東京五輪の開催について中止すべきとの意見もあったが、G7サミットで菅首相が開催を表明したこと、開会まで一月となりもう変更できなくなって、この2週間ほど前からすっかり影を潜めた。
政府五輪関係者は開催一辺倒の姿勢で最後まで聞く耳も持たなかった。
本日8日、JOCとIOC、政府などの5者協議で1都3県の首都圏会場が無観客に決まった。首都圏を中心とするCOVIDの感染再拡大を受け、菅首相は渋り続けていた緊急事態宣言の東京都への再発令などを決定。最終的に無観客へと追い込まれた。
3月に海外観客の受け入れを断念。国内観客数は2週間ほど前に「定員50%以内で最大1万人」としたばかりだった。本日、土壇場で最終的に無観客に決定した。
菅首相は有観客の開催を政権浮揚策と位置付け、その勢いを背景に衆院解散・総選挙に持ち込むつもりだったらしいがこれは無理な話。
東京五輪が政治の道具に利用された。すっかり理念からかけ離れてしまった。政権浮揚とは逆作用になるのではないか。
感染症専門家からは慎重な意見が相次いでいた。政府の対策分科会の尾身茂会長らは当初は「開催の有無を含め検討を・・」としていたが、開催を追認せざるを得なくなって無観客の提言に落ち着いた。
分科会に決定する権限はないのだから言うべき意見に遠慮はいらない。科学的判断として言うだけは言ってよかったのだ。ちょっと遠慮が過ぎる、と思う。
COVID-19が世界で猛威を振る困難の中で開催される、今までにない五輪となる。無観客とはいえ、大規模な国際大会であり感染防止対策は難しいだろう。
大会では、選手ら大会関係者の行動範囲を制限して外部との接触を遮断する「バブル方式」を採用するという。関係者の行動を24時間管理することなどできるのだろうか。関係者が選手村などにウイルスを持ち込めば、ワクチンを打っているとはいえ閉鎖空間で感染が一気に拡大する恐れもある。
4回目の緊急事態宣言下での大会開催が個々人の感染対策に緩みをもたらす。これは当然である。
何しろ、国民には忍耐を強いていながらの開催である。4回目の緊急事態は、国民の立場からはダブルスタンダードと見える。こんな状況で五輪をやるなら何も政府の方針に従う必要はない。行動に移すかは別としても、誰しもそう考えるだろう。
東京五輪を契機に全国、世界に感染が再拡大する状況も発生し得る。そうした事態を引き起こさないため、政府は厳しい安全対策を講じる必要がある。
五輪開催の政治責任は、かつてないほど重いと言わなければならない。
ところで、政治家の責任とはなんだろうか。これを機会に改めて考えなければならない事項である。
政府五輪関係者は開催一辺倒の姿勢で最後まで聞く耳も持たなかった。
本日8日、JOCとIOC、政府などの5者協議で1都3県の首都圏会場が無観客に決まった。首都圏を中心とするCOVIDの感染再拡大を受け、菅首相は渋り続けていた緊急事態宣言の東京都への再発令などを決定。最終的に無観客へと追い込まれた。
3月に海外観客の受け入れを断念。国内観客数は2週間ほど前に「定員50%以内で最大1万人」としたばかりだった。本日、土壇場で最終的に無観客に決定した。
菅首相は有観客の開催を政権浮揚策と位置付け、その勢いを背景に衆院解散・総選挙に持ち込むつもりだったらしいがこれは無理な話。
東京五輪が政治の道具に利用された。すっかり理念からかけ離れてしまった。政権浮揚とは逆作用になるのではないか。
感染症専門家からは慎重な意見が相次いでいた。政府の対策分科会の尾身茂会長らは当初は「開催の有無を含め検討を・・」としていたが、開催を追認せざるを得なくなって無観客の提言に落ち着いた。
分科会に決定する権限はないのだから言うべき意見に遠慮はいらない。科学的判断として言うだけは言ってよかったのだ。ちょっと遠慮が過ぎる、と思う。
COVID-19が世界で猛威を振る困難の中で開催される、今までにない五輪となる。無観客とはいえ、大規模な国際大会であり感染防止対策は難しいだろう。
大会では、選手ら大会関係者の行動範囲を制限して外部との接触を遮断する「バブル方式」を採用するという。関係者の行動を24時間管理することなどできるのだろうか。関係者が選手村などにウイルスを持ち込めば、ワクチンを打っているとはいえ閉鎖空間で感染が一気に拡大する恐れもある。
4回目の緊急事態宣言下での大会開催が個々人の感染対策に緩みをもたらす。これは当然である。
何しろ、国民には忍耐を強いていながらの開催である。4回目の緊急事態は、国民の立場からはダブルスタンダードと見える。こんな状況で五輪をやるなら何も政府の方針に従う必要はない。行動に移すかは別としても、誰しもそう考えるだろう。
東京五輪を契機に全国、世界に感染が再拡大する状況も発生し得る。そうした事態を引き起こさないため、政府は厳しい安全対策を講じる必要がある。
五輪開催の政治責任は、かつてないほど重いと言わなければならない。
ところで、政治家の責任とはなんだろうか。これを機会に改めて考えなければならない事項である。