大佗坊の在目在口

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小田原宿本陣清水屋

2014-09-22 | 小田原

小田原市の古い町名で東海道沿いの小田原総鎮守松原大明神の近くに、戦国時代の小田原城下町の中心であった宮前町がある。

ここは東海道沿いの通町で、江戸時代は本町と共に宿場町の中心で、本陣一、脇本陣二、旅籠二十二あったという。元治慶應年間の宿割帖によると、御本陣一軒、相本陣三軒(清水屋彦十郎・久保田甚四郎・片岡永左衛門)、脇本陣四軒(とらや三四郎・福住や吉助・小清水屋伊兵衛・嶋や太郎三郎)、旅籠宿屋は百余軒あった。

中村静夫氏作成小田原宿中心部町割

本陣の清水家は、伊豆国下田の小田原北条氏の家臣清水上野介を祖としているという。新編相模風土記稿によれば「宮前町旧家金左衛門、本陣なり、清水を氏とす、祖先上野助正令(古戦録・信久、松窓漫録・正次に作る)は北条氏仕ふ、天正十六年、豆州下田の城主となる」とある。さらに古戦録に「正令の弟右近将監正豊、正令の子太郎左衛門と共に小田原城内にて戦死す、正豊の子但馬正房は、文禄中郡中清水新田に潜居す、此後当所に移住し慶長中町大名主を務む」とある。「稲葉家永代日記」に、この本陣清水家に承応二年(1653)将軍補佐役保科正之が宿泊とあった。この上洛のことは飯沼関弥発行会津松平家譜に「承応二年八月十二日、大将軍右大臣に任ず、正之に命じ代りて京都に上り拝謝せしむ」とあり、この時「正之随従の士卒は騎士七十四名、小銃百二十挺、弓五十張、長幹槍百條、持筒三十挺、持槍三十挺、手筒五挺、大小槍合九條、薙刀一條、馬百十四蹄、従僕を合せて四千余名、行装皆樸野なり」とある。樸野(いなかじみて素朴)で質素だが威風堂々とした大行列で京都に上洛したことになる。四千余名の行列を2列縦隊として、騎馬や刀の長さが二尺以上(一尺約30cm)ある事を考えて、一人1,5mとして行列の長さが大雑把に3K、江戸城から芝増上寺まで約3Kだから先頭が増上寺に達した頃、行列の最後尾が江戸城を出たことになる。という事は先頭が小田原本陣清水屋に到着した頃にまだ酒匂川を渡れない人数がかなりいたことになる。この大行列は、どのような順で川渡りをしたのだろうか。正之は十月十日に参内し天顔を拝し、二十七日に無事江戸に戻っている。幕末時、本陣が大清水、隣の脇本陣を小清水と呼んでいた。(中村静夫氏作成山田彰夫写)

明治元年、明治天皇行幸のおり宿泊したのが清水本陣で、いまこの本陣跡は明治天皇宮ノ前行在所跡として小田原市史跡に指定されている。
 
その後、本陣と脇本陣を合せて脇本陣の後に古清水旅館として開業、平成の初めまで営業を続けた。現在は旅館があった場所に高齢者専用賃貸住宅を建て、その2階に「脇本陣古清水旅館資料館」が設けられている。しかし慶應三年晦日の大火、大正十二年の関東大震災、太平洋戦争の空襲で多くの古文書等を失ったものの、慶応戊辰の年前後の日記など貴重な記録が残っている。
 
ビルの屋上から小田原城を写させてもらった。

清水家の菩提寺の蓮昌寺を訪ねた。
  
蓮昌寺縁起によれば小田原城主北条氏直公の家臣であった二階堂資朝夫妻により開創され、慶長十七年(1621)池上本門寺より実相院日清上人を迎え、開山されたという。本堂の横すぐのところに、大清水家、古清水家先祖の墓がある。 
 
大清水家墓域の一基に太祖清蓮院殿前上野吏日厳大居士俗名清水上野守源正令を始として清水右将監源正豊、清水但馬源正房が彫られていた。
     

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