福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

宗教とは何か2015(2)宗教は理解困難

2015年02月19日 06時19分40秒 | コラム、エッセイ
 2001年9月11日にアメリカ合衆国で航空機を使った4つのテロ事件があり、同時多発テロ事件と称する。 航空機使用された史上最大規模のテロ事件であり、9.11は時代の変節点だったと言われる。ここにも宗教が絡んでいた。

 日本では、その6年前の1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。この事件によって「日本の安全神話は崩壊した」と言われた。1995年は日本の変節点だったという見方もある。

 1995年以降、確かに日本社会は大きく変わった。けれどもそれはサリン事件や同じ年の阪神淡路大震災が変えたのではなく、戦後の日本社会の経済・社会の発達、日本人のメンタリティ等の変遷がもたらした、と言えよう。

 宗教とは何か、オウム事件とは何だったのか、宗教を信じるということはどういうことなのか、私は仏教徒なのか、オカルトとは?・・・、という問いは私の中でずっとくすぶってきた。私にとって宗教に対する勉強は、いつかきちんと取り組まなければならない問題の一つであったが、対象が対象だけに今までは文献読みの範囲にとどまっていた。イスラム国、ホロコースト、オウムの再審裁判などに接して、宗教について考えることができるようになったのはつい最近のことである。私の時間の残り少なさを思うとき、私自身が高齢に達し、自身を含め形あるものはすべて崩れ去る、との考えに近づいたからでもある。逆に、遅きに失したか、とさえ思う。

 私は幼少の頃からどちらかというと宗教的考え方、東洋的無常感に親しみを持っていた、と思う。その背景に虚弱なために常に自分の死が身近だったこと、臨死体験様の現象を体験したこと、恐山のイタコによる予言体験・・等の神秘体験があったこととは切り離せない。
 さらに、自ら医師になって何百人もの死に接したが、私自身の抱く死生観に照らして、その多くの死が自然の摂理からかけ離れた死を迎えていることに対する憂いの感覚、も関連しているように思われる。

 ただ、それを具体的に言語化してこなかった。私の中で曖昧な状態で残していたから、宗教を考える上で自分の位置すらも分かっていなかった。

 人として、魂の救済といった無形の規律や約束事を明快に言葉として語る教祖が出現して、それを言語化し、信じるものが集まれば宗教になる。ブッダ然り、マホメッド、キリスト然りである。これらの偉大な先駆者の言葉は弟子によって記録され、経典になっている。その経典は信者によって、宗教学者によって検討が加えられ、種々に解釈され現代に伝わっている。

 日本でも、古くからつい最近に至るまでも、自らが信じるところを言語化した教祖?があらわれた。その多くは地域的な範囲で止まり、一代限りで消滅していくような小規模な民間的と評すべき新興宗教であった。

 オウム真理教はなかなか理解できない。信者は教祖が語る言葉をそのまま信じた。というよりも盲信した。大学や大学院から教団に入った者が多くいた。それらが教祖の指示に沿ってテロ集団として暴走した。それがよくわからない。
 大量のユダヤ人を殺戮したホロコースト集団にも医師や哲学者などが混じっていた。

 オウムにしろナチにしろ、逆らうと殺されるという背景があったにしろ、オウムから、ホロコースト集団から離れることができた体験者の記録が重要と思うが、それらの資料がとても少なく、残念である。

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