大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

長州 萩の旅(奥平謙輔・前原一誠篇)

2011-11-22 | 掃苔

古都というべきなのか、時代から取り残された町と云おうか、長州藩の城下だった萩の町を回った。司馬遼太郎の街道をゆく第1巻は「長州路」。「天誅だぁ」という子供のあそびが、昭和の初年ごろまで、山口県下のどの町でも村でもおこなわれていた。これが薩摩へいくと「チェスト!関ヶ原」という掛け声になる。この短い文章が長州藩と薩摩藩がもつ属性を的確に表しているように思える。ここも40年前に訪れたが、毛利家菩提寺の東光寺と松下村塾と萩焼のぐい飲みしか記憶が残っていない。今回も駆け足で萩の町を通り過ぎたが見どころはたくさんあった。

 

東光寺、毛利家墓所、吉田松陰の墓所・誕生地・幽囚の旧家、高杉晋作草庵跡地顕彰碑、玉木文之進旧宅、伊藤博文旧宅、吉田稔丸誕生地、松陰神社、松下村塾、大照院、毛利家墓所、奥平謙輔墓、前原騒動慰霊碑、周布政之助旧宅地、奥平家長屋門、前原一誠旧宅地、弘法、寺前原一誠墓、天樹院毛利家墓所、旧毛利家別邸表門、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、野山獄跡、岩倉獄跡と内容を別にすれば廻った所だけ列挙するとすごい数になった。

会津では長州藩士奥平謙輔には特別の感情を持っている。戊辰の戦いの後、会津藩秋月悌次郎らは会津の将来を託する人材として会津の子弟を奥平謙輔に預けた。のちの東京帝国大学総長山川健次郎や戊辰の戦いで父親小川傳吾(号清流)に「死ねや直道死ねや直道」と送り出されたのが、のちの工兵大佐小川亮である。この奥平謙輔の墓を毛利家墓所でもある大照院に訪ねた。

 

大照院奥平家墓域

 

(中央、奥平謙輔墓、 弘毅齋源居正墓 奥平氏枝葉合葬)

 

奥平家墓域は大照院庫裏右側の駐車場脇の道を上がって二股を右に進み、2枚目写真の所の右墓域の中央の石段を上がると左側にブロックで囲まれたところが奥平家墓域です。

  

右、奥平家墓域から写したもの

 

奥平家長屋門

 

萩でやたら目に付いたのが椿という地名。椿という苗字も椿三十郎だけだと思ったらとんでもない話だった。徳川幕府により交通に不便な日本海に押し込められた毛利家の地にも、昔、若狭の八百比丘尼が玉椿を持って諸国に椿を植えてまわった話のように、信仰を運ぶ旅人が神ノ樹として植えた椿がその土地に根付いて地名として残っていったのだろうか。

 

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱に続き木戸孝允と対立して萩へ帰郷した兵部大輔前原一誠は奥平謙輔らと明治九年(1876)挙兵した。前原は親交のあった思案橋事件(千葉県庁襲撃事件)の元会津藩士永岡久茂とも連絡を取り合っていたという。この前原騒動慰霊碑(萩市椿2094-3道前の川沿い三角地)と弘法寺の前原一誠墓にも寄った。

 

前原騒動慰霊碑(この碑は、地元の方が、この激戦地で戦死した方々の霊を慰める為に建てたと言われています)

前原一誠旧宅地

 

弘法寺と前原一誠墓

 

 

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2 コメント

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奥平について (Unknown)
2011-12-03 09:09:28
奥平にゆかりのある者ですが、萩市には長州藩士としての奥平家は本家と分家2家の3家があり、奥平謙輔の家は分家の一つとなります。大照院の奥平家墓所は本家が管理しています。奥平長屋門には今でも本家の方が実際に住まわれています。また萩の奥平家の宗家は中津10万石藩主の奥平家ですが、約550年度前に宗家から分れたものです。以上、ご参考になれば幸いです。
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奥平家のこと (大佗坊)
2011-12-04 09:17:07
ご教示、ありがとうございます。
大照院の奥平家墓所は東北や関東から遠方で、しかも墓所の場所がはっきりせず、墓参することが難しかったので、今回、奥平家墓所までの道筋を掲載させて頂きました。中津奥平氏が元の宗家ということは、遠祖は武蔵七党の児玉党ということだろうと思います。
奥平長屋門に墓所を管理している本家の方がお住まいと知り、なにかホッといたしました。
貴重な情報、まことに有難うございました。
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