぉ〜ん、、、
しくしく、、、
(ちょっと薄目を開けて様子を見る)

いやはや、こんな自分がよくイヤにならないものだ。
だって、周りが甘やかすからぁ〜

ぞぞぞ、キモチワルっ!

甘やかしてくれる場所にしか近寄らず、不戦勝。
そうこうしているうちに、高齢優待枠が適用されてきた。
今度ばかりは、今までの反省を踏まえて、本当に困っている人、弱っている人に優先的に援助を譲り、高齢枠に対しては真摯に真面目に取り組んでいる(つもり)。
できるだけ若い人の足を引っ張らないように。
本当に助けが必要な人に、手を差し伸べるマンパワーや財源、余力を確保するために。
そのせいかどうかわからないが、わたしに選択肢や余裕がなくなり、けっこう辛い思いもしている。
自分自身に逃げ道がない。
自分でやれば出来ることは、やらなくてはならない。
当たり前なんだけど。
「出来ない」とあっさり放棄する前に、出来る努力を自分がしなければならない。
どうしても出来ないことだけ、助けを求める。
あるいは、出来ないことは放棄する、手を離す。


今までチャランポランに薄目をあけてブリッコしてきたバチが当たったのだろう。
おちゃらけサボりのツケが回ってきた。
神様がお仕置きしているのか。
まあ今までサボって来れたのはラッキー、神様からのプレゼント。Thanks、GOD!
だが、神様ももう手持ちのプレゼント袋の中味が底を付いてきたようだ。

人間は平等だと、ひしひし感じている。

2022-07-16 | 思い出
今日は父のことを書きたい気分。

真面目で働き者でクレバーで勤勉な父。
戦争から生還したので、生きて帰って来れなかった人の分まで頑張って生きたのだろう。
きょうだいもたくさんいたのに多くは夭折し、生き残ったのは、父と妹のたった2人だけ。
そのきょうだい達の分の、目に見えない命をもらったのだろう。
大正から昭和、戦前〜戦後を生きた人は逞しい。
今の感覚で捉えて感想を言ったり、叱咤激励したりすると、時代錯誤になる。
わたしでさえ、昭和の人間。
まして、その親で大正生まれともなると、隔世の感。

ではあるが、その時代背景を踏まえた上でも、やはり頑張る人だった。
親でもあるので身びいきもある。
親を褒めることは自分を褒めることでもある。
けなすより、マシか?
あまり大きな声で周りに言うと、嫌われる。

と、前置きのいかに長いことか。
親を褒めるにもこれぐらい、但し書きを必要とするわたしは、何?
回覧板でもないし、ここは、わたし個人の閉ざされたプライベート・ブログ。
世間に何の影響もないのに、やたら警戒心の強い慎重なわたし。


父は文武両道タイプ。
真面目一筋。
質をキープしながらの仕事量が半端ない。
体力と気力と脳。
家族想いでもある。
そして、遊びの趣味はわたしとかなり似ている。
文系芸術系の遊び。
それでわたしは共感、共鳴、高評価している?
他人が見ると煙たいだろう。
まあ他人は他人。

というわけで、わたしは父を尊敬している。
短所もあり、いつも父はピリピリして、わたしにはこころ落ち着けない安らげない家庭だったが。
致し方ない環境だった。

標準より上でなくてもいいから、普通の平凡な、ゆったりした幸せが欲しい、、、と思っていた。
無いものねだり。罰当たり。
あれもこれも何もかもは無理だろう。
一つでも良いところがあれば儲けものだ。

※画像は旅先で見かけた風情ある旅館。



震えあがった

2022-07-14 | 日々のこと
スマホを失くした。

突然閃いて、外出先からの帰りの電車内でカバンの中をごそごそ探した。
ごそごそごそごそ。
ん?
ごそごそ、ごそごそ、ごそごそ。
だんだん、ごそごその擬態語の音量が増す。

わたしは4人ボックス席に一人で座っていたが、周りの席に誰もいないのをよいことに、カバンの中に入れていたモノを次から次へと取り出し、横の席に並べた。
取り出したモノの中にはスマホはない。
残りのがらんとしたカバンの中にもスマホはない。
どういうこと?どういうこと?

隣の4人乗りボックス席に中年のビジネスマン2人が乗り込み、仕事の話をし始めた。
だが、そのうちの1人は、わたしとは通路を挟んで斜め向かいに位置する。
こちらを向く格好。顔は明らかにわたしの方向。
探し物をしているわたしは、段々、人の目が気になり出した。
これは、人目がないところでもう一度、ゆっくり探したほうがよいと思った。

とりあえず、乗り換え駅で降りて、ホームの椅子に腰掛け、一人でまた一から、ごそごそごそごそを再び始めた。
しかし、車内で一通り、一つ一つカバンから取り出して点検した後でもあり、やはりスマホがないことを確認するだけに終わった。

どういうこと?
なぜ?
なぜ無い?

夕方のホームの椅子でしばらくわたしは考え込んだ。

失くすとすると、あの地点、この地点、2箇所が有力になった。
行き先、立ち寄り先である。
1番疑わしい、乗車駅にポイントを定めた。
そこへ戻ろう。
そこへ向かう反対側のホームに移り、元の来た駅に向かって電車に乗り込んだ。
その車内のわたしの心境は、、、

無かったらどうしよう?
あるはず。
あったらいいな。でも。
あった時の感激の自分と、期待して無かった時の消沈する自分が、お互いをなだめ合い、牽制し合っていた。
期待するな。
いや、でも。
無かったら次は、どうする? 次の地点か?
とりあえず、第一候補地に行かなければ、次はわからない。

不安に胸を押しつぶされそうになりながらも、若干の期待がちらちら。
この気持ちは希望とは少し違う、複雑なもの。
あの引き返す車内時間は、長かったのか短かったのか、時が進んでいたのか止まっていたのか。
癌再検査を受けた後の結果待ちをしているような、祈るような胸中。

電車を降り、重い足なのか、軽い足なのかわからないが(エスカレーターだったし)、ゆるゆるとホームから昇り、駅の有人窓口にスマホ忘れ物の有無を尋ねた。
失くした時刻とスマホの形状を聞かれた。
制服姿の若い小柄の女性職員が「少しお待ちください」と無機質対応。
「少し」にしては、長い。
ひょっとして無い?
長いのか短いのかわからない時間を経過して、恐る恐る目にしたのは、、、
ぷちぷち包装ビニールにふわっと包まれた、見覚えある、鈍い暗い色のわたしのスマホ。
事故現場から救い出された、肉親の身体が運ばれ寝かされているよう。
あらあ、、、!!

これこれ!!
これです!
これ!わたしのスマホです!

と、近年なかったほど、わたしは感激して喜んだ。
ああ、嬉しい。無事だった。見つかった。
こころが躍り上がる。

ありがとうございます、と深々と頭を下げて、連れて(持って)帰ろうとすると、待った!がかかった。

引き取り人の手続きをするにあたり、身分を証明するものが必要だとのこと。
運転免許証、パスポート、マイナンバーカード、保険証など。
わたしは、必要な時しか持ち歩いていない。
どうしてもそれがないとお返しできません、と断られた。
目の前にいる我が子を引き取れない母親の心境。
わたし、この子の母親なんです!

いくらそう言っても客観的証明がいるそうだ。
(※注 「母親」は文中、擬人化表現です)
スマホケースの中にはお金も入っているので、預かっているJRとしては責任もあるため、自己申告だけでは許可されない。

スマホの中に入っているデータからわたしが証明できます!
と、思いつきで言ってみたが、却下された。
これからは、身分証明のできるものを写真に撮しておこう。
でも、「現物でなければ認めません」なんて断られるかも知れないが。

というわけで、、、命より大事な我が子を引き取るために、その場をUターンし、自宅に戻った。
JR→私鉄→バス→自宅→バス→私鉄→JR→ピックアップ→JR→私鉄→バス→自宅
と発見から3時間の長旅を経て、無事、我が子は家に戻った。

時間、労力、交通費、、、
無駄にしたが、我が子が戻ってきたことはこの上ない喜びだ。
実は、明日も同じ場所に行くので、そのままJRに預かってもらっていてもよかったのだが、1日も我が子と離れることは出来ない。
今更ながら思うが、わたし、すごいスマホ依存症。
というより、生活の全てが凝縮されている。
これは、危険すぎる。
リスク分散したほうがいい。

蛇足だが、
受け取り書類を書くときに、ちらと見えたが、スマホの形状、特徴、中に何が入っているか、なんていう情報が一つ一つ記されていた。
スマホケースから取り出してチェックし記載されるわけだが、スマホケースにあれこれ、変なものを入れていたらかなり恥ずかしい。
アプリのIDやパスワードは手書きで書いて隙間に突っ込んでいるし、、、
現金も財布代わりにそこそこ挟み込んで入れている。
恥ずかしいなんていうのは全然問題ないぐらい、もし見つからなかったら、、、あるいは悪用されたら、、、かなり危険である。
現金だけ抜き取って、スマホを捨てられていたとしたら、困ることは困るがまだマシ。
最悪は、アプリに入っているものを取り出し悪用されるとお手上げである。
セキュリティをもっと強化すべき。
危機管理できてなさすぎ。
大事な貴重品を一つのものにデータ集約する、一極集中の怖さをしみじみ感じた。