goo blog サービス終了のお知らせ 

まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イギリス王エドワード7世妃 アレグザンドラ

2008-12-01 00:35:19 | イングランド王妃・王女
101人の愛人を受け入れた王妃
エドワード7世妃 アレグザンドラ・オブ・デンマーク


1844~1925/在位 1901~1910

ハノーヴァー王家になってから初めての、ドイツ人でない王妃アレグザンドラは
王太子エドワードの姉であるドイツ皇太子妃ヴィクトリアの紹介でエドワードと会いました。

エドワードはその場でアレグザンドラを妻にしようと決心しますが
母であるヴィクトリア女王はドイツ人の妃を希望していました。
しかし、女王はアレグザンドラ本人に会うと彼女の人柄に魅了され、また
息子がすでに別の女性と初体験をすませていたことを知ったショックから結婚話を進めます。

      

ウィンザーで結婚式をあげた時、エドワードは21歳、アレグザンドラ18歳。
若い二人は幸せな結婚生活をスタートさせました。
アレグザンドラもその美貌と気品で一躍人気者となります。

しかしエドワードの女癖はなおらず、結婚後も次から次へと女性を渡り歩きます。
その数101人  タフですね。
アレグザンドラは特に動じることもなく、相談にものってやったりしていたそうですが
“ ロイヤル・ミストレス ” と呼ばれる王と一緒に公式の場に出たりする女性たちの中で
デイジー・ウォーリックだけは許せなかったようで
彼女が出席するパーティーには絶対顔を出さなかったといわれています。

どうしますよ? 101人も愛人を作られた日にゃあ、普通流血するでしょうよ。
ほんとにアレグザンドラっておおらかな人です。

アレグザンドラは家庭を居心地の良いものにしようと気を配り
エドワードも妻子と出かけるために議会を早退するという(!)
前代未聞のことをやってのけるほどの家庭思い。
一家は和気あいあいと仲が良かったようですけど
マイホームパパだから浮気しないってわけではないのですね・・・

ただ、エドワードとアレグザンドラの子供たちの教育は
ヴィクトリア女王から見れば「とんでもないこと!」でした。

エドワードは自分があまりにも厳格に育てられた反動から
アレグザンドラは、デンマーク王室で自由一杯に育ったことから
子供たちも自由にさせようと自らの手で育て、別荘では村の子供たちと遊ばせていました。
見かねた女王は家庭教師を選んで二人の王子の教育にあたらせ、士官学校に入れますが
アレグザンドラはこの時、二人と離れたくないと言いだしています。

また、アレグザンドラは社交好きでもあり、経済観念と時間の観念が乏しく
しょっちゅう遅刻していたことから、女王からの賛辞にも翳りが見え始めます。

それでもアレグザンドラの心優しさは、英国民の心を強くつかんだようです。
彼女は終生福祉への貢献を惜しみませんでした。
有名なエピソードは “ エレファンド・マン ” と呼ばれたジョン・メリックとの交流です。
醜い彼の苦悩に同情したアレグザンドラは、彼を見舞い
毎年X'masカードとプレゼントを贈りました。

エドワード7世が死に瀕した時アレグザンドラは
当時の愛人であったアリス・ケペル夫人をよんで、王とお別れをさせています。
ホント、良くできた奥さん!
しかし、王が目をつぶると「出ていけ!」と怒鳴ったと言う説もあり
いくら寛容にしていたとしても、忸怩たるものがあったんでしょうね、と気の毒になります。
101人じゃなぁ・・・

余談です
写真のウエスト!! 細い・・・私の二の腕ぐらいじゃなかろうか?
アレグザンドラは英国で初めて写真に写された王妃だそうで
ものすごく容姿に自信があったみたいです。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

      
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス女王 ヴィクトリア

2008-12-01 00:34:00 | イングランド王妃・王女
一時代をつくりあげた
大英帝国女王 ヴィクトリア


1819~1901/在位 1837~1901

スチュワート王家の最後の王、アン女王に跡継ぎがなかったことから
ドイツのハノーヴァー家に王権が移って6代目にあたるヴィクトリア女王は
もうどっからどうみてもドイツ人なんですけど
(ここまでハノーヴァー王家の王は、全てドイツから王妃を迎えています)
“ヴィクトリア時代” という英国でも代表的な時代をつくりあげました。

    

ウィリアム4世に跡継ぎがなかったため
その弟ケント公の娘ヴィクトリアが女王になったわけですが
母親のケント公妃ヴィクトリア・メアリーはかなりのステージママだったようで
娘の即位前から摂政のようにふるまい、ウィリアム4世に叱られたという経歴の持ち主でした。

しかし賢明なヴィクトリアは、即位すると18歳の若さで母親に決別し
女王としての道を進み始めます。

ところでヴィクトリア時代ってどんな時代?
家庭的で質素な、中産階級的文化だといわれていますが
どうやらそれはヴィクトリアの夫アルバート公の影響が大きいようです。

系図からも分かるように、アルバート公は女王の従兄弟にあたります。
彼もドイツ人で、夫婦は王宮ではドイツ語で会話していました。

アルバート公はあくまでも女王の夫であり
国政には口をだしてはならないという了解がありました。
社交的な性格でもなく、田舎暮らしを愛する家庭向きの男性だったようです。

そこで夫妻は暇をみつけては田舎の別宅で過ごし、田舎道を二人で歩いて
華やかな王宮とは違う生活を好んで営んでいたようです。

写真で残っているヴィクトリア女王は、丸っこくてちびっこくて
なんだかかわいいおばあちゃまみたいな感じに見えます
他の王妃や王女が、華美にふりふりビラビラしている中で
彼女の白衿の黒いドレスは、ある意味個性的でもあります。
初期の Y's みたい。

でも国民としたら少しは華やかでいてほしいかもね
浪費は困るけど、ちょっとはおしゃれしてほしいような気がします。

なにしろ長生きで在位が長かったですから、息子のエドワードは60歳まで皇太子でした。
しかも女王は息子に対してけっこう厳しかったらしく
それは息子が60歳になっても変わらなかったようです。

おかげでエドワードはひねくれて遊び人になったらしいですよ。
誰ですか? チャールズなんて言ってるのは?

ちなみに女王はアルバート公が亡くなってから、狩猟林番人のジョン・ブラウンと
秘密裏に結婚し子供まで生んだという説がありますが
英国王室は(もちろん!!)これをきっぱり否定しています。
でも、本当だったらロマンティックでいいよね

         
              ヴィクトリア女王とジョン・ブラウン

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 小林章夫氏『イギリス王室物語』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ウィリアム4世妃 アデレイド

2008-11-24 18:18:31 | イングランド王妃・王女
慈愛に生きた哀しみの王妃
ウィリアム4世妃 アデレイド・オブ・サクス=マイニンゲン


1793~1849/在位 1830~1837

ジョージ3世の三男ウィリアム4世が王位についたのは、なんと65歳。
長男ジョージ4世はキャロラインと不幸な結婚を送り、なんとか娘一人を残しましたが
次男ヨーク公、三男ウィリアム、四男ケント公は揃いも揃って結婚せず
王家には後継者の心配が募ってきます。

ウィリアムは20年に渡ってジョーダン夫人という女優と夫婦同然の暮らしをして
10人もの子供をもうけています。

ウィリアムは46歳でジョーダン夫人と別れますが
一説にはこの頃から王位を意識し始めたのでは?と言われています。
それから6年後、ジョージ4世の一人娘シャーロットが死亡すると
次は次男ヨーク公、その後はウィリアムという王位継承が現実味を帯びてきて
議会はウィリアムの結婚を急ぎます。
なにしろ10人の庶子がいるんですからね 期待がかかります。

そこで選ばれたのがサクス・コバーク・マイニンゲン公女アデレイドでした。
アデレイド26歳、当時としてはかなり遅い結婚です。
美しい人なのになぜかしら? かなりおとなしくてパーティー嫌いだったようですが
それが原因でしょうか?

ウィリアムは53歳、二人はボンド・ストリートのホテルで1度会っただけで
その1週間後に結婚しますが、ハノーヴァーで始まった新婚生活は幸せなものでした。

同じ年(1818年)ウィリアムの弟ケント公エドワードも
27年間関係が続いていたサン・ローラン夫人と別れて
ライニンゲン大公未亡人ヴィクトリア・メアリーと結婚しています。
これも世継ぎを考えてのことでした。

     

(しかしなんですね、この家系図見るとサクス・コバーク=ゴータ家は
 英国王室を “ とりに ” きてますよね!!)

アデレイドは何度か身ごもりますが
いずれの子供たちも生き延びることができませんでした。
長女シャーロットはアデレイドが肋膜炎にかかったため早産で産まれますが
その日のうちに死亡し、イングランドで産まれた次女エリザベスは腸炎で4ヶ月で死亡。
その後身ごもった双子の王子は死産でした。

そんな彼女を尻目にヴィクトリア(後の女王)を産んでいたヴィクトリア・メアリーは
いけしゃあしゃあとウィリアムのもとへ娘の相続人の認証をうけようと
挨拶に訪れています。 やな女っすね!
王は終生ヴィクトリア・メアリーと敵対します。

とはいえ、アデレイドはジョーダン夫人が産んだ子たちや
姪のヴィクトリアに愛を注ぎ哀しみを紛らわせていたようです。
ヴィクトリア女王は、アデレイドの優しさを忘れることはなく
長女の名をヴィクトリア・アデレイドと名付けました。

アデレイドは敬虔深さ、しとやかさ、慎み深さに加え
子供を亡くした悲劇的なエピソードから、英国民に愛されていました。
慈しみも深く、彼女の収入の大部分は慈善に施されていました。

しかし中には宮廷が面白くなくなったとお嘆きの方々もいたようです。
パーティーも少なくなったようだし、アデレイドが素行や品行が疑わしい婦人を
宮廷に招かなかったことを「気取り屋」と言った人もいました。

そうですねぇ…
当時の貴族ってパーティーとか謁見以外に仕事なさそうだしねぇ
「お城で王と王妃に会って来たけどさあ…」ていうのが話題の中心みたいなものですもんね。
奥様たちはドレスを新調したり見せびらかしたりする場が減っちゃうしね

アデレイドはウィリアム4世が死に瀕した時、10日以上ベッドの側を離れず
自分の寝室にも戻らないで献身的に看病しました。

アデレイドは王の死から12年後に静かに亡くなります。
親しい人だけを招いた、できるだけ質素で静かな葬儀にしてほしいと書き遺していましたが
皆に愛された王妃の葬儀ですから実際はどうだったのでしょうね?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ジョージ4世妃 キャロライン

2008-11-20 23:03:27 | イングランド王妃・王女
“割れ鍋に綴じ蓋”夫婦
ジョージ4世妃 キャロライン・オブ・ブルンスウィック


1768~1821/在位 1820~1821

亡くなった時でさえ新聞に酷評されたという
愚王の名高いジョージ4世の妻キャロラインは、これまた悪名高い王妃ですが
賛否両論の分かれる女性でもあります。

国からの莫大な借金をチャラにするため、長年同棲していた未亡人と別れて
王妃を娶ることに同意した皇太子ジョージは、従姉妹のキャロラインを希望します。
二人は会ったことはありませんでしたが、肖像画が美しかったためと言われています。
(もしやもしや、ヘンリー8世の4人目の妻、アンの二の舞かっ

      
キャロラインは実際もそこそこ美しかったらしいのですが
大陸では軌道を逸している(殿方と親密になりすぎるとか、身なりに構わないとか)と
ささやかれていて、母親であるシャーロットは自分の弟のお妃候補から
キャロラインをはずしたことがありました。
しかし、王太子ジョージの気が変わることを怖れた英国議会は結婚を急ぎます。

ジョージは、イギリスにやって来たキャロラインを見るなり
友人にひと言「気分が悪い、ブランデーをくれ」と言いました。
(・・・臭かったっていう説が濃厚です。風呂嫌いだったんだって
 でも結婚式の前ぐらい、お風呂に入らないかなぁ?)
一方、キャロラインも「思ったよりデブじゃんか!」と言ったとか言わないとか。

ジョージは結婚式を中止しようともしたそうですが、そうもいかず
二人の嫌悪感に満ちた新婚生活が始まります。
ジョージによればベッドインは3回だけで、結婚から9ヶ月後
一人娘シャーロットが産まれると、ジョージは家を出て二人は別居生活を始めます。

次いで館を出たキャロラインは、娘に会えないことは悲しがりましたが
新しい自宅に(主に男性の)取り巻きたちを招き、楽しい日々を送っていました。
そんな中、政治家のキャニング、海軍大将スミス、肖像画家ローレンス、
海軍大佐マンビーなど次々と恋人の名があがります。

また、突然キャロラインが養子にしたウィリーという男の子が
彼女の私生児だという噂も拡がって、とうとう調査されることになります。
父王ジョージ3世は、嫁に対して好意的でしたが、息子の激怒や
王妃シャーロットの勘ぐりに合い、あまり助けてあげることはできませんでした。

公式な行事にも一切参加できず(皇太子ジョージは以前別れた未亡人や
新しい愛人などを同席させていて、これがまた国民の非難を招きます)
移り住むごとにジョージに追い出されるキャロラインは、ヨーロッパ旅行にでかけます。

数年後、莫大な借金を抱え、どの国でも歓迎されなくなったキャロラインは
夫ジョージが王に即位したことを聞き、急いで帰国を決意します。
しかし、帰国した彼女を、やはりジョージ4世は拒み、イタリアでの使用人との
不倫を理由に離婚裁判をおこします。

離婚が王の立場をさらに危うくするという裁判所の判断で離婚は避けられますが
戴冠式の式場となったウェストミンスター寺院のドアを叩く彼女を
ジョージ4世は閉め出したといいます。

結局、心労のためか、戴冠式の3週間後キャロラインは息を引きとります。
ジョージ4世は彼女の埋葬も拒み、亡骸は故国に戻され埋葬されました。

ジョージ4世はとにかく評判が悪く、キャロラインに同情的な声も多かったようです。
作家ジェーン・オースティンも「王妃を支持する」と述べました。

摂政時代にリージェント・ストリートを造り散財を非難をされたジョージ4世ですが
今では有名な観光地・・・良かったんだか悪かったんだか

         
              当時のリージェント・ストリート

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    

こ画像がないのですが…女王にまつわるスキャンダルが満載です
読んでみたいな!という方は下のテキストをクリックしてね

女王たちのセックス
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ジョージ3世妃 シャーロット

2008-11-20 01:34:41 | イングランド王妃・王女
マリー・アントワネットのペンフレンド
ジョージ3世妃 シャーロット・オブ・メックレンブルク=ストレリッツ


1744~1818/在位 1761~1818

ジョージ2世の皇太子フレデリックが急死したため即位したジョージ3世は
正直さと敬虔さで国民から愛された王でしたが、シャーロットも才気があり
それでいて慎ましやかなところが王と同様に愛された王妃でした。

それにはジョージ3世の母親で
“ でしゃばり ” と不評だったオーガスタの存在も影響していると思われます。

       

王太子フレデリック同様、ジョージ2世とその妃キャロラインのことが
大嫌いだったオーガスタは、夫の死後も常に義父ジョージ2世と対決姿勢を崩さず
そのせいでジョージ(3世)は孤立し
即位後は母とその愛人と噂されたビュート伯の影響を受けすぎているとして
評判を落としたことがありました。

しかし結婚に関してはめずらしく母に反抗し、理想の女性と思われる女性を探し出そうと
信頼あついグレイム大佐に託します。
こうして選ばれたシャーロットは才気煥発で、特にお妃教育をしなくてもよいほど
出来た娘でしたが、オーガスタとは緊張が耐えなかったようです。
いずこにもありますねぇ 嫁姑問題。
国民はシャーロットに同情したようですね。

シャーロットは芸術にとても興味があったようで
彼女の音楽教師だったヨハン・クリスチャン・バッハのパトロンになったりしています。
また、8歳のモーツァルトは彼女の依頼で3曲のオペラを献上していますが
これにはもしかしたら、フランス王妃マリー・アントワネットの
アドバイスが影響していたかもしれません。

二人は直接会ったことはなかったのですが
やはり芸術を愛するマリー・アントワネットとの文通は
シャーロットにとってすごく楽しかったようで
音楽や絵画についての思いを熱心にやりとりしていました。

フランス革命の時には、シャーロットはフランス王家が亡命して来た時のために
住居まで用意していたと言われています。
マリー・アントワネットの処刑を聞いた時、シャーロットはとてもショックを受け
打ちひしがれたそうです。

でも会ってたらどうだったかしら? 全く違うタイプの二人のようですが・・・
シャーロットは派手でもなく、堅実なやりくりをしていたらしいんだけど
気が合うかなぁ? マリー・アントワネットと。
もしかしたらお互いがいい影響を与え合って
マリー・アントワネットの生き方も変わっていたかもね。

ジョージ3世は浮気もせず(珍し~)、二人は仲睦まじく
子供も15人産まれて幸せな日々を送っていたのですが、ジョージ3世は
度々精神異常に陥るようになり、子供たちも病気になったり反抗的になったりで
(そりゃ15人もいればさ・・・いろいろあるよね
晩年は気苦労が耐えませんでした。

特に王太子ジョージの素行の悪さ、三男ヨーク公の増収相事件関与、
次男、四男の女性関係に加え、末娘アミリアの駆落ち結婚などが
夫ジョージの精神異常を重くしていき、シャーロットを悩ませました。

最後には田舎の別荘のアームチェアーで、皇太子ジョージに腕をとられて
静かに息をひきとったそうです。
その約1年後、夫ジョージ3世が亡くなります。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ジョージ2世妃 キャロライン

2008-11-17 01:25:13 | イングランド王妃・王女
王を支えた才媛
ジョージ2世妃 キャロライン・オブ・アーンズバック


1683~1737/在位 1727~1737

賢夫人として名高いジョージ2世妃キャロラインは
4歳の時父と死別し、13歳の時、未亡人だった母が再婚したことから
プロイセン王フリードリヒ1世の被後見人になりました。
そのことが彼女の人生を大きく左右することになります。

      

キャロラインにはハプスブルク家のカール(後の神聖ローマ皇帝)や
サクズ・コバーク・ゴータ家のフリードリヒ2世などと縁談が持ち上がりましたが
フリードリヒ2世からの申し出を避けるため、後見人のプロイセン王の保護を受けていた時
娘であるプロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテを訪ねて来ていた
ハノーヴァー選帝侯妃ゾフィアの目に留まります。

母親であるゾフィア・ドロテアが幽閉されていたため
ゾフィア(選帝侯妃)は孫のジョージ(後の2世)の世話をしていて
そろそろ嫁を捜さなくてはと思っていた時でした。
ゾフィアのお眼鏡に叶ったキャロラインは、彼女の強い後押しでジョージと結婚します。

しかし父であるジョージ1世の即位とともにロンドンに移ったキャロラインは
義父と夫の絶え間ないいさかいに悩まされます。
夫ジョージは母ゾフィア・ドロテアに対する父の仕打ちが我慢できず
歯向かってばかりいたのです。

キャロラインはジョージ1世となんとかうまくやっていましたが
ジョージ1世は息子が自分になつかないのは嫁のせいだと思い
キャロラインを悪魔よばわりしていました。

いざ王が亡くなって、ジョージ2世が戴冠する時になると
王室の宝石や衣装はことごとくジョージ1世の愛人たちに与えられていて
キャロラインは借り物のドレスと宝石を身に着けて式に出る始末でした。
ほんとに懐のせまいひとだったんですね ジョージ1世って。

そんな二人の間を取りなすキャロラインに目をつけていたのが、宰相ウォルポールでした。
平和主義者ウォルポールは、好戦的で単純なジョージ(2世)への根回しに
キャロラインの力が必要だと考えるようになりました。
キャロラインはウォルポールの意志を受け入れ、以後二人はタッグを組んで
ウォルポールは表舞台で、キャロラインは影から王を支えて国を動かしていきます。

だが、なぜか
いろいろな面で評判の良いキャロラインは、長男である王太子フレデリックのことが大嫌いで
怪獣の名前で呼んだり「この世から消えてほしい」と言ったりして
子育てに大失敗しています。

もちろんそんな風に育てられたフレデリックも両親が好きなわけがなく
後年反抗的になり、議会で父に反対票を投じたり、国庫を浪費し
両親の暴露本まで出版します。 今なら大騒ぎ

ウォルポールとキャロラインに政治をまかせて形だけの統治をしていたジョージ2世は
次々と愛人をつくり、その世話や悩み事までキャロラインに相談する始末でしたが
心が寛いってゆうかなんていうか、彼女はちゃんと愛人やその子供たちの面倒を
王に変わってみてあげています。
なかなかできることじゃありませんよ、あなた

ジョージ2世も彼女を唯一の女性と思っていたようで
死の床で再婚をすすめるキャロラインに「再婚はしない、愛人だけにするよ」と
約束しています。 なに? その誓い

キャロラインはヘルニアの手術の失敗で命を落とすのですが、苦しみながらも
王太子フレデリックに対して「あの怪物を二度と見なくて済むことだけが慰めだ」と
言ったとか・・・何がそんなに嫌いだったのかしら?
まあ、一つくらい欠点がないと人間らしくないけどね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス王ジョージ1世妃 ゾフィア・ドロテア

2008-11-14 01:42:04 | イングランド王妃・王女
大きかった不倫の代償
ジョージ1世妃 ゾフィア・ドロテア


1666~1726/在位 (1714~1726)

ゾフィア・ドロテアは、ジョージが王に即位する前に離婚していたので
王妃ではないのですが、離婚が秘密裏にすすめられたために
合法と見なされなかったようで、ジョージ1世妃とされています。

メアリー2世アンと女王が続きましたが、世継ぎを残さなかったため
スチュアート王家の血を引くプロテスタントという条件にあてはまった
ハノーヴァー家のゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世としてイギリス王に即位します。

即位したジョージ1世は、ドイツからロンドンへやって来た際
美しいと評判の王妃ゾフィア・ドロテアを伴わず
“かかし”というあだ名のエーレンガルトと“象”というあだ名のシャーロットという
見栄えのしない愛人たちを連れて来たため、英国人はガッカリしたそうです。

では、王妃のゾフィアはどうしていたのかというと
彼女は夫がイギリス王になったことも風の便りで聞かせれて
アールデン城で軟禁生活を送っていました。

      

ゾフィア・ドロテアはジョージ1世の従妹にあたります。
彼女にはいくつかの縁談がありましたがうまくいかず、気付いた時には
従兄のゲオルグ(ジョージ1世)との縁談が決まりかけていました。

ゾフィアは送られて来た見合い用のゲオルグの人形をたたき壊し
「あんなブタ鼻となんか結婚しない!!」と叫んだそうで
これが本当の “ 金髪◯◯野郎 ” ですね ・・・失礼しました。

とにかく父親がゾフィアの願いを聞き入れず
彼女は最もイヤな相手と結婚させられてしまいます。

ゲオルクの母ゾフィアは、若い頃ゾフィア・ドロテアの父に婚約破棄をされたことがあり
二人の結婚に渋い顔をしていましたが
結婚が決まると手ぐすねひいて待っていた様子・・・ 怖いわぁ

その上ゾフィアの侍女頭は義父の愛人プラーテン伯夫人
その妹カタリーナもさらに娘ゾフィア・シャーロットも、夫ゲオルクの愛人・・・て
まわりを敵に囲まれて暮らしているような状態です。
夫もゾフィーの方を見ようともしません。 つらかったろう・・・

そんな彼女に近づいたのが、スウェーデンのケニヒスマルク伯でした。
美男子の貴族の愛の告白に負けてしまった、囚われの美貌の公妃・・・なんですが
実際は美しい悲恋の物語ではなく、虚栄心と出世欲が強かったケニヒスマルク伯が
「公妃は寂しいらしい」と聞きつけてロックオンしたことから始まった恋でした。

なんたってケニヒスマルク伯は地位欲しさに
かなり年上のプラーテン伯夫人に取り入った男です。
ゾフィアは本気だったかもしれないけど、伯爵はどうだったんでしょうか?

結局、ケニヒスマルク伯が離れていったことを怪しんだプラーテン伯夫人のスパイ活動と
伯爵の軽率な行動から、二人の恋愛は人々の知るところとなります。
最初、ゲオルクは見て見ぬ振りをしていたのですが
伯爵が他の領主にゾフィアとの駆落ちをほのめかしたことから離婚に踏み切り
その上幽閉してしまったのです。
ケニヒスマルク伯はどうやら処刑された様子ですが、ゲオルクは処刑を否定しました。

離婚するなら自由にしてあげればいいのにね 、どうせ好きじゃなかったのに。
幽閉といっても、ゾフィーに自由になるお金はかなりあり
しばらくすると近所の村までは出かけられるようにって、村の発展に力を貸したそうです。

でも、子供たちには会えないし、夫が王になっても戴冠はおろか一人寂しい城に残されて
一生を終えるなんて、悔しかったでしょうね。

ゾフィア・ドロテアが亡くなってから半年後
ハノーヴァーに戻って馬車に乗っていたジョージ1世に1通の手紙が届けられます。
その手紙は亡くなったゾフィアの遺言で、夫への恨み言が書き連ねてありました。
ジョージ1世はその場で意識を無くし、そのまま数日後に死亡します。
ちょっと作り話っぽいけど、どの本にも書いてあるところを見ると実話でしょうか?

ジョージ1世が感じた恐怖なんて、ゾフィアが何十年も背負ってきた哀しみに比べたら
雀の鼻クソみたいなもんですよ

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    

画像ないんですが… 女王たちにまつわるスキャンダルが満載です
読んでみたいな!という方は下のテキストをクリックしてね

女王たちのセックス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド女王 アン

2008-11-14 01:42:00 | イングランド王妃・王女
地味ではあるけれど・・・
イングランド女王 アン


1665~1714/在位 1702~1714

共同君臨のメアリー2世はおいといて、エリザベス1世ヴィクトリア女王
あいだに挟まれ、なんとも地味な存在の女王でありますが
イングランドとスコットランドが完全に連合国家になり
イギリスという国が誕生するという、まさにその時君主だったのがアン王女です。

アンは義兄ウィリアム3世が定めた王位継承制度
“ステュアート王家の血を引くプロてスタント”という条件に
あてはまっていたため女王になりました。

彼女は18人の子供を産んでいます 、が、半分以上が死産で
ほとんどが5歳以下で死亡し、頼みの綱の皇太子も10歳にならずに死亡してしまいます。
このことが彼女のアルコール中毒の原因とも言われていますが
ともあれ、ひとりでも生き延びていればその後の王位の継承は
大きく変わっていたかもしれません。

アンには同性愛と間違われるほど寵愛したセアラ・ジェニングスという女官がいました
父ジェイムズ2世の愛人の弟ジョン・チャーチルの妻です。

      

子供の頃からセアラが好きだったアンは、女王になると破格の待遇を彼女に与えます
夫ジョンへの爵位や年金はいいとしても、成田空港の6倍の宮殿を与えるってどうよ?

女王に限らず、王侯貴族の人々は気に入った人を偏愛する傾向があったみたいです。
やっぱり限られた人の中で暮らし、本心が分からない人々に取り囲まれてるっていう環境が
彼等をそうさせるんでしょうか?

膨大な数の人たちに取り囲まれていながら、ある意味乏しく、寂しい人間関係ですよね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド女王 メアリー2世

2008-11-14 01:41:00 | イングランド王妃・王女
(たぶん)亭主関白
イングランド女王 メアリー2世


1662~1694/在位 1689~1692

世にも珍しい “共同君臨” をしたウィリアム3世とメアリー2世は
同じ祖父(チャールズ1世)を持ついとこ同士でした。

    
系図のように、メアリー2世はイングランド王ジェイムズ2世の娘であり
ウィリアム3世はチャールズ1世の娘メアリーを母にもっていました。

普通であれば、王位継承権があるのはメアリー2世のみで
ウイリアムはイングランド国王になるはずはなかったのですが・・・

イングランドでは、プロテスタントの気運が高まり
カソリック信仰をしていたジェイムズ2世に対する風当たりが強くなっていました。
なんとか廃位に持ちこもうとしますが上手くいかず、あとは次の世代である
メアリーとアン(プロテスタント信者)に望みをかけようと思っていた時、
ジェイムズ2世と2度目の妻メアリー・オブ・モデナ(カソリック信者)との間に
王子が生まれてしまいました。

慌てたプロテスタント派は、メアリーの夫であるオレンジ公ウイリアムに援軍を要請します。
この時ウィリアムが出した条件がイングランド王位でした。

結局ウィリアムの無血クーデターが成功し、ウィリアムは王座につきますが
王位継承権1位のメアリーをさしおいて王になるわけにもいかず
共同君臨という形がとられました。

実は、イングランド政府は一度ウィリアムとの約束を破ろうとしています。
怒ったウィリアムがオランダに帰ると言い出し、メアリーが
自分はいいから夫を王座につけてくれと政府に頼んでいます。

もしかして、すっごい亭主関白じゃないのかしらぁ? ウィリアム。
一部には、冷静を通り越して冷酷な人物だという噂もあります。
メアリーのオロオロ状態が目に浮かぶわぁ
現に君臨した後はウィリアムばかりが目立ちます。

しかしウィリアム3世は、それなりに賢王だったようで
君主制を確立したり、国立銀行を創設したりしています。

ただ、いかんせん外国人というところが(オランダ人ね)・・・
いまひとつ国民に受け入れられなかったみたいです。

でもよく考えたらイングランドで生粋の英国人が
王になったことってあったっけかな?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ジェイムズ2世妃 メアリー

2008-11-09 23:22:04 | イングランド王妃・王女
義理の娘に王妃の座を奪われた
ジェイムズ2世妃 メアリー・オブ・モデナ


1658~1718/在位 1685~1688

カトリック信奉者であることを公言したジェイムズ2世は、怖い者無し!とばかりに
最初の妃アン・ハイドの死後、イタリアの名門モデナ家からメアリーを迎えます。

      

メアリーはとても美しくチャーミングで
ジェイムズの兄チャールズは彼女が到着するなりちょっかいを出したほどですが
国民には不人気でした。

なぜ? それはカトリックだったからです。

もしこの結婚がなければ、あるいは子供が生まれなければ、と言ってもせんないことですが
名誉革命は起こらなかったかもしれません。

議会はジェイムズを王宮から退けようと王位継承排斥法案を出したり
チャールズ2世の庶子マンマス公ジェイムズ・スコットを継承者にしようとしたり
様々な手を打ちますがいずれも失敗に終わり、あとはジェイムズの死を待って
メアリーアンへの継承を待つしかないという結論を出しました。

ところがところが
なんと結婚して14年、いきなり王妃が懐妊し
翌年王子ジェイムズ・フランシスが誕生します。

この時メアリーは「クッションを腹にあてている」などの噂をたてられています。
本当なら祝福されるべき王妃の妊娠なのに、非難がおこるなんて
国を離れて嫁いできたのに悔しかったでしょうね?
そもそも断っちゃえば良かったんじゃない? 歳もすごく離れてるんだしさ

これによって反ジェイムズ派は、行動するしかないと決断し
ジェイムズ2世の前妻アンの娘メアリー(後の2世)を妻に持ち
チャールズ1世の娘、すなわちジェイムズ2世の妹メアリーを母に持つ
ナッソウ伯ウィリアムに救援を要請してジェイムズ廃位を成し遂げます。

しかし、王位をねらうウィリアムは国民感情を考えて
ジェイムズ一家を無傷でフランスへ逃がします。

メアリーは(美貌も駆使したかもしれませんが)ルイ14世を巻き込んで
息子をイングランド王にしようと奮闘しますが
ジェイムズ・フランシスのイングランド上陸は失敗し
夢が叶わないままパリ近郊で亡くなります。

シャーロットの寺院に埋葬されましたが、フランス革命の時に壊されてしまったそうです。

嫁ぎ先さえ違ったらその美貌で人気者の王妃になれたかもしれないのに・・・
ホント結婚て女の人生を大きく左右するものですよねぇ。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ジェイムズ2世妃 アン

2008-11-08 21:12:40 | イングランド王妃・王女
二人の女王の母
ジェイムズ2世妃 アン・ハイド


1638~1671/在位せず

兄チャールズ2世に跡継ぎがいなかったことから王位についたジェイムズ2世は
即位前に、姉であるオレンジ公妃メアリーの侍女だったアンと結婚していました。

アンの父は兄チャールズの亡命政権の国務大臣で後にクラレンドン伯に叙位されています。

     

ジェイムズは母アンリエッタマリアの亡命先であるサン・ジェエルマンを訪れた際
やはり母を訪れた姉の侍女アンを目にしていましたが、その時は特に目をとめませんでした。

しかし2年後姉をハーグに訪ねた時、再び彼女を目にするや猛然とアタック!
「 生まれた子供は王政復古後嫡出子にする 」と約束して彼女を恋人にします。
ところが彼女の妊娠が分かっても、ジェイムズは結婚を躊躇します。

ここで登場したのが兄チャールズ。
同じような立場のルーシー・ウォルターを愛人のままにしておきながら
自分のことを棚に上げたチャールズは「 男なら約束を守れ 」と弟を一喝、
ジェイムズはアンと結婚します。

一説によると、アンはそんなに美しくはなかったらしいのですが
賢明で機智に富んでいたらしく、フランス大使いわく
「 彼女は王族にふさわしい勇気と知性とエネルギーを備えている 」
女性にとっては嬉しいエピソードですよね。

なんだかポートレイトも素朴でいい感じです

アンは死の数年前に密かにカトリックに改宗したらしく、その影響かどうだか
アンの死後ジェイムズも自分がカトリックを信奉していることを公言します。
当時これは大変間違った行動でしょう

兄チャールズは密かにカトリックに傾倒していましたが死の時まで黙っていました。
結局これが後々、カトリックへの公職登用禁止の可決や
ジェイムズの王位継承排斥法案提出につながっていきます。

とはいえ二人の間に生まれた娘たちメアリーアンはプロテスタントで育てられたため
後に女王の座に就くことになります。

夫は王、娘二人は女王になりましたが、アンはそれらを知らずに34歳で亡くなります。

ちなみに、ジェイムズ2世の愛人アラベラ・チャーチルも
そんなに綺麗じゃなかったらしいんですが(美脚だったらしい)知性派だったそうです。

              
                アラベラ・チャーチルです
                       うーん…確かに…

  
ジェイムズ2世って女性を見る目はあったのかも って思いたいわ。
顔だけじゃなくて知性で選んでるんですもの!

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王チャールズ2世妃 キャサリン

2008-11-06 01:10:34 | イングランド王妃・王女
13人の愛妾を持った王の妻
チャールズ2世妃 キャサリン・オブ・ブラガンザ


1638~1705/在位 1662~1685

分かっていただけでも13人の愛妾がいたといわれるチャールズ2世。
有名どころはバーバラ・ヴィリアーズネル・グィン
ルイーズ・ケロワールルーシー・ウォルターあたりです。

チャールズ2世は愛妾に気前よく爵位を与え、皆現在まで続く名家となっています。
特にネル・グィンを除く3人は、延々とダイアナ妃にまで繋がっている家系です。

      

そんなチャールズ2世のもとへ嫁いで来たのは、ポルトガル王女キャサリンでした。
ポルトガルもスペイン同様カトリックの国で、特に敬虔な信者だったキャサリンは
24歳という、当時としては決して若くない花嫁ながら、ウブで純愛を夢見る女性でした。

しかしそんなキャサリンの前に、夫チャールズは次々と愛妾を連れてきて
キャサリンの女官にしたり、食事に招いたりのやりたい放題
キャサリンは国へ帰りたいと泣きわめいたこともあったようです。
でもチャールズ2世は、それなりに愛妻家だったようで
随所でキャサリンを喜ばせることを忘れませんでした。(マメな人です

ポルトガルってちょっと地味目ですが、当時は植民地も多く
チャールズ2世とキャサリンの結婚も、ものすごい利益をイングランドにもたらしたはず。
なにせキャサリンには、持参金の他にモロッコやボンベイが付いてきたんだから!!
もっと「国に帰ってやる!!」って強く出ればよかったのに・・・

夫を心底愛していたのか、当時の王妃ゆえのあきらめからか
キャサリンは愛妾の存在を許し、その上仲良くなろうと努力までしています。
私にはできない  あなたはどう?

チャールズ2世の死後、イングランドに残ったキャサリンですが
カトリックのジェイムズ2世が廃位されると
プロテスタントのウィリアム3世&メアリー2世に使用人を減らされたり
監視されたりして肩身がせまい思いをし、8年後にポルトガルに帰国します。

帰国の際には大歓迎され、弟であるペドロ2世の摂政になったりして表舞台で活躍しますが
イングランドでの大人しい生活の反動かかなり傲慢になって
ちょっと人気を落としたらしいです

でもいいじゃない!!
31年も国のために耐え忍んできたんだからさ。
     
               
            ポルトガルに帰った貫禄充分のキャサリン妃です

 おまけ
当時たくさんの植民地を持っていたポルトガルからやって来たキャサリンは
イングランドでは貴重だった紅茶を頻繁に飲んだそうです。
これが英国のティータイムのハシリらしいです

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王チャールズ1世妃 ヘンリエッタ・マリア

2008-11-04 01:54:52 | イングランド王妃・王女
内助の功が裏目に・・・
チャールズ1世妃 ヘンリエッタ・マリア


1609~1669/在位 1625~1649

ジェイムズ1世の後を継ぐはずだった兄ヘンリーの急死により王になったチャールズ1世は
母であるアン・オブ・デンマークの最期にずっと付き添うほど優しく
また生真面目な人物でしたが、なぜか不人気でした。

その上、お妃選びを誤ってさらに苦境に立ち
とうとう断頭台で死を迎える事になってしまいました。
        
チャールズ1世は、まず(カソリックの)スペイン王女との結婚を考えますが
プロテスタントの反対にあい交渉が失敗します。
ところが、チャールズ1世が次に選んだお妃候補がまたもや(カソリックの)
フランス王女だったため、さらにプロテスタントの不安を煽ってしまいます。

結婚当初、チャールズ1世には寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズがいて
ヘンリエッタ・マリアはフランスから連れてきた使用人を追い返されたり
真面目な夫と打ち解けられずギクシャクしますが
バッキンガム公が暗殺されると夫の愛が全面的に妻に向けられるようになり
その後はかなり仲睦まじかったようです。

ヘンリエッタ・マリアは頑なにプロテスタントへの改宗を拒むばかりか
宮廷内にカソリックのチャペルを建てて公然と信仰を誇示しました。
これがまたまた議会や国民(プロテスタント派)の不信感を増大させます。
宗教がらみだと強くは言えないけど、夫婦そろって空気読めない人ですよね

一方国教会統一を掲げるチャールズ1世は、ピューリタンへの弾圧を強め
その手をスコットランドにも伸ばしつつありましたが、これが各地で反乱を招きます。
さらにヘンリエッタ・マリアが王のためを思い反乱議員の逮捕を進言して
おおいに顰蹙を買い、ピューリタン革命が起こってしまいます。

とうとうオリバー・クロムウェルによって王党派は破れチャールズ1世は処刑されますが
その間にもヘンリエッタ・マリアはヨーロッパ中をかけまわって金策をしていました。

チャールズ1世の処刑後は貧困に陥り尼僧院に助けを求めたりもしますが
王政復古後晴れてロンドンに帰ります。
しかし息子たちと気が合わず再度フランスに戻り、豊富な年金を与えられて暮らしました。

ヘンリエッタ・マリアは夫の事は愛していたらしく献身的なんだけど
子供はけっこう可哀想な目にあっているのよね。

五女アンリエッタ・アンは、たった生後15日後で
イングランドを逃げ出した母アンリエッタ・マリアに置き去りにされています。
使用人に連れられて後日イングランドを脱出しました。
事情はあろうが連れて行けなかったのかしら? 生後15日ですよ。
             
               
                 アンリエッタ・アンです
                     無事大きくなれて良かったこと…


また、次女エリザベスもイングランドに残っていて
ただ一人チャールズ1世に別れを告げられた家族でしたが
すぐに捕らえられ、翌年14歳で軟禁先で亡くなります。

                 
                   エリザベスです
                     子供の時しか肖像画がないんです


家族がバラバラになり、最後は処刑で夫を亡くしたヘンリエッタ・マリアですが
そんなに愛していたなら、ちょっと自分が譲歩することで
回避できたこともあるのではないでしょうか?
例えば表向きだけでもプロテスタントになるとか、宮殿内にチャペルを造らないとか・・・

チャールズ1世も、国政のために少しぐらい妻に言う事を聞かせられなかったのかしら?
せめてチャペルはやめてくれんか、とか。

お互いが深く愛し合って、許し合ったことが悲劇をよんでしまうって、やりきれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ジェイムズ1世妃 アン

2008-11-02 09:10:01 | イングランド王妃・王女
国庫を使い果たした王妃
ジェイムズ1世妃 アン・オブ・デンマーク


1574~1619/在位 (スコットランド)1589~1619(イングランド)1603~1619

ヘンリー8世を継いだエドワード6世、メアリ-1世エリザベス1世には
子供がいませんでした。

そこでエリザベス1世から指名を受けて後を継いだのは
悲劇の女王メアリー・スチュアートの息子ジェイムズ。
彼はヘンリー7世の地血筋を受け継いでいた事からイングランド王になりました。

     
彼は生後1年でジェイムズ6世としてスコットランド王に即位しており
23歳の時にデンマーク王女アンと結婚していました。

ブリテン島と北欧諸国の関わりは、遠くバイキングの頃から深く
デーン人(デンマーク系)のイングランド王の時代もありました。
スコットランドは特に北欧からの影響を受けやすく、婚姻も度々行われていたようです。

ジェイムズ6世とアンは1585年に婚約しますが
北欧の圧力を怖れたエリザベス1世の反対にあって頓挫します。
ジェイムズ6世の母メアリーがイングランドで軟禁されていたからです。
しかし、メアリーが処刑されるに至って1589年、結婚が実現しました。

スコットランドはかなり財政が厳しくて
二人の結婚式や結婚生活は地味だったようです。
それでも結婚したばかりの頃は、仲睦まじかったから良かったのですけど
しばらくすると喧嘩が絶えないようになり、二人は別居状態に入ります。

スコットランドでの慎ましい暮らしの反動によるものかどうか
1603年にジェイムズがイングランド王として即位し、ロンドンにやってくると
アンはものすごい浪費家になります。
旅行や芸術品の蒐集に始まり建築にも凝ったアンは、ヨーロッパ屈指のサロン造りに精を出し
国の財政を危機に晒して夫を金策に走らせるばかりか
莫大な借金まで残してしまいました

また、カソリックとピューリタン両派の不穏な動きに苦労しているジェイムズ1世を尻目に
プロテスタントだったアンがいきなりカソリックに改宗します。
両派の排除をしようという政策をとっていたジェイムズ1世にはかなりの衝撃です。

これらの行動でアンは変わり者のレッテルを貼られてしまいますが
あれじゃないかなぁ・・・?
夫に振り向いて欲しくて困らせてたんじゃないかしら?
自分の存在に気付いてほしいとか、無視されるぐらいなら憎まれたいとか、そんな感じ?
なんか最近そんな人いましたね

アンは死の2年ほど前から病気を繰り返し、こもりがちになりますが
いよいよ病気が重くなってからジェイムズ1世が彼女を見舞ったのは
たったの3回!! だけでした。
息子の皇太子チャールズが度々母を見舞い、泊まり込み、臨終にも付き添ったそうで
それだけが死に臨む彼女の救いだったかもしれません。

アンは死の床で「私はプロテスタントでした」と告白したそうです。
やはり改宗は夫に向けての、彼女の心の叫びだったかもしれないですね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド女王 エリザベス1世

2008-11-02 09:10:00 | イングランド王妃・王女
ヴァージニアという名をもたらした
イングランド女王 エリザベス1世


1553~1603/在位 1558~1603

“処女王”と呼ばれていましたが、未婚だからってそんな・・・

フランス大使ド・メッスによると、彼女のドレスの中には
かなりキワドい男心をそそるものがあった様子、おへそまで見えたらしいですよ。
    

彼女も姉のメアリ-1世同様、少女時代は不遇でした。
父ヘンリー8世は、男子を生まないエリザベスの母アン・ブリーンに怒り
姦通の罪を着せて処刑しました。
エリザベスは庶子となり、後々まで女王の正当性に言及されることになります。

エリザベス1世の恋人といわれれている男性は数名いますが
(ここからややこしくなりますよ
中でも、父ヘンリー8世のの三人目の妻ジェイン・シーモアの兄で
最後の妻キャサリン・パーと結婚したトマス・シーモア。

姉メアリ-1世を出し抜こうとした“ジェイン・グレイ事件”の首謀者である
ウォーリック伯ジョンの息子、レスター伯ロバート・ダドリー。
その、ロバート・ダドリーの再婚相手の連れ子であった
エシックス伯ロバート・デヴリュー(32歳年下 ) あたりが有名です。

しかしなんですね、男の人は女王の寵愛を受けてるってことで、思い上がっちゃうのね
賢明なエリザベス1世は、あまりにも露骨な態度をとる恋人を退けます。
(そこがスコットランド女王メアリー・スチュアートと違うとこ!)
でも女性の人生としてそれは幸せだったのかしら?
愛する人が、私欲の無い純粋に自分を愛してくれる人なのかを見極めながら
しなきゃいけない恋愛なんて。

政治的な功績は、例によって学者の方々にお任せしますが
外ではスペインという大国を敵にまわし、中では常に不穏な動きを抱えながら
英国を繁栄に導いた彼女は、やはり名君といえるのでしょうね。

自分にもイングランド王位継承権があったメアリー・スチュアートは
エリザベス1世の女王としての不当性を声高に訴えていましたが
結局は、エリザベス1世のサインによって処刑されます。
しかしエリザベス1世が後継者に選んだのは、メアリーの息子であるジェイムズでした。
その理由は以下の系図の通り、皆ヘンリー7世の血をひいているからです。
    

これより王位はテューダー家からステュアート家に移り、大英帝国への布石となります。

 誰か教えて!!
家系図小ちぇー ・・・ 見えないじゃん
イラストレーターで作成した家系図をPDFに変換し
さらにフォトショップでJPEGに変換しています。
どうしても小さくなってしまうんですが、何かいい方法ないでしょうか?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      前川貞次郎氏『絶対王政の時代』 
      石井美樹子氏『イギリス・ルネサンスの女たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  

歴史上の有名な女性満載です
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする