常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

うれしい言葉

2020年09月29日 | 日記
先日、歯科に行ったときである。治療を終えて次回の診療の日程の予約があった。「この日は午前中しか空いていないのですが」「結構ですよ、どうせ毎日が日曜日の身ですから。」まだ20代の女性の衛生師さんだ。自分の孫のような年代である。カレンダーから、目をこちらへ向けて「それは、お働きの長い実績がおありです。」と、真顔で言った。自分の現在が、そのようなものに支えれているなどと、思ってもいなかったので、「ん?」と思い、しばらくかみしめると若い人からの労りの言葉のように思えてうれしくなった。

だが、よく考えてみると、老人が自分の時間を「毎日が日曜日」などとと考える生活態度は戒めねばならない。兼好法師の『徒然草』に、牛の売り買いの話が出てくる。その売買の約束が成立して実行しようする日の前の夜に牛が急に死んでしまう。ある人は、「牛に死なれた持ち主は損をした」と言ったが、別の人は、「思わざる死の到来を目の当たりにして生の尊さを知ったのだから、損ではない」と反論した。さらに加えて

「されば、人、死を憎まば生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」

また別の項に

「寸陰惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか」

と書き、「ただ今」の一刹那の大切さを説いている。兼好法師のこうした考えは、この草紙を書いた当時の人から受け入れられてはいなかった。それはむしろ、今日を生きる人々にこそ大切は言葉になっている。
コメント
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