加賀藩八家の筆頭家老本多氏の菩提寺、大乗寺を訪ねる。
東香山大乘寺は、山号を古くは椙樹林、後には金獅峯と号した。開山は曹洞宗大本山永平寺開祖道元禅師、その一番弟子の懐弉禅師、またその弟子の徹通義介禅師で、大本山總持寺を開創した瑩山紹瑾禅師は大乘寺の第二世です。大乗寺は石川県で一番古い曹洞宗のお寺さんで、福井県大野の薦福山宝慶寺、熊本県熊本の大梁山大慈寺、京都府宇治の仏徳山興聖寺と共に大本山永平寺の四門首の一に数えられている。
曹洞宗の古刹らしく大乘寺の伽藍は、曹洞宗寺院建築の典型的な七堂伽藍の配置を示しており、仏殿は国指定重文、総門・山門・法堂は石川県の指定有形文化財となっている。
大乗寺は金沢の市街地から少し離れた野田山の中腹に在るせいか、訪れる観光客もなく、曹洞宗の大乗寺専門僧堂として鬱蒼とした静寂さを保っていた。
加賀八家の本多家の墓所は新旧、二ヵ所に分かれている。大乗寺の墓所も広くてウロウロしてしまった。山門の手前の横道を入ったとこに本多家旧墓所、
総門の横奥に本多家新墓所がある。
本多家の新墓所の手前に日本最後の仇討「十二義士の墓」というのがあった。
「加賀前田藩は幕末より明治に移る時 藩内の意見が対立した 筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺された 明治四年十二人の家臣はその仇討ちを果したが翌年政府より切腹を命ぜられる 本多家墓地前に十二義士の墓として供養す」と石柱が建っている。
この事件は、明治二年、加賀八家である加賀藩前田家執政本多政均が城内二ノ丸で藩士、山辺沖太郎・井口義平に刺殺された。この首謀者二名は明治四年に切腹、明治五年、暗殺にかかわった岡野悌五郎・管野輔吉・多賀賢三郎を本多家家臣が金沢と彦根で殺害し、仇討を果たした。仇討の実行犯の本多家家臣、本多弥一、鏑木勝喜知、富田総、吉見亥三郎、西村熊、矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、柴木喜内、藤江松三郎の十二人が切腹となった。本多政均の暗殺理由は何だったのだろうか。明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑な対立が本多政均の暗殺なったのか。県史にある首謀者二名の口上書や本多家家臣の復讐趣意書などを読んでも事の本質は理解できなかった。この事件を扱った松本清張の短編小説「明治金沢事件」では廃藩置県による直臣と陪臣の対立として描いている。この事件が契機となって、明治六年、明治政府は「復讐厳禁」を布達した。
近くに陸軍大将で総理大臣を務めた林銑十郎家の墓所や上杉謙信の能登侵攻で滅亡した能登七尾の守護畠山氏の墓所 があった。
参考:太政官布達 明治六年二月七日
人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固ヨリ擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往往有之甚以不相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルル者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事
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