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スロージョギングと写真のブログ

ウォーキング、ジョギング、ママチャリで出あった季節の花や風景写真で日々の出来事・雑感をつづっていきます

マラソンの父 金栗四三

2019年01月03日 | その他の事、未分類

スイムやランを始めた平成に入ってから約30年、

1月2日、3日はいつも「箱根駅伝」の実況中継にくぎ付けだった。

昨日、今日も見た。


今朝の日の出(稲毛ヨットハーバー突堤より)

毎回手に汗をにぎるドラマがある。

箱根駅伝の生みの父は「金栗四三」さんだという。

彼を始めて知ったのは、「知ってるつもり」というテレビ番組だった。

草鞋を履いて長距離練習をしている映像や、はじめてオリンピックに参加して走った姿の映像が記憶にあった。


今朝の検見川浜

それから、しばらくして10年余前のこと。

佐渡トライアスロンでスイム-バイク-ランのリレーチームを組んだ、千葉JTRCのKさんに

金栗四三さんに感動した話をしたことがあった。


今日の夕方(検見川浜)

その時、

「私の郷里の近くの人で、彼の歴史を編んだ小冊子があるので美浜さんにあげますよ」

と、下の写真の小冊子をいただいた。

今年のKさんからの年賀状には、「金栗四三がNHKの大河ドラマになるので、ぜひ見て下さい」とあった。

今年は、平成最後の箱根駅伝であり、オリンピックも間近い。

東洋大学、東海大学、青山学院大学などの、すがすがしくも熾烈な争いの余韻が残る中で

諸々のことが想い浮かんできた。


日没後の検見川浜

私的にも「汽笛一斉ウォーク」で9区、10区の走路を2回ほど歩いたことがあった。

鶴見中継所の箱根駅伝のモニュメント「明日へ走る」なんかもデジカメパチリしたことを思い出した。

また、だいぶ昔になりますが、地域のマラソンクラブの当時の走友と1泊で

小田原かまぼこやの鈴廣前から大平台~宮ノ下~…芦ノ湖までの、箱根5区の山上りの練習をしたことがあった。

その発端は、金栗四三さんだったのだ。

ちなみに、NHKの番組紹介から概要を抜粋すると、

『オリンピックに初参加した男” 金栗四三と“オリンピックを呼んだ男” 田畑政治
日本のオリンピックは、マラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦、たった2人の選手から始まった。まだ“スポーツ”の言葉もなかった時代。1912年に初参加した「ストックホルム大会」で、金栗は日射病で失神、三島も大惨敗。だが、そこから持ち前の根性で猛勉強、日本はスポーツ大国へと成長する。1936年の「ベルリン大会」では、水泳の前畑秀子をはじめ金メダルを量産。念願の「東京オリンピック」招致を勝ち取る。だが、時代は戦争へと突入、夢は幻と消えてしまう。 敗戦。田畑は蛙と芋で飢えをしのぎ、執念で競技を再開。ついには、1964年の「東京オリンピック」を実現する。
戦争、復興、そして…平和への祈り。オリンピックには、知られざる日本人の“泣き笑い”の歴史が刻まれている。ドラマでは、1912年「ストックホルム」から、1936年「ベルリン」、1964年「東京」までの3大会を中心に、激動の52年間を描いていく。

とあった。 

テレビ番組はあまり見ない方ですが、この大河ドラマはちょっと覗いてみたいです。

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2019年の年賀状、第31期竜王戦

2018年12月21日 | その他の事、未分類

10数年使用していた携帯電話の機種変更を終え、

昼過ぎから最寄りの公園外周を5周。

8:45~8:53~9:14~8:48~7:47/43:29

なんとなく体が重い感じなので、明後日のマラソン大会は楽しみを優先し、タイムは二の次にすることにした。

ジョギングの後は、Abema Tvで将棋を観戦。

第31期竜王戦、7番勝負第7局、3勝3敗後の決戦が下関の春帆楼で行われていた。

対戦は羽生竜王に広瀬八段。

観戦中に、妻が年賀状をプリントしてというので、Epson Photo+を利用してプリントをしながらだった。

私の分の年賀状は元日~1月3日に作ろうと予定していましたが、

ついでに案を作り上げた。

昨年断捨離をしたので、枚数は少ない。

そうこうしているうちに、竜王戦の決着がついた。

 羽生善治竜王(48)が167手で挑戦者の広瀬章人八段(31)に敗れた。

この結果、同シリーズ3勝4敗となり失冠。

27年ぶりに、1つもタイトルを持たない“無冠”となった。

広瀬八段は、同タイトル初挑戦で初の獲得となった。

M公園  5k+1k=km
                 月間累計 113km
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ゆる体操~2019年のカレンダー作り

2018年12月03日 | その他の事、未分類

既に4回目になった「ゆる体操」講座。

今日は腰痛予防関連の体操。

寝ゆるの黄金3セットの他、前回学んだ首まわり、肩甲骨のゆる体操をやった後

骨盤周りと太ももの裏表、ひざから下肢の体操を行った。

 完成

家に戻ってからは来年2019年度のオリジナルカレンダーづくり!!

2L版の卓上用を作った。


2019年 花カレンダー

手順は次の通り。

① 今まで撮った横写真から、季節、月ごとに「花」と「風景」の写真素材各12枚を選択

② 100円ショップの「ダイソー」に行って、2L版 20枚入りの光沢紙(0.23mm)を購入 ¥108円

③ 同様に透明スタンド ¥108円

④ カレンダーづくり

 ・以前教わった「万年カレンダー」の「祝日表示のための表」を2019年度に合わせて修正

 ・1~12の各月カレンダーの上部の年度を2019と入力すると、日曜から始まる1か月の「日にち・曜日の表」がすべて
  2019年度に変わる

 ・上半分の写真部分に各月に撮った写真を挿入し、下に撮影地を記した

 ・予定記入欄は、午前2行、午後2行と計4行に作成

④これをもとに、家族の誕生日を入力したもの、私の既に分かった予定を記入したものを追加制作


2019年 風景カレンダー

 ※ カレンダーだけだったら、1枚5.4円。12枚で約65円、それにインク代7円/1枚とすれば、手間抜きで原価は150円ぐらいかな? 12枚と透明スタンドを入れて約260円ぐらいになった。

ま~、金額的なものよりは、作る過程の楽しさや、出来上がった時の喜びが大きい。

また、エクセルで作ったカレンダーの縮小を解いて、A4大のスーパーファイン紙にプリントすれば

記入欄が大きくなるので、毎日の予定記入、変更や結果を記入しやすくなり、PC側で日記としても使える。

今日は、2019年3月28日開催の「第38回佐倉マラソン」にエントリーしました。

公園外周   5km
                 月間累計 10km 
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クレイジージャーニー 11月14日(水)アマゾンの動植物を撮る男

2018年11月11日 | その他の事、未分類

2010年ごろから毎年アマゾンで撮影を続ける写真家・山口 大志氏!!

昨年9月でしたが、東京六本木の「フジフイルム スクエア(ミッドタウン・ウェスト 1F)」で開催の彼の写真展を観に行った。

あれから1年余り過ぎた今日、山口氏の義母から電話がかかってきた。

茨城県に住まいする妻の女友達である。

山口 大志氏が、TBSテレビ(関東は⑥チャンネル)の番組「クレイジージャーニーに出られるのだそうだ。

タイトルは「アマゾンの動植物を撮る男」、放映日時は11月14日(水)、11:56から0:55まで

遅い時間なので起きていられるかわかりませんが、昼寝をしてでも見れるようにしたいですね。

 

今日は泉自然公園とか青葉の森公園とか市内の紅葉状態を推測するために、

最寄りの千葉公園まで事前偵察に行ってみた。

かすかに色づき始めたばかり、見ごろは3,4日以降のようです。

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不明2歳男児、よっちゃん救出

2018年08月15日 | その他の事、未分類

久しぶりに日本中に良いニュース、すがすがしいニュースが流れた!

スーパーボランティア爺さんが大分県から、広島県の呉へのボランティアを変更、急遽

山口県周防大島町で、12日から行方不明になっていた2歳の男の子を見つけ助けようと駆けつけた。

爺さんの名前は、尾畠春夫さん。

助けられた男の子の名前が、よっちゃん。

山の沢に迷い込んだよっちゃんは、尾畑さんに68時間ぶりに発見され、救助された。

尾畑さんの行動、言動に感動した。

自衛隊、警察、消防とかでなく一民間人によったということも。

寝袋、装備を持ち、自家用車で駆けつけた。

自己責任、自己完結、無償の行為!

どこかの市会議員ボランティアが、ビールをのんだあげく

避難所に泊めてくれと駄々をこねたのとは大違い!

また、不都合な真実を隠し責任をあいまいにする、どこかの国の内閣、財務省や文部省の幹部、某医科大、N大アメフト、ボクシング連盟などの大人に、尾畑さんの精神と行動を煎じて飲ませたい。

腐った組織を浄化し、立て直すボランティアはいないかしらん!
逃飛行

78歳のスーパーボランティア爺さんの経歴を新聞記事から抜粋した。

山口県周防大島町で8月12日から行方不明になっていた2歳の男児が15日、無事に保護された。山中で男児を発見したのは、ボランティアで捜索に加わっていた大分県の尾畠春夫さん(78)だった。

報道各社のインタビューに応じた尾畠さんは、「小さな命が助かったと思った。本当にうれしかった。助かってよかった、助かってよかった。ただそれだけ」と語った。そして、2016年末に大分県で行方不明になった女児の捜索ボランティアにも参加しその時の経験が今回の捜索で生かされたことも明らかにした。

ボランティアで由布岳の登山道の整備

大分県別府市で鮮魚店を営んでいた尾畠さん。40歳で登山を始め、58歳で北アルプス55山を単独縦走した。

尾畠さんはその頃から、ボランティアで由布岳の登山道の整備を始めている。月に7~8回、30~40キロの材料を担いで登り、崩れかかった登山道の整備をしたり、案内板を設置したりしたという。

徒歩で日本列島を縦断

66歳で尾畠さんは鮮魚店を引退し、鹿児島県の佐多岬から北海道の宗谷岬まで日本列島を徒歩で横断する旅に出た。

2006年の4月1日に出発、7月1日に全行程3250キロを歩き、尾畠さんは無事ゴールを遂げている。毎日、朝夕に孫の声を電話で聞くことを励みにしていたという。

このチャレンジについて、尾畠さんは朝日新聞の取材に「生まれた日本を縦に歩いてみたかったのと、体力がどのくらい持つのか、動機は単純じゃ」と語っている。

ゴール後、同級生たちに祝福された尾畠さんは「目標を持ってやれば、出来るものだ」と笑顔だった。(朝日新聞2006年07月09日)

東日本大震災・南三陸町でボランティアの「師匠」と呼ばれる

2011年の東日本大震災では、3月から宮城県南三陸町でボランティアとして活動していた。町から依頼され、被災地で、人々が大切にしていた物を拾い集める「思い出探し隊」の隊長を務めた。

軽自動車で3日かけて被災地へ。日本列島縦断の旅で、テントを干していた南三陸町で親切にされた人を訪ねたことがきっかけとなったという。

2004年の新潟県中越地震の被災地でもボランティア活動に参加していた尾畠さん、若いボランティアからは「師匠」と呼ばれていたという。その後も大分と車で往復しながら計500日間支援に当たったという。(朝日新聞2011年04月27日)

熊本地震でもボランティアに参加

熊本地震では、熊本県益城町でボランティア活動をしていた。既にこの時には「ボランティア歴25年」になっていた。

町が設置したボランティアセンターに「スコップやヘルメットがもっと必要」などと用具などについて助言。職員が「私たちにも初めての経験。言われて気付いたことがたくさんあって助かります」と話していたことが報じられている。(朝日新聞2016年04月25日)

夢は100歳での祖母山登頂

尾畠さんは、夢は「100歳での祖母山登頂」だと答えている。ボランティアは「体力の続く限り続けたい」という。(朝日新聞2010年12月24日)』

たとえ、テレビからの報道とはいえ、尾畠さんのような人に出逢い、知り得たことは幸せだった。

みはま公園(夜ラン) 5k
                      月間累計距離 50k

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御嶽海優勝!

2018年07月22日 | その他の事、未分類

大相撲名古屋場所で、西関脇の御嶽海(みたけうみ)(25)=本名・大道久司=が長野県出身力士として現行の優勝制度で初めて場所を制した。

出身地の上松(あげまつ)町は山深い木曽地方の人口約4500人の町。

町から望む御嶽山がしこ名の由来だ。

長野県は江戸時代に最強といわれた力士・雷電為右衛門を出した地だが、長く名力士不在で、昨年の御嶽海の関脇昇進は、同県出身としては84年ぶりだった。

横綱はまだ出ていない。

なお、御嶽海の幕内最高優勝は大相撲の優勝制度が制定された1909年(明治42年)6月場所以後、初となる長野県出身力士の初優勝であり、また出羽海部屋にとっても1980年(昭和55年)1月場所の横綱三重ノ海以来38年ぶりにして通算50回目の幕内最高優勝ともなった』(新聞記事等より抜粋)

横綱が出てくる来場所からが真価が問われる。

来場所も活躍してほしいですね!!

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リフォーム、その後

2018年04月23日 | その他の事、未分類

住まいのリフォームが終わった。

40年余住んでの経年劣化!!

おそらく最後になるであろう今回のリフォーム箇所は、

「玄関・洗面所の床&壁」、そして「浴室」。
(キッチンは自前でやった)

メインは浴室の更新だった。

思い立って3か月。

2~3月は、ネットやショールームで関連の事前調査、

そして「東京ガス、タカラスタンダード、個人業者」の3業者へ見積依頼した。

前2業者はシステムユニットを勧めてきたが、補修をしないでもよい箇所をそのままにリフォームできる提案をした個人業者に仕事を依頼した。

3月中旬に地域のおよび近隣居住者の承認を得て、工事は1週間で完了した。(4/16~4/23)

火、日曜日はお休みでしたが、工程順に工事概要を振り返ると、

<玄関・洗面所 壁床工事> 

・床 既存はがし撤去

・床 コンパネ張 クッションフロアー張替

・壁の塗装

<浴室工事> 

既存(東京ガス工事分)の撤去処分~給湯器&浴槽交換工事

交換後は、

・ガス給湯器 リンナイRUF-HV162A 

・浴槽 FRP1100

浴室すのこ工事~出入口のドア工事

・TOTO 浴室すのこ EWB470

・浴室ドアの交換・補修

撤去した給湯器と浴槽は、問題なく使用できていたのですが、なにせ給湯器が15年、錆などなく外観がきれいだったステンレス浴槽は35年も経過していた。

旧浴槽の高さは70cmぐらいだったが、今回の洗い場嵩上げ工事で高さは50cmになった。

浴室は、高齢になる今後を考えてのリフォームだった。

 

ひと段落ついて美浜公園周回のジョギング、夕方5時前スタート!

・9:04~8:25~8:31~7:42~7:07/40:49

ジョギングが終わって、ゆっくり風呂に浸かった。

ジョギング後に風呂を沸かして(15分)入浴、夕食、と過ごして午後7時になった。

高齢期のリフォーム後は、引き続き作業半ばの「終活の生前整理」を行いたいが、

遅くとも今年中に終わらせたい!!

美浜公園周回  5km
                               
   月間累計 71km

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ボタン、シャクナゲ

2018年04月22日 | その他の事、未分類

昼過ぎは、Sコミュニティセンターの例会に参加。

6月の千葉市ハーモニープラザでの写真展準備、

コミュニティセンターロビーの展示作品の更新など、

いつもより早く終わり散会。

夕食後は、久しぶりの夜ラン(ジョギング)。

美浜公園を5周回した。

・10:05~9:56~9:49~9:37~8:19/47:46

カスミストアは零時まで営業なので、その灯りがコースを照らし走りやすい。

途中にTスポーツセンターの花壇がありますが、

シャクナゲが満開だった!

まだ少し蕾もあるので

明朝は、K公園のフジの花、

スポーツセンターの花壇の花、

再度シャクナゲを撮ってみたい。

記事の上の写真は、昨日の朝の千葉公園のボタン。

蕾の花壇も広く残っていた。

サラソウは咲いていたが、見ごろが過ぎ花びらが傷んでいた。

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朝刊エッセイ~おじさん図鑑を読んで

2018年01月07日 | その他の事、未分類

今朝の朝刊からの抜粋転載です。

 

私たちが感じていて、誰も表立って言わないことが多いなか、さらりとエッセイにしている。

上記のエッセイに共感しつつ、今の日本の状況と重ね合わせ、かつて心に響いた抜き書きを以下に再掲しました。(故人2人)

<池波正太郎>

 還暦に思う人生(昭和58年)

・これは、太平洋戦争に若い自分が直面し、その前途が五分五分に生死に賭けられていたからだろう。

だが、戦場で戦うこともなく、海軍の航空基地から復員したときは、生還の僥倖を喜ぶよりも、日本の敗戦により、一夜のうちに変わった時代と、戦死した少年航空兵の顔が重なり合い、一年ほど虚脱してしまっていた。
‥ ‥
おのれの健康をほこる気持ちは、いささかもない。生と死は、いつも、隣り合わせになっているのだから……。

60年生きて来て、いまさら感じることは、我欲のない人ほど幸福になっていることだ。

むろんのことに、これは金銭とは別のもので、いかに我欲を貼って財産を得たところで人間は満たされない。その実例を、数え切れぬほどに、私は、この目で見てきた。

恐ろしいのは、我欲と傲慢の結果が、すぐにあらわれずに、一国家、一団体、一個人それぞれに、我欲の芽がふくらみ、長く潜伏していて、これが表にあらわれ、はっと気づいたときには、手遅れになっていることだ。

私の我欲が薄いといっても、ないわけではない。

その残存する我欲を一つ一つ取り除くことを、こころがけて行きたい。
‥  ‥
私は、政治や経済のうごきについては、ジャーナリズムを信用しない。できない。

これは、終戦のときの、一夜にして白が黒となり、黒が白となった衝撃が尾を引いているからだ

私が信用するのは、自分の目でとらえた「一個人が表現しているもの」のみである。 

 すべて簡素に、簡明に(昭和59年)

・こう書いてくると、まだまだやりたいことはいくらでもあるわけだが、私は欲張らない。

仕事と生活の上において余分なものは一つ一つ切りとって行き、もっとも簡素な生き方をしたい。

戦後の私は、あまり人付き合いのよい男ではなくなってしまったけれども、これからはなおさら義理を欠き、付き合いの時間を減らしていくつもりだ。

それも60歳を超えた私には許されることだと思っている。

これからは、人も世も、国家も、すべて簡素に……簡明にである。  

<茨木のり子>

1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。

2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

その後、 弟が先に他界し、かつての同人仲間が1人、2人と世を去るのを見送った。だが、彼女は孤独感をものともせず、1999年に73歳で『倚(よ)りかからず』を発表するなど、詩への創作意欲は衰えなかった。

●倚(よ)りかからず ※73歳の作品

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、訪ねてきた親戚が発見する。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。この力強さ。享年79歳。

戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載され、米国では反ベトナム戦争運動の中でフォーク歌手ピート・シーガーが『When I Was Most Beautiful』として曲をつけた。彼女の心の声が国境を越えて人の心を打ったのだ。人生を明るく、そして清々しくうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞している。

●わたしが一番きれいだったとき茨木さんは15歳で日米開戦を、19歳で終戦をむかえた

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

冒頭の朝刊エッセイに関連して、

この5年間で、特定秘密保護法(25/12/13)・安保法(28/3/29)・共謀罪法(29/6/21)などの重要法案が成立し、今年度は憲法改正!!メディアを通じてのプロパガンダというか、世論操作に惑わされないようにしたい。

432円の文庫本「日本国憲法」(講談社学術文庫)から主要な箇所を抽出してみた。

他の条文も大切なのですが、とりあえず。

冒頭のエッセイの一文をお借りすれば、

今年こそは国民一人ひとりが「正気」を保って、平穏な世の中がず~っと続くようにしていきたいですね!!

美浜公園10周/昼過ぎ 約10k (9:27~9:50~9:36~9:58~8:51~9:22~9:35~9:21~8:57~8:13/1:33)
                               
   月間累計 44km

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生きていくあなたへ 105歳 どうしても遺したかった言葉

2017年12月26日 | その他の事、未分類

今日のテレビで初めて知った本!

幻冬舎から2017/9/27発刊で、タイトルの本が出版されていることを知った。

著者は、日野原重明さん。

以前から尊敬する方で、影響を受けることが多かった。

明日、本屋で探して、ちょっと読んでみたいですね。

以下は、ネットのアマゾンの内容紹介記事からの抜粋転載です。 

『 内容紹介

「人間は弱い。死ぬのは僕もこわいです。」105歳の医師、日野原重明氏が、死の直前まで語った、希望と感謝の対話20時間越。最後の力を振り絞り伝えたかった言葉とは。生涯現役、渾身最期の一冊。

「死ぬのは僕でも怖いんだよ。」だからこそ、朝起きて自分が生きていることが、心から嬉しい。105歳になっても尚、僕にはまだ自分でも知らない未知の自分がたくさんあると感じているのです。
今、最後の力を振り絞って私がしたいのは、あなたとの対話です。人生の中で、いつも私と共にあったのは言葉でした。
私が言葉によって支えられてきたように、迷い傷ついたあなたへ、私の最期の言葉を伝えたいのです。(本書より抜粋)

2017年7月18日この世を去られた日野原重明さん。2016年年末からはじまった本書のインタビューは、亡くなる直前まで、時にはベッドに横たわりながら20時間以上行われました。言葉を軸にしながら、死と生、病と健康、出会いと別れ等々、人生の深淵について語ります。
【本書の内容】
第1章 死は命の終わりではない
第2章 愛すること
第3章 ゆるすことは難しい
第4章 大切なことはすぐにはわからない
第5章 未知なる自分との出会い

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