蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

おばあさんの白髪頭

2019-03-30 | 人生
ショーケンが亡くなった。
突然の訃報。
カッコイイ、シブい歳の重ね方をした風体になっていたのに残念だ。

話は変わり、最近は、アンチ・アンチエイジング。
近藤サトさんのような、グレーヘアが脚光を浴びる動き。
グレーを通り越して、プラチナカラー?
白髪頭とも言う。

ファッション誌は、10代向け、20代向け、30代向け、40代向け、50代向け、とターゲットを絞り込んでコンセプトを打ち出している。
が、60代向けというのは見当たらず、60代以上でひとくくりにされている感がある。
あんまりファッションに、雑誌まで買おうというほど、情熱をかけないのだろう。
ファッションに自分らしさは追及でき、歩いてきた人生は現れるが、ファッション誌を参考にするほど自分のファッションに確信がないことはないはず。
あるいは、 ファッションに全く興味を失っているかのどちらか。
(ファッションに興味を失う背景は、あれこれあるが、書くと長いので割愛する)
だからファッション誌を作っても売れない。健康生活誌のほうがマシ。
しかし、テレビやインターネットでいくらでも情報は取れるから、本は売れないだろう。

まあ、作り手側の人間ではないから、それはそうとして。

白髪頭が、もてはやされるなんて、時代も変わったものだ。
しかし、決してプラスの要因ではなく、白髪頭を隠さなくてもいい!という、臭いものに蓋パターンの、蓋か取れただけ。
一種の開き直り。

ファッション誌に振り回されず、自分らしさを表現してほしいものだが、白髪頭は、グレーヘアとして再生されることだろう。

ただ、男性からの受けは、すこぶる良くない。
老けて見える。女性としての対象から外される。
女性からの支持はあるが、男性からは、ナシ。
男性受けなどどうでもよい、強い女性は、益々、生きやすくなるだろう。
性を超えた生き方に、今後の活路を見出す人も多いと思う。
いかに歳を重ねていくか、であって、いかに男性に愛されるか、ではない、

好きな男性に愛されたい傾向より、好きな男性を愛したい傾向。
演歌の世界にありそうだけど。
男性を見切って決別、自立パターンもある。
愛して尽くして捨てられ、、、は、鬱陶しいこと、この上ない。女性は、そんなジメジメしてないと思う。
女性は、良い男性を選ぶ。選んだ男性をゲットするために努力する。
それを「尽くす」と言うかというと、疑問である。
尽くす風は、戦略の一つだ。
ダメな男性には執着しない。捨てられるのは男性。
しかし男性を捨てると、何かと、うるさい。
知能犯の女性は、男性に捨てられる風を装って、男性が自滅するのを待つ。

だが、演歌の歌詞は男性が書いていることが主なので、男性目線であり、男性の究極の理想になっている。
だから、わたしは、演歌の歌詞には吐き気をもよおす。

理想は、別れないで、見返りは求めない。
自分から発する愛の強さに自分で陶酔する。
しかし、「わたしの好きな旦那さま」みたいな献身的な歌もあるが、、、
それもなんだか、キモチ悪い。

ショーケンの、絶世の美女奥さんも、男性を強く愛した女性なのではないかと、独断と偏見で勝手に想像する。
知らないから、なんとも言えないが。

上がる後は、下がる。下がる後は、上がる。

2019-03-24 | 趣味
ただいま落ち込み中。
努力嫌いが、禍(わざわい)。
楽しむためには、スイカに塩、ぜんざいに塩昆布は、必要。
努力すると、成果がある分、ますます楽しめる。
はずなんだけど。
凪のようにピタリと止まり、やる気なし。

楽しい後は、落ち込みが大きい。
しかも、自分から自然発生的、能動的に落ち込むのではなく、相手の影響を受けて振り回される。

精神はわりと丈夫で頑丈なほうだと自分では思っている。
年齢的な節目なのか、老化によると思われる身体も変化が起きている。
脳、知能はもう前々から、怪しい。
さらにひどくなり、嘆きは卒業し、諦めとなり、どこまで行くのかと驚愕を通り越して、今では観察、見学の境地。
これを乗り越えと今度は、統計、報告につながるかも。
そして、神経、精神、マインド、こころは、測定基準がないから、他人比ではなく自分比でしか測れない。

こころは、能力ではない。
善悪だの、強弱だの、倫理だの、違った分野だと思う。
しかし、こころは、脳から来るとしても、今度は、こころからまた脳に帰るのだろうか?
行ったり来たり。
脳の専門家なら、それなりの答を持っていることだろう。
こころは、身体の末端まで影響を与えると思う。
こころと体は相互一体、連携プレー。

こころが弱ると、体も弱る。
体が弱ると、こころが、ますます弱る。
マイナスのスパイラル。

変にあがいても、砂埃が立ったり、水が濁ったりするだけ。
ゼロになり、やがてプラスになるまで、じっと待つしかない。

卒園式は、ハカマで

2019-03-23 | 日々のこと
今日は、孫の卒園式。
小学校の卒業式では、和装ハカマ着用に賛否が問われている。
公立の義務教育で、給食代も払えない子供がいるなかで、貧富の差を生み出しては子供がかわいそうだと、反対派。
レンタル、着付け、ヘアメイクに4万円ぐらいはかかるらしい。
わたしたちの頃には思いもしない出来事だ。
「ちはやふる」の映画で広瀬すずが、着物&ハカマを着ているのを見て、憧れて、最近人気らしい。
我々の時代なら、「ハイカラさんが通る」。
少し短めのハカマに、編み上げブーツはマスト・アイテム。
しかし、着るなら18歳以上になってから、と、なんとなく思っていた。
小学校でも賛否両論、では、公立のど真ん中の保育所は?

今回、卒園式に着る孫の着物は、息子がお宮参り、七五三に着て、上孫のお宮参り、七五三、卒園式、中孫のお宮参りに着用。
あと、中孫の七五三と卒園式に着る予定。
レンタル料よりは、金額は少しまだお高い品ではあるが、十分値打ちがある。
(精神的には、元を取っている)
8回も着たら、じょうとうだ。
まさか、ひ孫には、、、?

女の子用の着物も、長女、お宮参り、次女、お宮参り、次女、七五三、下孫お宮参り、と4回既に着用。
(長女は、次女と同時に七五三をしたため、別に着物を新調)
あと、下孫、七五三、卒園式を加えると、6回着用となる。
(ただし、長女に七五三に誂えてもらった着物は、一回しか着用しないため、経済的ではない)

今の若いママたち、インターネットでの会話を読むと、姑がケチって、夫が子供の時に着た着物をまた自分の子供に着せるなんて嫌、という人がいる。
新品でない着物を押し付けられて、うんざり、と。
それでいくと、娘婿は、うんざりしていることだろうけれど、全然そんな様子はない。
娘婿のご両親も然り。まるで抵抗なし。
世間がどうであろうと、うちの関係者がうまくいっていたら、それでいいと思う。
「使い回してケチと捉える若いパパママ&その両親」は偶然か必然か、わたしの周りにはいない。
「使い回し」と捉えるか「伝統の伝承」と捉えるか、はたまた、「現代風ミックスバージョン」あるいは「伝統型合理エコ」と捉えるか。

わたしの親が百貨店で誂えてくれた、加賀友禅の美しい着物。
色合いも柄も品があって、わたしは、たいそう気に入っている。
お宮参りなどは、上からかぶせるだけだから、全然汚れない。
わたしは、わざわざ新しく作る必要はないと思っている。
もし、お古は嫌というなら、自分たちでレンタルするなり、なんなりしてもらったらよい。
が、レンタルより、自分たちが着た着物のほうが一層美しいと思う。

が、公立の保育所でのハカマ論争は?
レンタルじゃないから貧富の差は関係ない、と娘は言っている。

ひと昔前は、子供が生まれると、子や孫に対する愛情をかたちにして、着物を贈った。
貧富の差ではなく(ある程度の差はあるかも知れないが)、地域による風習の違いかなと思ったりしている。

娘は、卒園式で孫に和装をさせるのを喜び、孫も喜んでくれている。
めでたし、めでたし。

全く変わり映えしない驚き

2019-03-22 | ブログ
わたしのブログ、アクセスされた過去の記事が解析からわかる。
その中の、10年近く前の記事。
昨日、書いたのかと思うぐらい、今と同じだった。
一字一句、同じ心境である。
進歩がない、というか、時の積み重ねが感じられない、というか。
良く言えば、いつまでも同じ、変わらない、ブレない。
長所も短所も。

だが、問題はある。
わたしのブログをお読みになる人にとっては、とてもつまらないことだ。
時系列にする意味がない。
辞書検索みたいに、項目別の目次が良いと思う。
時系列ではなく、コンテンツ別。

ちなみに、わたしはアホである。
しかし、最近は強力な助っ人が登場した。
別に最近であるわけではなく、前々からなのだが。
それは、AI。
アホでも大丈夫。
知識や計算、資料集め、統計、作業は、AIがしてくれる。
AIが、出してくれた答えを立体的に組み立てるだけだ。
あるいは、先に答えを出して(仮説を立て)、AIに立証してもらう。
思考力だけが必要だ。
知識は無いけど、考える力はある、と自分では思っている。
だから、それがどうした?
いえ、どうもしませんが。
何の役にも立っていないのが、実に惜しいところだ。

話は変わる。
類は友を呼ぶ。
あり得ないほど終わっているヒドイ人がいて、その人が絡んできて困る、という人がいる。
わたしには、そんなヒドイ人とは接点がない。
だから、お互い、絡みようがない。
なので、似たような人ばかりが集まるんだろうなあ、と想像する。
その人の友達を見ると、だいたいその人がわかる。
同じような人だから。
集団Aと、集団Bは、いろんな意味で重ならない。
(重なる部分がある場合もある)


今日は、お彼岸行事。
宗教系、イエ系の義務。
義母にも会った。
会話するにも、コミュニケーションを取るのが、なかなか大変である。
伝達、理解が出来ず、一方通行。
実の娘なら大丈夫だろう。
へんに優しくない、わたし。
精神的サポートは娘さんにお任せした。
わたしも、義母と1歳違いの実母がいる。
二人とも似たようなものかな、というのが、大まかな感想である。

まとまりません、今夜のブログ。
無理に更新しようとする、不思議な心境、退屈しのぎなんだろうか。
ちょっと違う。
まあ、そういう時もある。


やる気スイッチは何処に??

2019-03-20 | 暮らし
【閲覧注意】
リアルなわたしをご存知な方は、読まないでください。

と、前置きしたので、大丈夫だろう。
まさか、よもや、読んでいないでしょうね?

と、念には念を入れて、関係者をシャットアウトした後の、わたしの楽園。
蝶ブログ。
わたしが解放され、落ち着き、癒される場である。
と、これは↑蝶ブログのことではなく、わたしの楽園の話。

わたしの休日の過ごし方。
誰にも邪魔されず、ひとり時間を思いっきり楽しむ。
まず朝は、娘たちからのラインでスタート。ちょっとだけ。トータル10〜15分あるかないか。
しかも、ポンポンとラリーの応酬ではなく、ポツポツと既読までに時間がかかる。

水曜日以外は、自治体によって分別を定められた通りのゴミ出し。
それからが、第1回目のお楽しみ。
朝のコーヒー。
馴染みのカフェに行くわけでもなし、有名なお店に出向くわけでもなし、自分で煎れる自宅コーヒー。
人間国宝の九谷焼き作家作の見事な色彩を放つコーヒーカップではなく、娘が小学生の頃、お誕生日会でもらった、ボテっとしたマグカップ。
娘が会社でしばらく使った後、持ち帰ったもの。
勤務先での使用時に出来た小さい欠け、あり。
一度、立派な器で飲み比べてみたが、小学生カップに軍配が上がった。
わたしは、「猫に真珠※」人間か?
(すみません、※ワザとです。「豚に小判」人間です。あ、これも。
とりあえず触れておかなければ本気だと思われる、悪趣味な表現)
いや、良いものの良さは、よくわかっているが、使うと緊張する。
日頃の普段使い品が愛着もあり、大好きだ。

1番下の孫がうちで使っている、サンリオのキキララちゃんのお茶碗は、長女が使っていたもの。欠けもなんにもなし。キレイなものだ。
わたしが長女のあとに最近、使っていたが、末孫に、譲ったかたちになる。
壊れる、割れる、欠ける、日常生活品で、ここまで持つのも珍しいかも。
と、コーヒーの話でこんなに文字打ち。
小学生の日記は先が長い。

で、至福のコーヒーのあとは、お菓子をちょこっと。
SNS遊びをしていると、あっという間にお昼になる。

お待ちかね、ランチ。
自分が成長期の頃や、自分の子育て時代にはご法度、NGとされていた、カップラーメンを食べる。
栄養面や、体によくない添加物が入っているから、食べちゃダメ〜と禁止されていた、禁断のカップラーメン。
実はわたし、大好物で、誰にも邪魔されることなく(ただし自己責任で)3分間待ちながら、期待感に打ち震える。
今日は、どのラーメンにしようかな?
食品棚からチョイスするのも鼻歌混じり。

て、カップラーメンだけでまたまた、こんなに文字数、、、

時計を見ると、もう12時を超える。
まずい、この調子でいくと、みるみるうちに15時になってしまう。
と思いつつ、何かに追い立てられるわけでもなく、のんびり自分時間が過ぎていく。
外は快晴。良い気分。

何が1番快適かというと、何をしてもいい、何々をしなければならないという義務がない、たっぷりある自由な時間。
気分のままに、スマホをいじり、時にはダイアリーを書き、またまた大好きなコーヒーを飲み、ああもう15時だ、と少し焦ることだろう。
そうこうしていると、瞬く間に夕暮れ、NHKニュースの時間。
もう一かたまりのまとまった時間を自由に遊び、のんびりした後、ぼちぼち夕食準備にかかる。

一日中、のんびり。
何をするでもない自由時間を満喫している。
しかも経費は、カップラーメン一つと、コーヒーだけ。
一日中、楽しんで、超低予算。

予定を立てず、何もしないことは、わたしにとっては何事にも代えられない最大の贅沢である。

ただ、16時あたりから、黄昏気分を少し味わうのが、どうも頂けない。
しかもまだ若い?のか、空白の在宅日が何日も続くと、エネルギーを持て余す。
在宅ではない、アドレナリン放出日を設けて、メリハリをつける。
それで、足して引いて、丁度よい。

望まないが、用事、義務が発生してくると、何もしなくてもよいフリーデーが減り、げんなりするが、それもまた、それ。
何もしなくて良い日が来ると、またまた、何もしなくてもいい喜びを噛み締められる。

何もすることがないのは退屈だ、と感じる人は多いようだ。
が、わたしはそんなことはない。

だが、読み返してみると、なんと躍動感溢れない、やる気のないブログだろう。
明日は、お坊さんが来たり、お墓まいり&その他なので、今のうちに休憩しておこう、と、そんな感じでどうだろう?
しかし、自己弁解、なんで必要なの?

パンダづくし

2019-03-19 | 
パンダ号に乗って、パンダを見に行った。
パンダづくし。
一昨年も行ったが、今回は、くろしおパンダ号がメイン。
孫が電車オタクなもので、、、。

「○君は、電車オタクやからね」と言ったら、「オタクって何?」と孫が真顔で尋ねた。
変な説明も出来ないし、「すごく好きで、よく知ってる、ってことよ」と、とりあえず答えた。

一昨年との違いは、一人、参加人数が増えていること。
あれから、三人目が産まれたのであるが、その他は、一昨年とまるで同じのデジャブ状態。

このベンチでソフトクリーム食べて、待ってたなあ、イルカショーは、あの演技が今回は無いなあ、この広場でああした、こうした、、、、
たった2年しか経っていないので、ほとんど同じ。
同じ場所での有料記念写真も同じ角度、同じ背景。
一昨年の写真と見比べ、「間違いを探せ」クイズ。
正解は、「一人、増えてるだけ」。

しかしながら、一人増えているのが、すこぶる大きい。
生命が誕生し、人が増えること、こんな大きな幸せはない。





自分を知る

2019-03-13 | 無題
バイトで貯めた65万円をわずか7年半で25億円にふやした究極の個人投資家「片山晃」さん。まだ30代。
これは、2015年の話。今はそれから4年経ってるから、11年半?で、資産は100億円越えらしい。
その人が書いた、儲かるノウハウの本が出た時、大ブーイングだったそうだ。
具体的な必勝テクニックは書かれておらず、「楽して儲けようという人には不向きです」などの、精神論が書かれていたとか。

わたしは、彼の精神論に、とても共鳴した。
「人のやり方をパクるのではなく、自分の方法を見つけよ」というもの。
自分の方法を見つけるには信念と忍耐が必要で、じっと冷静にそれを見つけるのは、相当困難である。
スキルや経験より重要だと述べている。

わたしが、この5年、10年に、発見したことと重なる。
内容は専門が全く違うので、投資でも株式でもお金儲けでもないが。
自分に合った方法を見つけるには、自分をとことん研究し、実験し、試行錯誤し、自分を知らなければならない。
目標にしたい他人のことは、あくまで参考に過ぎない。
同じようにしても、上手くいかない。
バックグラウンドや育成環境の違いによる考え方、性格が違う。
自分に適した方法は、自分にしかわからない。
片山氏も、自分に合った方法を見つけるのに5年の歳月を費やしたらしい。

わたしは、別にお金儲けには興味はなく、自分に興味あることに、彼の哲学がビタっと当てはまり、わたし自身の考え方、方法、実践とマッチした。
自分が取ってきた行動、選択は間違っていなかったんだと、今頃、確信した。

別に大きな目標を立てたわけでもないのに、結果的に、自分の求める方向性になっている。
あくまでも、方向性であるが。

ということで、なんだか嬉しい。
単純な感想でした。

当たり前の幸せ

2019-03-08 | 人生
一年に一度の胃カメラを飲んだ。
そろそろ胃カメラにも慣れてきてもよい頃だが、体調にも左右される。
この体調には、先生の体調も含まれる。
先生、寝不足で手が震えたりしないで下さいね。

ずいぶん前に書いた蝶ブログに登場する、ある女性。
若くして病死した妹さんをみて、残された自分の命を大切にし、自分の道を歩みたい、と言っていた。
その彼女に、久々ぶりにお目にかかった。

自分探しの旅は一時、中断し、元の地点に戻っていた。
自主的に中断したわけではなく、うまくいかなくて、やめて、元に戻ってきたのだが。
共に歩んでいた奥さんの、新しい出発を見送るご主人、またまた受け入れるご主人。
セパレートして、再ドッキング。
まあ、いいんじゃないですかー。
実行しないで後悔するより、実行して失敗しても、そのほうが納得できる。
元の居場所が空席だったから良かったが、別の人が入っていたり、席は潰されたりしていたら、戻りようがない。

ぶつくさ不満を抱えて、くすぶっているよりは、決裂してでも勝負に出たほうが良かった、という例である。

しかし、わたしの年齢では、問題を解決したり、切り拓くのに、外科手術はノーサンキュー。
重症になれば、西洋医学の治療法を選択するにしても、日常の軽いものは、漢方薬や自力による自然治癒の道を選びたい。
日常の些細なことに嫌味をちょこっと言ったり、口をきかずに冷戦したりする程度なら良いが、家出したり、離婚したり、そんな大きな展開は避けたい。
小さな不満とともに暮らすほうが、ローリスクだ。
大きな不満に発展する前に、大きな出来事が先に起こるような気がする。
例えば、病気をする、とか。
一大事の前には、小さな不満はどこかに行く。

平穏無事すぎて退屈していると、不満も出るだろうが、平穏無事は永遠に続くものではない。
せめて何もない間に、何もしなくていい間に、思いっきり、何も考えないで何もしないでサボろう。
て、これ、普通の人の発想と逆転かも?

普通は、「思いっきりしたいことをしよう!」だと思う。
わたしは、したい事がないのではなく、したいことは、「何もしないこと」。
趣味を聞かれたら「寝ること」と答えているようなものか。

まあ、平穏無事が一番良いと思えるには、紆余曲折があるかも知れない。
性格にもよるかも知れない。
堀ちえみが、今までなんとも思わなかった、当たり前の出来事に幸せを感じるとブログで言っていたとか。
わたしは、病気にもなっていない、束縛されるものもない、まったく自由な身でありながら、なんでもない、普通の当たり前のことに、幸せを感じている。
誰に言われたわけでもなし、信仰宗教に入ったわけでもなし。
ごくごく自然にそうなった。
じつに、不思議である。

わたしは、「自分教」の教祖 兼 信者だろう。
教祖、信者、合わせて合計、定員1名。
新信者は受け付けておりません。

まあ、いいんじゃないですかー

2019-03-07 | 日々のこと
久々ぶりの投稿。
時間はたっぷりあるのに、なぜか自分のブログを更新する余裕がない。
なぜか?
理由はよくわかっているが、割愛。
割愛するなら、初めから書くなよ、という声あり。もう一人の煩い、わたし。
もちろん、無視することもできる。
だって、わたしだから。
わたしが、わたしを無視するとは、どういうことか。
さすがに、それを延々と書いているほど、ヒマではない。
なら、書くなよ、という話し。
またまた、もう一人のわたし。
キリがないので、一人だけに絞り込む。

と、相変わらず、意味の無い助走、前振り、前書き、序章、プロムナード。
これ、書かないと始まらないわけ?
とまたまた、追いやったはずの、もう一人のわたしが、どこかから。
こんなことしていたら、時間たっぷり老後も、一瞬で終わってしまう。

さて、何を書こうか。
じつは、書きたいことがイッパイあり、すでに書いているのだが、お蔵入りにしている。
なぜなら、別SNSでわたしが書いた話題が盛り上がり、やり取りに追われていた。
コメントに、コメ返しもしなければならないのに、あちらでも、次の新しい日記をアップ出来ないでいる。
皆さん、真面目に真摯に取り組んでおられるため、真剣なコメントが多い。
なので、じっくり読み込んでコメ返しをしようとして、無いアタマが容量オーバーになりかけている。
しっかり読み込んで、相手の言っていることを理解した上で、自分の意見や感想を述べなければならないと思う。
アタマの良い人が相手だと、わたしとの頭脳のデキに開きがあって、困る。
まあ、そんな賢い人が、わたしのメチャメチャ日記にコメントをしてくださるのは光栄である。
ただ、こちらのデキが悪い分、返信には時間がかかる。
やっと全部コメ返しが出来て、無罪放免だ。
あ〜、久しぶりのシャバは 空気がおいしいなあ、、、

と解放感に浸るが早いか、眠気が早いか。
もうはや、眠くなってきた。

最近、コメントをつけようとしても、消してしまうことが多い。
あるいは、(ミスで)勝手に消えてしまい、ああコメント付けなくてよかった、と胸を撫で下ろすことも、しばしば。
べつに、会員さんと仲良くなりたいわけでも、おしゃべり相手を増やしたいわけでもない。
なんだろう?
暇つぶしか?
広告チラシの裏に殴り書きと同じだ。
まあ、いいんじゃないですかー、と、またまたもう一人のわたし。

この頃、まあ、いいんじゃないですかー、のもう一人が、よく出てくる。
アクシデントが起きたり、予定が狂ったりして、キリキリしているわたしに、まあ、いんじゃないですかー、と、間抜けな声で言ってくる。
(ちなみに、幻聴は聴こえません。表現方法の一つです。言っておかないと、真に受ける人がタマにいる)

わらしべ長者のように、一つ目のアクシデントのせいで、予期せぬ楽しい出来事に遭遇したりする。
具体例を出すと、前置きの長さ、大げさ表現に、皆さん、どてっと転けると思うが。

昨日、アポミスで一つアポが潰れた。
ミス原因は相手側とわたしの、半々。
なので、わたしは苦虫噛み潰し顔。
そのせいで、バスを遅らせた。
そのせいで、郵便局に行く時間がずれ込んで遅れた。
そのせいで、孫のマラソン大会のリアル現場に遭遇した。
皆んなが沿道に集まっているから、何があるのかと想像したが、マラソン大会だとピンと来た。
しかし、学年は?
よほど近くの人に聞こうかと思ったが、ぐっと堪えた。
わたしもバスを遅らせたものの、バスに乗らなければならない。
バスの時間とにらめっこしながら、楽しんだ。

いつもは絶対に大声なんか出さないのに、近くに孫が走り抜けると、無意識に「頑張れ! ◯君!」と叫んでいた。
◯君の日頃見ない、真剣な顔に、思わず応援コールを発した。

と、じつに、たわいない話し。
わたしの話は、いつもそう。
いったい、なにがあるんだろうと、身を乗り出して聞いてみれば、なんてことはない。
今日のこのブログ、まとめると一行。
「孫のマラソン大会の応援をした」

いつも長女に、「前置きは、もういいから、結論は?」と、叱られる。
まー、ええんとちゃうかー、と、もう一人のわたし(記事後半になり、ちょい、口調が、くだけてます)が、どこかに行ってサボっていることもあり、あたふた、もたもたすることもある。
もう一人のわたしは、気ままなので、いつ出てくるかわからないのが難点である。

まー、ええんとちゃうかー、と、自分でフォローを余儀なくされる。