ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

あなたの言う「日本を取り戻す」の中に、沖縄は入っているのですか?

2015年04月27日 | 日本とわたし
家猫の下の世話騒動で、パソコンの前に座る時間も体力も気力も失せてしまっていたこの10日間。
なのですっかり古い記事になってしまいましたが、大事なことなので書き残しておきます。

さて、こちらに安倍氏が来ているんですね。
TPPに決着をつけることはできないだろうし、歴史観についてどんなスピーチをするのかに注目が集まっています。
また、得意技のトボケた言葉を連発させるのでしょうか。

で、その安倍氏に、
「オバマ大統領へ沖縄県知事はじめ、県民は、辺野古移設計画に明確に反対しているということを伝えていただきたい」とお願いした翁長知事。

多分、頼んでいる最中からもう、諦めておられたのではないかと思います。
なんせ、国会の議論より米国との合意が大事!
というか、そもそも国会というものが何であるかも理解できていない、議論もできないような男が、首相という役職に就いてしまっているのですから、
頼んでも無駄なことは重々承知で、けれども一応、せめて形として残しておこうと思われていたのではないでしょうか。



知事発言が突然非公開に 官邸が3分で打ち切る
【沖縄タイムス】2015年4月18日
http://www.okinawatimes.co.jp/photo_detail/?id=112125&pid=571286

【東京】
翁長雄志知事と安倍晋三首相の初会談で、官邸側は、沖縄県側と約束した知事の冒頭5分の発言時間を打ち切る形で切り上げ、知事の発言途中で報道陣を退室させた
県側は、事前に5分ずつと約束しており「あれはルール違反」(県幹部)と不満の声も出ている。

報道陣に公開された会談冒頭は約6分。
首相が「辺野古移転が唯一の解決策」を強調して、2分50秒発言した。
続いて知事が、発言メモ4枚のうち2枚目を読み上げたところで、官邸スタッフが「報道、退室」と指示
公開された知事の発言時間は、3分13秒だった。

県幹部によると、会談の事前調整で、県は会談を全部公開するよう求めたが、
調整の上、会談は30分で、冒頭5分ずつの発言を公開すると約束。
発言順は知事が先だったが、17日朝に官邸側が、「総理から」と変更を申し入れ発言時間は「5分ですよ」と念押しがあったという。

一方、菅義偉官房長官は、会談後の会見で、発言時間が事前の調整と異なると記者団に問われ、
(約束が)何分であったかは分からない。
お互いに話をして時間がきたので切らせていただいた。
官邸ではそういう形で行っている
」と説明、県と異なる見解を示した。

発言を事実上阻まれた格好になった知事は会談後、非公開になった発言内容を記者団に紹介、発言メモも報道各社に配るよう、県職員へ指示した。
辺野古新基地反対の知事メッセージを警戒し、メディアに「画」を撮られないよう、官邸側が意識したのではないかとの指摘も上がっている。



官邸が国民に知らせたくなかった、翁長知事・安倍首相会談全文(冒頭発言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/43679699.html

■安倍晋三首相(2分50秒)

どうもお久しぶりです。
ようこそ今日は官邸においでいただき、今日はせっかくの機会でございますから、率直に意見交換をさせていただきたいと思います。

私は、沖縄というのは、アジアのまさに玄関口であり、高い優位性と可能性があると思っています。
その中において沖縄の振興・発展は、日本にとって大変重要なことであり、まさに国家戦略として、さらにこれは進めていきたいと思っています。

今進めています(那覇空港の)第2滑走路も含めまして、振興策をこれからも力強く進めていきたいと思っています。

同時に、戦後70年においてもまだ、沖縄に米軍基地負担、大きな負担をお掛かけしているという状況がございます。
その中において、少しでも負担の軽減をお約束させていただきたいと思います。
普天間(飛行場)の、一日も早い危険性の除去・撤去は、これはわれわれも沖縄も、思いは同じであろうと考えています。

その中において、われわれといたしても、一歩でも二歩でも進めていかなければならないという中におきましては、
辺野古への移転が唯一の解決策である、と考えているところでございまして、
これからも、われわれ政府が丁寧なご説明をさせていただきながら、ご理解を得るべく努力を続けていきたいというふうに思います。

同時に、嘉手納(基地)以南の返還もスタートしている状況でございますが、
こうした米軍施設・土地の、沖縄への返還を順調に進めながら、沖縄の発展に生かしていきたい、こう考えている状況であります。

本日は、沖縄の皆さまの、まさに思いを代表していただきまして、知事から率直なお話も伺いながら、
沖縄の未来をつくっていく上においても、政府としても、一緒に歩みを進めていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。


翁長雄志知事(3分13秒)

あらためましてこんにちは。
昨年12月に、沖縄の知事に就任しました翁長です。
よろしくお願いします。
安倍内閣総理大臣におかれましては、本当にご多忙の中ですね、お時間を頂戴いたしまして、心から感謝を申し上げます。

また冒頭では、沖縄の経済、あるいは将来の可能性というのにも触れていただいた。
アジアのダイナミズムが、沖縄に本当に大いに来ていて、日本のフロントランナーとして、経済というものを頑張っていこうという状況の中で、
基地問題というのが非常に大きな課題となっていますので、今日は、普天間基地の辺野古への移設を中心にですね、お話しさせていただきたい。

総理も官房長官も、16年前、当時の稲嶺(恵一)知事・地元名護市長も、辺野古基地を受け入れたとおっしゃっていますけれども、
しかしながら稲嶺知事は、
代替施設は軍民共用施設として、そして米軍による施設の使用については15年の期限を設けることを条件として、受け入れを認めたわけです。

それから、岸本(建男)名護市長は、日米地位協定の改善、それから施設の使用期限、それから基地使用協定等の前提条件が満たされなければ、容認は撤回すると言っておりました。

当時の政府は、平成11(1999)年12月、稲嶺知事と岸本市長はこれを重く受け止め、米国政府と話し合う旨、閣議決定を認めました。
しかし、その閣議決定は、平成18(2006)年に、沖縄県と十分な協議がないまま廃止されました

従って、16年前に、知事や市長が受け入れを決めたというのは、前提条件がなくなったことで受け入れたというのは私たちとしては間違えだ、というふうに思っています。

そして政府は今、普天間飛行場の県外移設という公約を、失礼な言い方かも知れませんが、かなぐり捨てた前知事が、
埋め立てを承認したことを錦の御旗として、辺野古移設を進めておられますが、
昨年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院選挙は、前知事の埋め立て承認が争点でありました。

全ての選挙で、辺野古新基地反対という圧倒的な民意が示されたわけであります。
沖縄は、自ら基地を提供したことは、一度もございません
普天間飛行場も、それ以外の基地も、戦後県民が(捕虜)収容所に収容されている間に、(土地が)接収された
または、居住場所をはじめ、銃剣とブルドーザーで強制接収され、基地造りがなされたわけであります。

自ら土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから、沖縄が負担しなさい
嫌なら代替案を出せと言われる。
こんな理不尽なことはないと思います。

(はい、報道は退室-と官邸スタッフが打ち切る)


■非公開部分

■翁長雄志知事 

安倍総理が2度目の政権を担ったとき、「日本を取り戻す」という言葉がありました。
私はとっさに、そこに沖縄が入っているのだろうか、と思いました。
戦後レジームからの脱却ともおっしゃってましたが、沖縄に関しては、戦後レジームの死守をしているかのようであります。

安倍総理にお聞きしたいと思います。
ラムズフェルド米国防長官が12年前、
普天間基地は世界一危険な基地だ」と発言し、
菅官房長官も、
普天間の危険性除去のために辺野古が唯一の解決策」とおっしゃっております。
辺野古基地ができない場合、本当に普天間基地は固定化されるのか、お聞かせ願いたいと思います。

普天間飛行場の5年以内の運用停止について、仲井真弘多知事は県民に対し、
一国の総理および官房長官を含めて、政府としっかりやるとおっしゃっている。それが最高の担保である」と説明していました。

5年以内の運用停止は、きょうまでの状況を見ますと、辺野古埋め立て承認というハードルを越えるための空手形ではないか、と危惧しているところです。
総理ご自身から、5年以内運用停止を約束できるか、お聞きしたいと思います。

私は、沖縄にある米軍基地や米国政府の責任者から、「辺野古の問題は日本の国内問題だ」とよく言われます。

われわれ県民から見たら、米軍基地の運用について、日本政府がほとんど口を挟めないことをよく知っていますから、
辺野古の問題についても、県民からは実感として、県民と米軍、県民とアメリカ政府との問題だ、とも思えます。

ですから、私も近いうち訪米をして、県民の思いを、米国政府、シンクタンク等、さまざまな方々に訴えようと思っています

このまま政府が、地元県民の理解を得ることなしに、辺野古埋め立てを強行するようであれば、
私は絶対に、辺野古への新基地を造らせない
ということを、改めて申しあげたいと思います。

安倍総理には、かたくなな固定観念に縛られず、まずは辺野古への移設作業を中止することを決断され
沖縄の基地固定化の解決・促進が図られることを期待しております
訪米した際にはオバマ大統領へ、沖縄県知事はじめ県民は、辺野古移設計画に明確に反対しているということを伝えていただきたい
よろしくお願いします。

嬉しいお客さま

2015年04月27日 | 家族とわたし
大津時代の大親友Wちゃんの息子T矢くん、次男くんの幼なじみでもある彼が、日本から遊びに来てくれました。
うちの中は猫たちのことでとんでもないカオスではありましたが、こういう時こそこんなサプライズがありがたい!


数年であれ、生まれ育った土地(三つの県の境)から、事情をちゃんと理解できないまま、遠く離れた大津に連れて来られた息子たち。
散々断られ続けてほとんど諦めかけた末に、やっと借りることができた古い町の、元置屋だった長屋の近くに、その幼稚園はありました。
自由教育というか、型にはまらず、子どもたちの自主性をまず第一に考えてくれる教育方針は、過疎の田舎のそれとは全く趣が違い、とても興味深いものでした。
そこに、T矢くんも通っていたのでした。

初めてT矢くんのご両親を遠目から見た時は、ああ、わたしとは全く違う世界に暮らしている人たちなんだなあ…などと思っていました。
実際に、文字通り夜逃げをしてきたわたしたちには、余裕などというものは全く無く、生活用品や家具のほとんどは、大型ゴミの山の中から見つけて持ち帰った物ばかり。
食料も、市場の売れ残りをこっそりいただいたりするような生活をしていたので、どの人もみな裕福で幸せに見えたものでした。
なので、友だちとして付き合うようになるまでは、そこそこ時間がかかりました。
もちろん、友だち付き合いを始めてからも、うちの経済はまだまだ火の車だったのですが…。

仲良くなって、いろんな話をして、長い時間を一緒に過ごしてきました。
その中にはトンデモ?!な事件も数々あって、だから思い出話は尽きません。

8年間の大津時代に終止符を打ち、こちらに移ったのが15年前の4月。
暮らしていた家を空け、引っ越しまでの数日間、居候をさせてもらっていた母の家からJRの電車に乗り、窓の向こうを流れる桜吹雪をぼんやりと見つめていた時のしみじみとした寂しさを、
関空まで見送りに来てくれたT矢くんと親友Wちゃんには見せまいと、片意地を張っていたわたし。
いろんなことが思い出されてきます。


「わ~久しぶり~!」
「あ~おばちゃんや~!」

懐かしいT矢くんの「おばちゃん」が聞けて、さっそくウルウルしそうなわたし。
こんなおばちゃん相手に、いろいろと話をしてくれる、それはそれは心優しい青年です。

「おんなじ匂いがする」
「え?」
「大津の時の家とおんなじ匂い」
「まさか…全然家も違うのに…」
「でも僕、大津の家に入った時にいっつも匂ってた匂い、はっきり覚えてるから。それとおんなじやから」

T矢くんの記憶力はすごいのです。
家の横の路地と畑の間にかかっていた小さな木の橋のふもとに、オロナミンCの看板が落ちてた、などなど…。
なんでそんなことを覚えているのだ?ということをいっぱい覚えていて、いろいろと話してくれました。

幼稚園児だったT矢くんと出会い、小学生の高学年になったところでお別れして、26才の青年として再会したのですが、
過酷だった就職活動のこと、今回の旅行直前まで勤めていた会社のことなどをいろいろ聞いて、
彼がそれらの経験からたくさんのことを学び、また、ここ一番という時に自分を大切にでき、それを元に決断できる大人になったことを知り、おばちゃんながら誇らしく、嬉しく思いました。


うちの空と海と仲良くしたい気満々なT矢くん。


あの手この手で、


ようやく二匹が釣れそうです。



たった3日間の観光でしたが、ちょうど、マンハッタンならお任せ!の次男くんがニート中だったこともあり、超過密スケジュールを敢行したようです。
わたしは猫の世話おババと化してしまっていたし、ろくすっぽ眠れない夜が続いていた最中だったので、目の下のクマがハンパではなく…、
でも、そういう時にこそ、気分転換というか、T矢くんが来てくれたことは、とても嬉しいものでした。

得意のギターを弾くT矢くん。


うちによく来るカーディナルくん。


なんか真っ赤で美味そうやなあ…じぃ~…。


みんなで記念撮影。




すっきり晴れた最後の観光日。よかったよかった。



今度は彼女とまたおいでね!