大佗坊の在目在口

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いわき 長源寺

2012-09-13 | 掃苔

いわき市胡麻沢の長源寺を訪ねた。数年前、壬生の鳥居家菩提所の常楽寺を訪ねたときから、特に理由があった訳ではないが、一度訪ねてみたかった。

 
淵室山長源寺は、旧磐城女子高校(現磐城桜が丘高等学校)に隣接する曹洞宗の寺で鳥居家の菩提寺でもある。山門横にあった長源寺の由来によると「慶長五年(1600)徳川家康の命をうけ京都郊外の伏見城を死守した鳥居彦右衛門元忠は(下総国矢作四万石)、家人三百五十四名とともに、石田三成らの数万の大軍に包囲され、伏見城を血に染めて討死した。時に八月一日であった。慶長七年(1602)元忠の勲功によりその子忠政は磐城平城主に封ぜられ十万石(のちに竹貫・上遠野二万石を加え十二万石)を賜った。これより先、将軍家は元忠の伏見城の忠死を賞し、菩提のため一寺を磐城胡麻沢に建てて長源寺と号し、百石の黒印を賜った」とあった。一方、鳥居家は最上家の騒動により鳥居忠政が山形に入封したが、鳥居忠恒が歿し、寛永十三年(1636)鳥居家改易のあと、高遠から山形に十七万石の加増を受け転封した保科家は(後の会津松平家)石高に見合う家臣団強化に改易になった最上鳥居家旧臣の召し抱えを行った。長源寺の鳥居家の墓所に向かう途中に一基の古びた墓碑が目に付いた。
(左 鳥居家の墓所)
 
近づいて見たら、会津人萱野の文字が! 後側には四男三淵とあった。驚きで汗がいっぺんに噴き出た。
 
墓は、会津人萱野櫻所妻之墓とあり裏に明治二十五年四月十日卒、四男正七位勲六等三淵隆衡建之
(最後の「之」は不確実。文字なのか石の傷なのか判断できなかった)。
三淵隆衡の兄は戊辰の戦いで会津藩の責任を一身に負い自刃した会津藩家老萱野権兵衛、隆衡の子三淵忠彦は初代最高栽長官となっている。このお墓は権兵衛、隆衡兄弟の母親ツナの墓碑だった。西白河郡長三淵隆衡が白井遠平の後任として明治二十三年四月から同二十七年九月まで菊田・磐前・磐城の郡長を務めている。その任期中の二十五年に母親が亡くなり長源寺に墓を建立したものと思われる。三淵隆衡の後任は斗南藩権大属を務めた町野重正が二十九年十一月まで、さらに、(明治二十九年四月一日、菊田・磐前・磐城の三郡が合併して石城郡創設)二十九年十一月からは会津藩番頭沼澤九郎兵衛弘通の次男で伊達郡長の沼澤七郎が石城郡長に任命されたが故あって赴任せず非職となっている。鳥居家の墓所をウロウロしていたら、墓所の左後ろに、向きの違う墓が目に付いた。そばに行ってみると南摩昌綱墓とあった。
 

会津藩士南摩氏と通字が同じで裏の陰刻を撮るのに女郎蜘蛛と大格闘になった。南摩昌綱墓、陰刻は
「君諱昌綱稱主計□泰 
綱君弟明暦元年五月 
二十七日卒法謚曰南 
室涼間禅定門」
碑文に昌綱は泰綱弟とあった。要略会津藩諸士系譜によると南摩吉兵衛泰綱の嫡男南摩右衛門俊綱が寛永十七年、羽州最上にて召出され四百五十石で保科家に仕えたとある。南摩家は磐城から羽州最上に転封した鳥居氏に仕えたと思われる。これで、昌綱と会津南摩家が結びついた。ちなみに東京大学教授となった南摩綱紀は俊綱から数えて九代目の舎人助綱雅の子(通称三郎、八之丞)。あまり知らなかったが、磐城に戊辰役西軍戦死者の官修墓地が数多く在ったのに驚く(磐城郷土史)。

会津藩士 三淵隆衡(小田原霊寿院)                            いわき長源寺南摩家

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