石原都知事が2005年夏から運動を始め、2011年6月に招致の意思表明、2016年開催の候補地選考では最下位で落選。私は落選して当然と喜んだのだが、再び立候補し、2013年9月ブエノスアイレスでのIOC総会で20年夏季五輪開催都市を東京と決定し、私は落胆した。
私は五輪に関心はない。
1964年の東京五輪は受験期で、仙台で予備校に通っていてそれどころではなかった。画像で見たのは翌年夏、大村崑監督による記録映画を新潟の映画館で初めて見て感激した。この画像はさらに10数年後レーザーディスクで購入、じっくり楽しんだ。「東洋の魔女」の異名をとつた日紡貝塚バレーチーム、「マラソン銅メダリスト」の円谷選手をどうしても思い浮かべる。チェコのチャスラフスカの美技も素晴らしかった。
しかし、それ以降、五輪は徐々に変質、理念から徐々に遠くなり、私は次第に興味を失ってしまった。
だから、2013年9月、IOC総会で20年夏季五輪開催都市が東京と決定し、私は落胆した。「どうせ私には関係のないこと」と思ったのを思い出す。
私はそのころの数年間、自分の不注意もあったが、体調を崩し、いろいろ健康上の不調が続いていた。
「アキレス腱断裂手術」、「膀胱頚部硬化症手術」、「肺がんを疑われて経過観察」、「自転車同士の衝突による外傷」、「腸閉塞発症し腹腔鏡手術」、「脳梗塞発症」、「鼠径ヘルニア悪化と手術」・・・などなどである。その当時、「自分は長くは生きられないだろう・・」と考え終活を強力に進めていた。長く納めた年金も「少しでも回収しなければ損・・・」と考え、受領の手続きもした。
2013年の徒然日記を見直した。
今から思えば、そのころ私は若干下向きの姿勢で生きていたのだろう。70歳を迎える前であったが、7年後の2020年の東京五輪を生きて迎えることなど考え難かった。
外来で70-80歳の高齢者10数名に五輪について聞いたところ、ほとんどが「東京に決まって嬉しい。7年後の五輪を楽しみに、その時までは元気に生きていたい・・」と明るくのたまわったのには驚いたものである。
その時に答えてくれた高齢者の半数ほどは五輪を迎えることなく亡くなられたが、可能性が低いと諦めていた私が体調も改善し、8年後の今も生きて五輪を迎えているのは幸運だったと喜ぶべきであろう。
今回の五輪についてはCOVID-19の蔓延の下での開催については政治的に、医学的に興味は尽きないが、競技自体は新聞記事で結果に若干触れるだけである。
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1964年の東京五輪は日本に転機をもたらした。それは明らかである。しかしながらもうその価値は失われている。
2005年夏、それでも多くの日本人は2回目の東京誘致を支持した。五輪神話は熱病のようにメディアで再演され、呪文として機能する。
平成の停滞ムードの中で国民は、過去の五輪の再演によって輝かしい時代を招来しようとした。しかしながら、それは幻想であった。
1964年当時の日本は工業化途上の貧しい国だった。その時代だから価値があった。
沖縄からスタートした聖火リレーは全国を周りナショナリズムの高揚に役立った。当時日米はその関係において転機を迎えていた。1972年沖縄はわが国に返還された。
一方、国内では繊維産業には膨大な女子工員がいて多数の強豪チームが誕生したが、背景には労使関係の問題があり、「東洋の魔女」の輝かしい栄光は、不満のガス抜きの作用を果たしてしまった。
円谷選手は福島の貧しい農家の末つ子、口減らしのために自衛隊に入った。彼は親譲りの律儀な性格を有しており、組織の期待とプレッシャーに耐えかね自死した。
私は五輪に関心はない。
1964年の東京五輪は受験期で、仙台で予備校に通っていてそれどころではなかった。画像で見たのは翌年夏、大村崑監督による記録映画を新潟の映画館で初めて見て感激した。この画像はさらに10数年後レーザーディスクで購入、じっくり楽しんだ。「東洋の魔女」の異名をとつた日紡貝塚バレーチーム、「マラソン銅メダリスト」の円谷選手をどうしても思い浮かべる。チェコのチャスラフスカの美技も素晴らしかった。
しかし、それ以降、五輪は徐々に変質、理念から徐々に遠くなり、私は次第に興味を失ってしまった。
だから、2013年9月、IOC総会で20年夏季五輪開催都市が東京と決定し、私は落胆した。「どうせ私には関係のないこと」と思ったのを思い出す。
私はそのころの数年間、自分の不注意もあったが、体調を崩し、いろいろ健康上の不調が続いていた。
「アキレス腱断裂手術」、「膀胱頚部硬化症手術」、「肺がんを疑われて経過観察」、「自転車同士の衝突による外傷」、「腸閉塞発症し腹腔鏡手術」、「脳梗塞発症」、「鼠径ヘルニア悪化と手術」・・・などなどである。その当時、「自分は長くは生きられないだろう・・」と考え終活を強力に進めていた。長く納めた年金も「少しでも回収しなければ損・・・」と考え、受領の手続きもした。
2013年の徒然日記を見直した。
今から思えば、そのころ私は若干下向きの姿勢で生きていたのだろう。70歳を迎える前であったが、7年後の2020年の東京五輪を生きて迎えることなど考え難かった。
外来で70-80歳の高齢者10数名に五輪について聞いたところ、ほとんどが「東京に決まって嬉しい。7年後の五輪を楽しみに、その時までは元気に生きていたい・・」と明るくのたまわったのには驚いたものである。
その時に答えてくれた高齢者の半数ほどは五輪を迎えることなく亡くなられたが、可能性が低いと諦めていた私が体調も改善し、8年後の今も生きて五輪を迎えているのは幸運だったと喜ぶべきであろう。
今回の五輪についてはCOVID-19の蔓延の下での開催については政治的に、医学的に興味は尽きないが、競技自体は新聞記事で結果に若干触れるだけである。
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1964年の東京五輪は日本に転機をもたらした。それは明らかである。しかしながらもうその価値は失われている。
2005年夏、それでも多くの日本人は2回目の東京誘致を支持した。五輪神話は熱病のようにメディアで再演され、呪文として機能する。
平成の停滞ムードの中で国民は、過去の五輪の再演によって輝かしい時代を招来しようとした。しかしながら、それは幻想であった。
1964年当時の日本は工業化途上の貧しい国だった。その時代だから価値があった。
沖縄からスタートした聖火リレーは全国を周りナショナリズムの高揚に役立った。当時日米はその関係において転機を迎えていた。1972年沖縄はわが国に返還された。
一方、国内では繊維産業には膨大な女子工員がいて多数の強豪チームが誕生したが、背景には労使関係の問題があり、「東洋の魔女」の輝かしい栄光は、不満のガス抜きの作用を果たしてしまった。
円谷選手は福島の貧しい農家の末つ子、口減らしのために自衛隊に入った。彼は親譲りの律儀な性格を有しており、組織の期待とプレッシャーに耐えかね自死した。