朝日焼は、京都市宇治にある窯元で、主に茶陶を中心にした作品を作っています。
朝日焼の歴史は古く、慶長時代(1596~1615年)の奥村次郎右衛門まで遡れるそうです。
遠州七窯の一つで、小堀遠州の指導を受けています。(尚、小堀遠州との確かな繋がりは確認できない
そうです。) 窯は一時途絶えますが、1861年に松林長兵衛によって再興され、現在十五代の豊斎(良周)
が継承しています。(平成7年に襲名します)
1) 朝日焼、十四代松林 豊斎(まつばやし ほうさい): 1921(大正10) ~ 2004年(平成16)(享年83歳)
① 経歴
) 朝日焼、十三代窯元の松林光斎の長男として、京都の宇治で生まれます。
1922 京都市立第二工業学校の陶磁器科を卒業し、国立陶磁器試験場に入所し、同所を修了後
一年間の助手を務めます。この間三回文展に入選しています。
1948年 父の死亡により、朝日焼十四代窯元を継承します。(当時27歳)
1952年 登窯を手始めに、薪による倒焔式平地築と、重油と薪による混焼の窯を、次々に
作ってゆきます。(伝統的に窯元は、窯道楽の傾向が強いそうです。)
又京都では最初のプロパンガスのシャトル式の窯も築いています。
1975年 無煙化(無公害)の登窯を築き、成功を収め、更に窖窯を併設します。
三笠宮妃殿下より「玄窯」の名前と、「豊斎」の印を拝領します。
1978年 東京日本橋三越、大阪三越などで、多数の個展を開催し、翌年には札幌、金沢、高松、
京都高島屋で個展を開催しています。
海外(ヨーロッパ、アフリカ、中近東、西ドイツなど)にも多く視察に出掛けています。
尚、アメリカ現代博物館に、燔師(はんし)箆目大花生が納入されています。
② 十四代の陶芸
) 燔師(はんし)と鹿背 (かせ): 朝日焼で使用している土の種類の呼び名で、この土で作った
作品も同様に呼びます。この用語は朝日焼固有の名称の様です。
a) 燔師の土は、御本(ごほん=釉に丸いピンク色の斑点が出る)が出易い土と言われています。
土は珪砂混じりや黄土、かさ土などが混じっている土です。
b) 鹿背の土で焼成すると、鹿の背中の様な斑模様が現れます。
c) 作品としては、「燔師櫛目水指」(高15 X 径16.8cm)(1982年)、
「燔師茶碗」(高9.3 X 径14.5 X 高台径5.8cm)(1982年)、
「燔師柑子形茶入」(高7.4 X 径7.4 ・口径3.4 X 底径2.8cm)(1982年)。
「鹿背平茶碗・五雲」(高6.8 X 径15・高台径5.4cm)(1977年)、
「鹿背茶碗」」(高7.9 X 径12.8・高台径5.7cm)(1982年)、
「鹿背胴紐茶入」(高10.1 X 径6.7 ・口径3.4 X 底径3.8cm)(1982年)。
) 梅華皮(かいらぎ): 鮫(さめ)の皮の様に、釉肌がざらざらした状態の事です。
粗めの素地で高台や高台脇を削り出すと、削り痕が荒れてきます。
縮み率の大きな釉を掛けると、この部分の釉は「ちじれ」ます。これが茶人には珍重されます。
作品として「梅華皮はぜ釉茶碗・松の声」(高9.5 X 径12.8・高台径5.5cm(1976年)、
「梅華皮茶碗」(高6.4 X 径10.8・高台径4.5cm)(1982年)。平3
) 芋頭水指: 胴と裾の膨らんだ水指を芋頭水指と呼び、古くは南蛮芋頭水指として
珍重されていました。
作品として「三島芋頭水指」(高19.6 X 径18cm)(1982年)、「灰釉櫛目水指」(高17.8 X 17.9)
(1982年)などがあります。
次回(熊谷紅陽)に続きます。十五代松林 豊斎(ほうさい)、本名:良周(よしかね): 1950年(昭和25)以下(熊谷紅陽)に続きます。平成 7年 父隠居の跡を受け 豊斎 を襲名)