大佗坊の在目在口

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旧富山陸軍墓地から長慶寺五百羅漢へ

2020-11-12 | 

長岡御廟のある八ヶ山の南側、県道208号線に面して旧富山陸軍墓地があった。


広々とした墓地の入口に平成九年七月建立された「富山県忠霊塔の沿革について」の碑があり、「明治四十一年、歩兵六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております」とあった。北野家文書長岡村地図によると、御廟の西側に隣接したかなり広大な陸軍埋葬地(1500坪)だったと思われる。昭和十六年に建設、昭和十二年よりの日華事変関係戦没者を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬している忠霊塔、昭和七年建立、上海事件陣歿者合葬碑、昭和十二年建立の第一次満州事変従軍した歩兵大三十五連隊戦没将兵合葬碑、大正十四年建立、金沢陸軍墓地合葬日清日露戦死者の陣歿者病死者合祀碑などで、個人の墓はなかった。金沢の前田家の埋葬地である野田山の一角にある金沢陸軍墓地と同じ造りになっていた。歩兵六十九連隊というのは、日露戦争後の軍備拡張により、師団増設と編成が行われた。会津若松の歩兵第六十五連隊から歩兵第七十二連隊までと岡山騎兵第二十一,久留米騎兵第二十二連隊が増設された。富山の歩兵第六十五連隊は明治四十一年五月十日に軍旗授与されている。この時の勅語は「連隊ノ為軍旗一旈ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ我帝国ヲ保護セヨ」というものであった。この軍旗勅語は連隊の何所に保管していたのだろう。
旧富山陸軍墓地から新幹線を挟んで西方向、五艘地区の呉羽丘陵の東斜面中腹にある長慶寺に寄った。山号は法羅陀山、曹洞宗のお寺で、天明六年(1786)、日輪当午禅師により開山したという。本堂横の階段状の安置してある五百羅漢は江戸後期の越中廻船問屋の黒牧善次郎が五十年かけて寄進したものだという。






ご住職が不在で本堂にある大仏の首を見ることはできなかった。山の中で五艘と云う地名も珍しいと思ったら、五艘地区は神通川の傍までの広い範囲で、戦国武将佐々成政が五艘の舟を設けて商人の「渡し舟」の船賃を徴収したことから、「五艘の渡し舟」に由来するという。五百羅漢って何だろうと思ったら、釈迦の死後、聖典の編纂に集まった五百人の弟子を五百羅漢と称して、羅漢とは悟りを開いた高僧のことをだという。長慶寺の五百羅漢は昭和二年に大修復を行って新しく感じるせいか、京都の愛宕念仏寺の羅漢石像と比べると、少し迫力に欠けている様に思われた。
京都愛宕念仏寺

 
長慶寺の傍にある富山市民俗民芸村にある考古資料館の前に佐々成政剃髪阯の碑があった。

説明板によると「天正十三年(1585)富山城主佐々正成が、豊臣秀吉の先鋒前田利家の軍に敗れた。その時、成政がこの地で髪を剃り僧衣を着けて服従の意志を示したとされる。当地の字名を道心山(仏道を信仰する)といっているのは、それに由来するらしい」とあった。富山市史は天正十八年三月「成政抗する能はず遂に祝髪緇衣、安寧坊の営に来り搓手蒲伏して降る」と記載している。さすが、柴田勝家の与力ながら秀吉側で佐々正成と戦った前田家で栄えた城下町の市史だけあって、搓手蒲伏(サシュホフク)とは強烈な表現だった。祝髪緇衣(シュクハツシイ、出家して黒い色の服)、髪を剃り出家するのはお祝いなのかと思ったら、「祝」は短く切る意だという。

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