わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸125(竹田 有恒1)

2012-05-26 21:22:58 | 現代陶芸と工芸家達

金の輝きに魅せられ、長年の研究の結果、釉裏金彩(ゆうりきんさい)の技法を確立したのが金沢市

在住の陶芸家、竹田 有恒氏です。現在は息子の恒夫氏が跡を継いで、この技法を発展させています。

1) 竹田 有恒(たけだ ありつね) : 1898年(明治31)~1976年(昭和51)

  ① 経歴

   ) 石川県能美郡根上町下江で、製糸業を営む竹田仁松の次男として生まれます。

      1913年 根上町の助田陶房で下絵付の技法を学びます。

      1914年 九谷焼窯元の川尻晴藍堂にて絵付けの徒弟として、修行を重ねます。

      1917年 東京築地工芸学校、雑工芸科夜間部に入学します。

      1924年 父仁松が息子の為に、屋敷内に仕事場を作ってくれたので、帰郷します。

      1928年 京都の蛇ヵ谷にある初代川尻七平の窯で、絵付師として働きます。

       ここで、染付、陶彫、象嵌などの陶磁器の技術を、身に付ける事に成ります。

      1931年 結婚を機に、金沢市越中町に借家を持ち、ここに上絵付用の窯を築き独立し、

       伊万里風や色鍋島風の食器を焼成します。

      1935年 1938年と商工省展に入選し賞を得ますが、1939年 同展が廃止になり、以後展覧会

       にはしばらく出品せず、陶工として作品の製作に励みます。

      1951年 第八回日本伝統工芸展で、「黄地金彩鉢」が初入選を果たします。

       但しこの作品は、出展の為の輸送途中に破損してしまいます。破損した作品が同展で

       入選した事は一度も無かった事でしたが、新技術の素晴らしさに、修理の上入選させたと

       言われています、この作品が彼の華々しいデビュー作となります。

      1963年 第十回同展で、「金彩萌黄釉鉢」が、第十一回同展で「金彩萌黄釉鉢」が、十二回展

       では「金彩萌黄鉢」が朝日新聞社賞を受賞します。更に日本工芸会正会委員に推挙されます。

      1966年 第十二回日本伝統工芸展で「沈金彩萌黄釉鉢」を出品します。

      1969年 皇居の昭和新宮殿に「萌黄釉金彩花瓶」一対を納入しています。

       (1969年より沈金彩を釉裏金彩と改称します。)

 ②  竹田有恒氏の陶芸

    中国では宋代~明代に、金箔を釉の上に焼き付けて文様にする金襴手の技法が存在しています。

    我が国でも、中国に倣い伊万里金襴手等を生み、更に九谷でも1865年に永楽和全により

    金襴手が作られたのを切っ掛けに、この地で盛んに作られる様になります。

  ) 竹田氏の釉裏金彩の方法は、上記技法と全く異なり、素地に金箔を焼付け、その上に厚く緑釉を

     掛けて焼成する技法です。

  ) この技法で製作すると、黄金色の輝きを押さえ、柔らかく落ち着いた奥ゆかしい色調になります。

     更に、釉で覆われる為、金襴手の様に金が剥がれる事もありません。

     又、釉には細かい貫入が入り、光の屈折と反射により、玉虫の様な微妙で複雑な輝きを発します。

  ) 成功秘話に彼が63歳の時、正倉院の漆の御物の中に、金や銀の薄板を貼った「平文(ひょうもん)

     技法」の装飾方法にヒントを得て、金箔を焼き付ける方法を試み、成功したと言われています。

  ) 磁器の土を使わず陶土を使い、あえて貫入が入る様にしています。

 ③ 有恒氏の釉裏金彩の技法

 以下次回(竹田有恒2、恒夫)に続きます。

  •  尚、当ブログでも「釉裏金彩」に付いて取り上げています。

      興味のある方は、陶磁器の絵付け(釉裏金彩)、2010年1月15日をご覧下さい。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする