大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

下関紀行

2011-11-18 | 

長州上陸の第一歩は下関から始めた。昨年も同じ時期に下関に来たが、門司港から船で渡り、唐戸市場で飲んでまた船で門司港に戻ったので、ここの観光は四十年振りになる。その時、赤間春帆楼でパサパサのフクを食べた記憶しか残っていない。今回、この下関が高杉晋作・奇兵隊、奇兵隊・高杉晋作とこんなに賑やかだったとは知らなかった。幕末に「凡戦者、以正合、以奇勝、戦勢、不過奇正、奇正之変、不可勝窮」という奇兵隊の「兵者詭道也」に正々堂々の戦いでと云っている場合ではなかった。地方に行くと、なるたけ招魂場には寄るようにしている。桜山神社のある日本初の招魂場、桜山招魂場を訪ねた。

 

 ここは主として奇兵隊、報国隊の人々が祀られていて、今はその数391柱の銘碑が建てられている。神霊碑の真ん中は台座が二段の「松陰吉田先生神霊」、むかって右が「高杉晋作春風神霊」、「入江直八養直神霊」、左に「久坂義助道武神霊」「吉田稔麿秀実神霊」と並んでいます。桜山顕光録(復刻版)によると、二列広瀬徹和義と五列廣世徹和儀は同一人としているが、さらに詳しく調べると、六列久松と奇兵隊付郷侠組久松(同日傷死)、同六列奇兵隊小者利吉と奇兵隊別当利吉(顕光録解説では同日病死、碑文は異なる)と数名の重複碑があるみたいで、祭祀者数は391名から388名の間ということになる。 

 

高杉晋作は功山寺挙兵後、厳島神社入口横にあった萩藩新地会所を襲撃し、一時屯所として立て籠もった了円寺に向う(桜山神社裏側の道からすぐ)。了円寺本堂横の小部屋の丸柱に二箇所、斜めに切られた形で残されている刀痕を見せてもらった。この刀痕、見る人が見るとかなりの技量とのことだがよくわからなかった

 

海を司る神霊を鎮めるために、嚴島三神を祀って安全と恵みを祈願している長門国嚴島神社で嫌なものをみた。ここは高杉晋作が戦勝祈願をし、小倉口戦いで小倉城から略奪した大太鼓を奉納した。この神社は略奪した大太鼓を自慢げに鐘楼に吊り下げしかも毎年9月の第一土曜日に小倉戦争戦勝記念として「太鼓祭」を催しているという。今、小倉側が返還請求して神社側がそれを断っているという。ここの宮司は戦利品を飾ってなんの安全と恵みを祈願しているのだろう。

 

 

高杉晋作終焉の地から奇兵隊のパトロンでもあった白石正一郎旧宅跡を通る。   

壇ノ浦の砲台跡に寄ってから安徳天皇阿弥陀寺陵から我家遠祖とおぼしき平家一門の平家塚にお参り

  

 

 

馬関攘夷戦の口火をきった亀山砲台、最後に白石正一郎が建立した鳥居のある大歳神社に行く。ここの石段はきつかった。後日、久坂玄瑞が各地の浪士等と結成した光明寺党結成の地である光明寺、奇兵隊の一時本陣となった東光寺にいった。 

              

 

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