滋賀県の信楽焼きは、中世以来六百年余りの長い歴史のある焼き物です。
明治時代以降、火鉢から植木鉢、そして現在、建材(タイルが主)が全生産高の50%を超える程に
なっているそうです。現在の信楽焼の主体は、量産された産業陶器で占められています。
中世~江戸時代には、豊富に存在する地元信楽の土を使い、轆轤挽きした作品を、施釉せずに
窖窯で7~8日間焼成する焼き締め陶器でした。高橋楽斎は、この古い方法を再現し、信楽焼きの名声を
高めます。
初代楽斎は、高橋藤左衛門といい、天保年間(1830~1844)に茶陶の作品で名人と呼ばれていました。
二代目藤太郎は、製陶業を継がず、その子の光之助に三代目が受け継がれます。
1) 三代高橋 楽斎(さいとう らくさい): 1898年(明治31) ~ 1975年(昭和50) 享年77歳
① 経歴
) 滋賀県信楽町神山で、二代楽斎の長男(高橋光之助)として生まれます。
1915年 京都陶磁器研修所で学びます。
1917年 父の引退により三代目を襲名します。
1940年 日本工芸会展で、大臣賞を受賞します。
1941年 商工省より信楽技術保存者の資格認定を受けます。
1959年 現代日本工芸展に出品し入選を果たします。
1960年 日展に入選し、同年ブリュッセル万国博覧会、陶磁器部門でグランプリ賞を受賞。
1964年 滋賀県指定無形文化財、信楽焼技術保持者として認定を受けます。
(同時に、次回紹介する上田直方も認定されます。)、同年 日本工芸会正会員。
② 高橋楽斎の陶芸
中世(13~16世紀)古窯の信楽の大壺などに、素朴で優れた作品が多く存在します。
しかし、近代に成るに従い、茶陶としての水指、花入などは、そのおおらかさや素朴さが
失われてゆきます。楽斎達は信楽本来の姿を求め、古信楽の再現に尽力します。
) 楽斎の作風は、自由で力強い作品になっているのが特徴です。
a) 水指
代表的な作品に「信楽耳付水指」(高17.6 X 径19cm)(1941)。 「信楽南蛮水指」
(高16.1 X 径18.5cm)(1931)があります。
b) 古伊賀(こいが): 信楽に隣接する三重県阿山町丸柱や槙山などに存在する窯場で
焼成された作品で、「古伊賀写花入」(高30 X 径16)(1921)等があります。
基本的には信楽の土と製作方法が似ています。
c) 大壺、蹲る(うずくまる): 「信楽縄目紋大壺」(高28 X 径42.8)(1950)
蹲るは、人が蹲った様な形をした小壺で、茶の湯では花入れ用に使います。
本来は、農作業用の種を入れる壺で、鼠の被害に会わない様に、首に紐を結んで、納屋などの
梁にぶら下げて使用した様です。それを茶人が花入に転用します。
) 茶碗: 「信楽沓形茶碗」(高7.8 X 径14.5、高台径6.6cm)(1947)、
注: 沓形は織部好みの極端に歪んだ形で、語源は公家が履いていた不正四方に近い形の
沓に似ている為に付けられた名前です。
「信楽水の子写茶碗」 (高10 X 径11.2、高台径6cm)(1955)、
注:水の子茶碗は、信楽茶碗の代表的作品です。水の子とは、素地や釉の景色が麦焦がし
(水の子と言う)に似ている事によります。
「黄伊羅保茶碗」」(高7.8 X 径13.3、高台径5.3cm)(1937)、
注: 元は高麗茶碗の一種で、朝鮮半島で焼かれたもを伊羅保と称していました。
語源は、砂混じりの粗土に薄い釉が掛けられ、見た目にイライラした感じに見える為と
言われています。
「信楽茶碗」」(高7.5 X 径11.4、高台径6.5cm)(1940)などの作品があります。
2) 四代高橋 楽斎(本名は光夫(みつお) : 1925年(大正14) ~
滋賀県甲賀市信楽町で、三代高橋楽斎 の長男として生まれます。
1976年(昭和51) 四代目を襲名します。
日本橋三越、高島屋、 神戸そごう等の他、海外でも多くの個展を開催しています。
作品は、茶道具を中心に、向付や徳利、ぐい呑み等の懐石料理用の食器も作っています。
3) 高橋 春斎(しゅんさい)本名は昭二(しょうじ): 1927年(昭和2)~2011年(平成23)享年83歳
滋賀県甲賀市信楽町で、三代高橋楽斎 の次男として生まれます。
1949年 京都職業訓練所に入所します。
三代楽斎に師事しますが、1968年 独立して 春斎窯を築きます。
日展 、日本伝統工芸展 等に連続入選を重ねます。 更に、日本工芸会近畿展、 朝日陶芸展
など多くの展示会で活躍し、連続入選を果たしています。
1995年 滋賀県指定無形文化財保持者に認定されます。
次回(四代上田 直方)に続きます。