昭和20年代の信楽では、火鉢や汽車土瓶(お茶用)を作っていましたが、次第に石油ストーブや
電化製品、プラスチック等の工業製品に取って替わる様になり、信楽焼きも衰退して行きます。
今の信楽の繁栄からは想像も出来ませんが、古谷氏の幼少期はそんな状態であったと
言われています。その様な信楽にあって、新しい信楽焼きを目指します。
1) 古谷道生(ふるたに みちお): 1946年(昭和21年) ~ 2000年(平成2年) 享年54歳
① 経歴
1946年 滋賀県信楽町神山に、半農半陶(素地屋)の家に生まれる。
1964年 滋賀県立甲南高校窯業を科卒し、京都府陶工訓練校に入所します。
その後、内田邦夫クラフト研究所において4年間研修を重ねます。
1968年 日本一周陶業地研修(轆轤の賃挽きのアルバイト)の旅を1年9ヶ月掛けて行います。
1970年 独自の窖窯(あながま)を信楽町神山に築窯し、独立します。
1971年 中国国際陶芸展に入選し、日本陶芸展(毎日新聞社主催)にも入選します。
同年 初の個展を札幌丸善画廊で開催します。札幌は日本一周陶業地研修の場でもあった
様で、毎年の様に個展を開いています。
それ以後も、各地で個展を開催し、個展を中心に活躍します。
1982年 「信楽陶芸展」で最優秀賞を受賞します。
1985年 「西武工芸展」で大賞を受賞しています。
1996年 日本工芸会近畿賞を受賞し、 京都府教育委員会奨励賞受賞、
同年 滋賀県文化奨励賞を受賞します。
1999年 東京池袋東武デパートで、25回目の個展を開催しています。
② 古谷道生氏の陶芸
) 窖窯作りの名人。信楽と伊賀に4基の窖窯を持ち、生涯30基以上の窖窯を築いたと
言われています。そして窯の改造は無数にあるとの事です。
a) 日本一周陶業地研修から帰ると、滋賀と三重の県境にある「五位の木」の古窯の調査と
陶片(破片)を蒐集し、それを参考に1970年に地元信楽町神山に窖窯を築きます。
b) 土探し。古窯から蒐集した陶片と同様の土を求めて、各地の土を焼いて試す作業を続け
ます。その結果、紫香楽宮跡地の西方で、真白に焼ける黄瀬戸を見つけます。
c) 「窯に問題が無くても、目指す作品が焼き上がらない時は、土を変えます。それでも駄目な
場合は、焚き方を変えます。」と述べています。
) 古谷氏は、主に信楽焼きと伊賀焼きを手掛けています。
信楽と伊賀は滋賀と三重の県境で接する場所にありますが、土は蛙目と木節粘土による
同じ様な素材です。しかしその表情には差があります。
a) 信楽焼きは、鮮やかな緋色と焦げの壷類(蹲、偏壷など)が多く、伊賀焼きでは、ビードロが
厚く流れた花瓶類が多い様です。
b) 緋色を出す為に、粗目に調節した蛙目粘土を使い、場合によっては、黄瀬土を混入させ
緋色を安定させるとの事です。但し、耐火度は少々高くなります。
c) 壷や花入れ等は、ほとんど紐造りで土を積み上げ、その後轆轤成形の方法を取っています。
この方法は、古窯の陶片を見て彼独自の方法で、窖窯用の造り方を見出したとの事です。
d) 作品は無釉の焼き締めで、窖窯で焼成します。登窯では良い作品は出来ない様です。
e) 引き出しビードロ。 彼は自然釉の流れを調整する為に、高温の窯の中から引き出し
自然釉の流れを確認し、不足の場合には再度窯の中に投入しています。
これは自然釉の流れ過ぎを防ぎ、流れる方向や数を調整しています。
更に、急冷と強還元を掛ける事により、冴えた色に発色するそうです。
) 古谷氏の作品
信楽大壷: 高 44 X 口径 20 X 胴径 50 cm
信楽蹲壷: 高 19.5 X 口径 11 X 胴径 18.5 cm
信楽偏壷: 高 25.5 X 横205.5X 奥行 6.5 cm
伊賀三角花入: 高 25X 径 13 cm
伊賀砧花入: 高 25.5 X 口径 6.5 X 胴径 12 cm
伊賀耳付花入: 高 25.5X 口径 12 cm などの作品があります。