福田の雑記帖

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アウシュビッツ解放70年(2) アウシュビッツのユダヤ人の収容所

2015年02月02日 03時11分59秒 | コラム、エッセイ
 ユダヤ人の歴史は旧約聖書の時代から長く、複雑であるが、ポーランド関連部分についてざっと眺めると、ポーランドには.13世紀頃よりユダヤ入か流人し、次第に膨らんで最盛期にはユダヤ人の80%がこの国に住んでいた、という。やがてポーランドはリトアニアとの協力で黒海にまで達する大国となるにつれユダヤ人も全領域内に広がり、町を築き、商業、信用取引の自由を保障し、また生活の安全、個人別産、宗教の自由までも保障されるに至った。

 一方、ポーランドの歴史も複雑である。17世紀、ポーランドが衰退してからはユダヤ人は苦難に満ちた運命をたどる。それでも、ユダヤ思想の発展と自立した宗教と共同体を営むことができた。その過程でイディッシユ語なるものまで作られた。この言葉は、ドイツ語、ヘブライ語、スラプ語の混成語として、ヨーロッパやアメリカに住むユダヤ人の間で母語として用いられていた。ところが、ナチスはこの言葉をドイツ語のユダヤ訛り、方言として蔑視していた。

 ポーランド国民は何世紀にもわたる戦争の経験のなかで武装力の乏しさからか、いつも敗退の憂き目をみた。1944年ワルシャワ蜂起の時には、ドイツの圧倒的な火力の前に敗北し30万人が死亡した。
 それでも、ポーランド人はワルシャワを最後まで見捨てることなく、やがて復活し、現在に至る。

 2000年のことであるが、私どもは、ワルシャワで医療施設、ショパン関連施設、キュリー夫妻の施設等を見学した後、翌々日、バスでクラクフヘ向かい、ついでオフィシエンチムのユダヤ人の収容所に着いた。

 1939年、ナチス・ドイツがアウシユヴィッツと地名を変えた。こちらの方が一般的に知られている。この収容所は終戦時の姿のまま国立オシフィエンチム博物館として保存され、ナチス・ドイツの残虐ぷりを伝えている。

 入り口の鉄扉には、「ARBEIT MACHT FREI」(働けば、自由になれる)の標語があったが、何故かBの字が逆さまで、何か意味でもあったのだろうか。働いても自由になれない、という意味だったのか。人所者達はどんな思いでこの門を潜ったであろうか。敷地内は煉瓦造りの二階建て兵舎が整然と3列に28棟あった。このうち何棟かを見ることができた。

 収容棟には収容者の写真が掲げられていた。いずれも固有の氏名はなく、番号で識別されていた。さらに、メガネ、カバン、靴、ブラシ、洋服、女性の毛髪などが、陳列してあったが、埃にまみれくすんだ色に変化していた。人髪で編んだ絨毯も陳列されていた。これら遺品のうち貴金属が含まれるものは取り外して加工所に送られた。屍体の金歯も抜き取った、という。

 ユダヤ人達は到着するなり、ナチスの医師たちにより労働に耐えるか否かで分別され、80%がガス室で惨殺されたという。用いられたのは「チクロンB」で、大量の空き缶が陳列されていた。集団絞首台、第2ガス室、銃殺に使われた死の壁、焼却炉を見た。灰や骨は肥料にされた、という。

 飢えと重労働で動けなくなれば直ちに死刑にされた。医学実験も行われていた。
 犯罪者でもないのに処刑された、と言われる。気の毒で、違和感を禁じ得ない。犠牲になった人の数は400万人とも600万人とも言われていたが、詳細は分からない。ニュルンベルク裁判は400万人と認定したが、1995年に「150万人」に改められている。また、これ以外の数値を挙げる研究家や学者もいる。

 何故、こんな非道な犯罪が集団的に、年余にわたって一気に行われたのか?人間はどこまで非情になれるのか?疑問は解けない。
 いま、非情な戦闘集団「イスラム国」が台頭してきている。
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