goo blog サービス終了のお知らせ 

まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド女王 メアリー1世

2008-11-02 09:09:00 | イングランド王妃・王女
“ブラッディ・メアリー” の由来になった
イングランド女王 メアリー1世


1516~1558/在位 1553~1558

肖像画ってあてにならないものだけど
メアリー1世といえば登場する上の肖像画から推測するに
すごく頑なで思い詰めそうなタイプよね
こんな人に好かれたらやっかいそう・・・

新教であるプロテスタンに対する弾圧で有名なカソリック女王、メアリー1世。
その弾圧があまりにも凄まじく、血に溢れたものだった事から
“ブラッディ・メアリー” というカクテル名ができたという噂も。
おそろしや

9日間の王座で終わったジェイン・グレイを女王として認めないとすると
メアリー1世はイングランド初の女王になります。

彼女は6人の妻を持ったことで有名な、ヘンリー8世の長女にあたります。

    

系図で見るように、彼女の母キャサリン・オブ・アラゴン(スペイン王女)は
ヘンリー8世がアン・ブリーンと結婚したいがために
結婚は無効だったという理由で離婚されています。
そのせいで彼女は庶子扱いになり、つらい少女時代を過ごしました。

ちなみにアン・ブリーンの娘エリザベスも、母親が姦通の罪で処刑されたため
庶子扱いになりました。
(ヘンリー8世の後を最初に継いだのは、3番目の妃ジェイン・シーモアの子
 エドワード6世です)

母親の影響を受けたメアリー1世はカソリックの強固な信者で(スペインはカソリック)
まわりの反対を押し切ってスペイン王フェリペ2世と結婚します。
このためイングランドはスペインとフランスの争いに巻き込まれてカレー市を失い
彼女は“スペインにイングランドを売った女” として国内ではすこぶる不人気でした。

結婚したとはいえお互いが一国の王である夫婦が、一緒に過ごしたのは
2年足らずという短い時間です。
それでも夫のために自国の兵を動かしたメアリー1世。
夫のフェリペ2世は完全に政略結婚のつもりでいたのでしょうが
メアリーはどうだったのでしょうね?
38歳で初婚、夫は11歳年下の色男さんです。

彼女は2度ほど妊娠騒ぎをおこしていますが、どちらも想像妊娠だったようです。
子供を望むあまりなのか、フェリペに対する思いの強さなのか、謎です。

フェリペ2世はメアリー1世の死後、速攻で妹のエリザベス1世に求婚しています。
彼女は草葉の陰でどう思ったことでしょう?

メアリー1世は死期がせまっても、なかなかエリザベスへの継承を認める書類に
サインしなかったんですって。
姉妹とはいっても、母親は違うし、ほとんど一緒に暮らしてないんだから
愛情なんか感じてなかったとは思いますが、国のことですからね・・・

きっと政治には不向きな女性だったんでしょうね。
あるいは側近が悪かったのか?
修道院の院長にでもなってれば(当時の王侯貴族の子女には多い)
とんだ汚名を着なくてすんだんではないでしょうか?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      石井美樹子氏『イギリス・ルネサンスの女たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

      
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド女王 ジェイン・グレイ

2008-11-02 09:08:00 | イングランド王妃・王女
9日間の王座に散った
ジェイン・グレイ


1538~1554/在位 1553 

ジェイン・グレイは、大英帝国の王室史において正式には王ではありません。

“9日女王” と言われ、悲劇的に語られるジェイン・グレイですが
決して暴挙だったわけではなく、ちゃんと手順を踏めば
メアリー1世に変わって女王になってもおかしくない人でした。
     

ジェイン・グレイはヘンリー7世の曾孫にあたります。
少年王エドワード6世が死に瀕しており、メアリーエリザベス
王位継承に黄色信号を灯している時、女王の座に座ることはあながち夢ではなかったのです。

ではなぜ、彼女は16歳で処刑されなくてはいけなかったんでしょう?

それはひとえに首謀者であるノーサンバランド公ジョン・ダドリーの
ずさんな計画によるものでした。
若きギルフォード・ダドリーとジェイン・グレイは
ノーサンバランド公の野心の犠牲者としか言いようがありません。哀れです

メアリー1世への王位継承に関しては、プロテスタント派の不安の声もあり
ちゃんとネゴシエイトしていれば、あるいはスムーズに事が運んだかもしれないのに
密かに少年王の勅状をとり、秘密裏に行動していた事から
反メアリー陣営にまで見放されてしまいます。
ジェイン・グレイ本人でさえ、即位の当日まで知らなかったと言われています。

しかしねぇ、王位継承がまだまだごたついていたこの時代、
少しでも巻き込まれる可能性があるなら、もうちょっと危機感を持たないとね

現にエリザベスは、反メアリー派がエリザベスの女王即位を望む中
強く強くメアリー支持を表明しています。(それでも何かと疑われちゃうんですからね)

ジェイン・グレイは当時最も学識がある女性として知れ渡っていたそうですが
私には操り人形のように見えます。
本当に思慮深いのだとしたら、急にジョン・ダドリーの息子であるギルフォードと
結婚させられたあたりから充分警戒しなきゃ

あまりにも有名な、ジェイン・グレイ処刑の模様です。

           

彼女は死に際してまったく動じる事無く臨んだそうです。
さすがにいざとなると震えたらしいけどね。

ジェイン・グレイは、“ カソリックに改宗したら無罪放免 ”という
メアリー1世にしては…と思われるほど寛大な条件を蹴って処刑を選んでいます。

異教徒の私にしてみれば、「同じキリスト教だからいいじゃないの 」と
言いたくなりますが、そうもいかなかったんでしょうね?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 
      石井美樹子氏『イギリス・ルネサンスの女たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 キャサリン

2008-11-01 01:39:31 | イングランド王妃・王女
王を看取った慈愛の王妃
ヘンリ-8世妃 キャサリン・パー


1513~1548/在位 1543~1547

キャサリン・ハワードの処刑から1年、ヘンリー8世が6人目の王妃に選んだのは
既に2人の夫を亡くしていた30歳のキャサリン・パーでした。
さすがのヘンリー8世も若くてきれいなだけじゃダメなんだということに
気がついたのでしょうか?

キャサリンは王から結婚の申し入れがあった時
3人目の王妃ジェイン・シーモアの弟トマスと結婚することになっていましたが、
「王が亡くなったら・・・」という約束を交わしてヘンリー8世に嫁ぎました。

      

キャサリンは才媛と広く知られていた人で
そのために宮臣たちが王に強く結婚をすすめたらしいのですが
王太子の教育にも熱心で、高名な学者を家庭教師に選び、エリザベスも同席させました。

また、メアリーやエリザベスを王と和解させたり
4人目の王妃アン・オブ・クレーヴズの居城を訪ねて慰めたり
すぐに癇癪をおこす王を諌めたりと、平穏な王家づくりに努めた
慈しみ深く思慮深い人でもありました。

キャサリンの手厚い看護に看取られてヘンリー8世が亡くなった時
宮廷は新しい王エドワード6世の王太后として残ってほしいと懇願しますが
彼女はさっさと宮殿を出てトマスと再婚します。

思えば王からの結婚の申し入れに
「陛下の臣下ゆえ、仰せに従います」と言って嫁いだくらいですから
完全に“お役目”としてやってたんでしょうねぇ。
ほぼ完璧に職務遂行して、ある意味立派ではありますが・・・

しかしトマスと再婚する際に、未成年だからとエリザベスを連れて行ったことが
彼女の不幸を招きます。

トマスはエドワード6世の摂政になった兄をねたんで王権に介入しようと画策し始めますが
なんと!妻がいるのにエリザベスにしつこく求婚します。
エリザベスは相手にしなかったという説と、関係があったという説がありますが
どっちにしたって気分がいいものじゃないですよね

キャサリンは再婚の翌年、36歳の時に初めての出産で亡くなります。
賢明で誉れ高い才女でありながら、なぜか結婚運が良くなかった彼女の人生。
1年後トマスは『シーモア事件』で処刑されますが
それを知らずに亡くなったのが、せめてもの慰めかと・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      石井美樹子氏『イギリス・ルネサンスの女たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

      
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 キャサリン

2008-11-01 01:36:23 | イングランド王妃・王女
浮かれすぎた王妃
ヘンリー8世妃 キャサリン・ハワード


1521~1542/在位 1540~1542

アン・オブ・クレーヴズに失望したヘンリー8世は、さっさと次の女性を見つけますが
それがアン付きの女官だった継祖母につれられて出仕していたキャサリン・ハワードでした。

       

キャサリンの父は2代目ノーフォーク公トマスの次男で
アン・ブリーンの母エリザベスと兄妹にあたることからふたりは従姉妹同士になります。
もっとも面識はなかったようですけど。

なお、アン・ブリーンに処刑の判決を下した裁判長は
キャサリンの叔父にあたる3代目ノーフォーク公でした。
なんか因縁めいてますね

キャサリンは母を亡くすと継祖母に預けられますが、預けられた方もいい迷惑で
彼女はかなりの放任状態で育てられます。
その結果といいますか、継祖母の音楽教師マナックや従臣ディアラムと関係を持つなど
奔放な青春を送ります。

さすがの継祖母も「これはいかん!」とキャサリンを監視することにし
彼女を連れて宮廷に出仕しますが、ここでも彼女は母方の従兄であるトマス・カルペパーとも
関係を持ってしまいます。

キャサリンはカルペパーのことを真剣に考えていたようですが
ヘンリー8世に言い寄られると、あっさりと受け入れちゃったみたいです。
アンとの離婚成立から1ヶ月後、ヘンリー8世とキャサリンは結婚します。

王妃になって最初は楽しかったんでしょうが、なにしろ18歳の若さだし
好き勝手に育ってきたキャサリンはすぐに退屈になりました。

だからかどうだか、しばらくするとディアラムを秘書として呼び寄せるとよりをもどし
その上カルペパーともよりをもどします。

女官とか侍女とか、うわべだけの取り巻きとかたくさんの人に取り囲まれてて
分からないはずないじゃな~い !! というわけで
結婚の翌年末にはヘンリー8世の知るところとなって逮捕されます。
ヘンリー8世は、この件について1度もキャサリンの弁明を聞こうとせず
「無実だ」と訴え続けた彼女は、2ヶ月後に処刑されます。

キャサリンは処刑の前日「初めてのことだから」と言って
処刑台に首をのせる練習をしたりして、あっけらかんと過ごしたようですが
死後は幽霊となって現れるそうです。
やっぱり悔しかったんでしょうね
20歳だもの、やり残したこともいっぱいあっただろうに・・・

どうして王様の浮気はよくって、王妃の浮気は処刑なの?
浮気には浮気で対抗しろっていうわけじゃないけど、不公平じゃないですか?
どうやら王の寵姫とか愛妾の浮気はいいみたいなんですよね。
そりゃ、もともと浮気相手なわけですもんね。
キャサリンは王妃じゃなくって愛妾になれば良かったんじゃないかな?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 アン

2008-11-01 01:30:33 | イングランド王妃・王女
“王の妹”になった王妃
ヘンリー8世妃 アン・オブ・クレーヴズ


1515~1557/在位 1540

ジェインの死後3年、ローマ法皇庁と断絶したままのイングランドは
同盟国を得る必要に駆られ、ヘンリー8世の再婚を考えます。
思えばヘンリー8世が政治的に結婚を考えるなんて初めてのことです。
キャサリン・オブ・アラゴンは兄嫁を好きになっちゃったわけだから)

       

アンの兄クレーヴズ公ヴィルヘルムが神聖ローマ皇帝カール5世と対立していたことから
アンと妹アメリアが候補にあがります。

宮内庁官クロムウェルの命でハンス・ホルバインが描いた
各国のお妃候補の肖像画の中からアンを選んだヘンリー8世ですが
よほど気に入ったのか、急いで結婚の話しを進めさせ
アンがイングランドに到着した時には自ら途中まで迎えに出向いています。

が、しかし、ガーン
ヘンリー8世はアンを一目見て失望してしまいました。
どうして?  可愛いじゃないの。
肖像画があまりにも奇麗に描かれていたという説もありますが
ヘンリーが側近に語ったことによると「並外れてがっちりしている」と
いうことだったらしいですよ。
(フランス王フランソワ1世は、「娘をカレーまで行かせるから見に来たらどうか?」と
 提案しています。やっぱり実物をみないとね)
きゃしゃな人が好きだったのかしら? ヘンリー。
でも、がっちりしてるなら丈夫な子供を産んでくれるかもしれないのにね。

そんなわけで、ヘンリー8世とアンは1度も夫婦関係を結ばないまま半年後に離婚します。
アンの場合も国際関係がからむので知恵が絞られた結果
アンが以前交わしていたロレーヌ公子との婚約が破棄されていなかったという
重箱の隅から探し出してきた理由をこじつけます。

でもアンには本当の理由が分かっていたのよね
恥をさらしたくないとイングランドに残ることにします。
ヘンリー8世はアンに年金と居城、そして “ 王の妹 ” という称号を与えました。
称号もらたってさ~!! って思いません? ホントヒドい話しですよ

アンは穏やかな性格だったようで
(じゃなきゃ国に帰って兄上に戦争しろってけしかけるね、きっと)
先王妃の娘たち、メアリーエリザベスとも打ち解けて付き合うようになります。
メアリー1世の戴冠式にはパレードに参加しています。

自分を侮辱したも同然の異国の地で、寂しく余生を送らなければならないなんて
なんて哀しい人生でしょうか?
私は、ヘンリー8世の6人の王妃のうち、アンへの仕打ちが一番非道だと思うわ!!

余談です
アンは亡くなると、メアリー1世の命令により
ウエストミンスター・アベイ(王や王妃の墓所)に葬られました。
メアリー1世ってそんなに冷血漢じゃなかったのかも・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 ジェイン

2008-11-01 01:27:02 | イングランド王妃・王女
唯一王子を産んだ
ヘンリー8世妃 ジェイン・シーモア


1509~1537/在位 1536~1537

二人目の妻アン・ブリーンの処刑から2日後に婚約し10日後に結婚したジェイン・シーモアは
父親が王付きの寝室係侍従だったことから最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女になり
引き続きアンに仕えていました。
かなり地味目な性格だったようで、最初はヘンリー8世の気を惹きませんでした。

       

ヘンリー8世がジェインに目をとめたのは、父親と兄の出世欲によるもので
王がシーモア家の居城に宿泊する際、わざわざジェインを呼び寄せて
世話係にあたらせたことが始まりでした。
その後も渋るジェインを急き立て、王とジェインの部屋の間に秘密の通路まで造ったりして
(本当かね?)とうとう結婚にこぎつけます。

ジェインはあまり教育を受けておらず、文字は自分の名前が読み書きできる程度でしたが
裁縫や家事は得意だったようです。
堅苦しい性格で、取り巻きも妹と義姉の二人しかいませんでした。

アンの時代のきらびやかさは鳴りをひそめ
宮廷内では上品で落ち着いたお洋服が着られるようになったみたいです。
はたして派手好みのヘンリー8世はそれでよかったんですかね?

ジェインは戴冠をしていません。
これは王子が産まれなかった場合にそなえてのことではないか、という憶測を呼びました。
(離婚するのかしら? 処刑するのかしら? 怖いですね

しかし翌年ジェインは王子エドワード(後の6世)を産みます。
かなりの難産で命の危険までありましたが、ヘンリー8世の喜びようは大変なもので
3日後に行った洗礼式に容態のよくないジェインを無理矢理出席させます。

これがたたってジェインの容態は悪化し、9日後に亡くなります。
さすがのヘンリー8世もこの時ばかりは喪に服し、その後3年間再婚はしませんでした。
死後はジェインと墓所を共にしています。

ただ、ジェインがずっと生きていたらどうだったんでしょうね?
このまま幸せに添い遂げられたかどうか・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 アン

2008-10-26 22:20:13 | イングランド王妃・王女
エリザベス1世の母
ヘンリー8世妃 アン・ブリーン


1507~1536/在位 1533~1536

キャサリン・オブ・アラゴンを王妃の座から退け、その椅子に座ったのは
一介の騎士、トマス・ブリーンの次女アンでした。
       
アンの母エリザベスは名門ノーフォーク公トマス・ハワードの娘でした。
一時宮廷に出仕していたことがあり、ヘンリー8世の愛人だったようです。
(アンはヘンリー8世の娘ではないかという噂がささやかれたことがあったようですが
 これはエリザベス・ブラントが生んだ子供と混同されたみたいです)

ともあれ、父母ともにヘンリー8世に気に入られ
ヘンリー8世の妹メアリーがフランス王ルイ12世に嫁ぐ際には
アンは姉メアリーと共に侍女としてフランス宮廷に出仕します。
(ちなみにこのフランス王ルイ12世妃メアリーは、じいさまとの結婚が不満で
 連日連夜ダンスをさせて早く死なせちゃったらしい・・・)

数年の滞在の後、ひと足早く帰国しヘンリ-8世の愛人となっていたメアリーを頼って
イングランド宮廷に出仕し、王妃キャサリンの侍女になります。
(しかし母子そろってとんでもありませんな  
 トマス・ブリーンは何をボーッとしていたのかね?)

そこでさっそく目をつけられたアンですが
すでにパーシー卿との縁談があった彼女はケントに身を隠します。
それがまたまたヘンリー8世を燃え立たせたのか
あるいはアンが「結婚できないなら・・・」と拒んだためか
ヘンリー8世はアンと結婚の約束をし、キャサリンとの離婚前に秘密裏に結婚します。

でも一国の王たる者、しかも時は絶対王政の頃でしょう?
その上 “ 横暴でわがまま ” で鳴らしたヘンリー8世ですよ。
侍女との約束を律儀に守ろうとするあたりがちょっと可笑しいね

めでたしめでたし、かと思いきや、アンが産んだのが王女エリザベス(1世)で
二人目の王子を流産したことから、ヘンリー8世の愛は急速に冷め
新たに見つけたジェイン・シーモアへと移っていきます。
(メアリーとアン、姉妹二人と関係をもったことによる
 神の祟りを怖れてという説もあります)

流産から4ヶ月後、アンは兄などらとともに姦通の罪で逮捕され
(無実の罪だという説があります)4日後に処刑されます。
アンは処刑にはればれと臨んだというあたりから、最後の数ヶ月
ヘンリー8世がアンに対してどれだけ辛辣で過酷だったか伺い知れます。

キャサリンの場合はバックにスペインも神聖ローマ帝国もついてたけど
アンの場合はねぇ・・・
女の命なんて、王の一存でどうにでもなっちゃう時代だったんですね。

余談です
映画『ブーリン家の姉妹』見なきゃ。

『クレーヴの奥方』を再読中なんですが、その中でメアリー・スチュアート
フランス王フランソワ1世がアン・ブリーンを愛していて
ルイ12世妃メアリーが帰国するときもアンをフランスに残したというような
ことを言うんですが、どうなんでしょう?
『クレーヴの奥方』は一応小説ですから・・・

ブーリン、ブリーン、ブリン いろいろ表記があるんですが
今回は本の通りブリーンにしました。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー8世妃 キャサリン

2008-10-26 01:31:31 | イングランド王妃・王女
愛人呼ばわりされた王妃
ヘンリー8世妃 キャサリン・オブ・アラゴン


1485~1536/在位(1509~1532)

6人の王妃を持った王として有名なヘンリー8世ですが
当時王や貴族が複数の王妃を持っていた事は珍しいことではありませんでした。
3人、4人は当たり前、北欧のどこかの王様も6人と結婚していました。
ただ彼の場合は死別でなかったり、ローマ法皇庁と喧嘩したりで悪名が高いんだと思います。

ヘンリー7世がスペインとの同盟条約を結ぶ条件として王太子アーサーと結婚したのが
有名なスペイン女王イサベルの娘キャサリンでした。
アーサー15歳、キャサリン16歳の若い夫婦でしたが
結婚の翌年アーサーは急死してしまいます。

      

キャサリンの持参金を失いたくないヘンリー7世は次男ヘンリー(8世)との
再婚話をもちかけます。
(自分の後妻にしようともしましたが、これにはさすがにスペインが難色を示しました)

それでもなかなか結婚には至らなかったのですが、ヘンリ-7世の死後即位したヘンリー8世は
即座にキャサリンと結婚します。
よっぽど好きだったらしい・・・
ヘンリーは18歳、キャサリンは24歳のあねさん女房でした。

二人は仲も良く、キャサリンは王の不在時に摂政まで努めるほど優秀な王妃だったのですが
なぜか子供に恵まれず、5人が死産、6人目に産まれたのが王女メアリー(1世)でした。
このことがヘンリー8世に焦りを与え、加えてアン・ブリーンの出現があり
キャサリンとの離婚を考えるようになります。

しかし、これにはスペインが黙っちゃいません
スペインはキャサリンの甥カルロス1世が君臨していましたが
彼は神聖ローマ皇帝カール5世でもあり、ローマ法王庁に発言力を持っていました。
ローマ法王はヘンリー8世とキャサリンの離婚を認めず
ヘンリー8世はローマ・カトリックと決別、イギリス国教会を設立します。

いずれにしても離婚が進まぬ中、アンに子供ができて焦ったヘンリー8世は一計を案じて
『キャサリンとは結婚ではなく愛人関係だった』というむちゃくちゃな理由で
結婚無効の決定を下します。

13年も一緒にいて、摂政までやらしといて “ 愛人関係 ” とはっ
しかもアンはキャサリンの侍女でした。 
これは女としては忸怩たるものがあったでしょうねぇ。
また、キャサリンはカトリックを深く信仰していたので、自分が原因で
夫がカトリックと決別するなんて、いたたまれなかったでしょう。
キャサリンの心中を察すると・・・

きれいな侍女って連れて歩くにはいいんだろうけど、けっこう王の愛人になってんのよね
気をつけて人選しなければ。

その後キャサリンは、ベドフォードのキンボルトン城で暮らしましたが
近隣住民の評判はすこぶる良く、彼女の葬儀の際は王の言いつけにそむいて
大多数の村民が参加したらしいです。

しかしヘンリー8世の非道ぶりはこんなもんじゃない
隠居ですんで良かったかも・・・

余談です
ロンドンのマダム・タッソーに、6人の妃に囲まれたヘンリー8世がいるんですが
みんな肖像画どおりですごく怖いの!

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー7世妃 エリザベス

2008-10-24 22:35:14 | イングランド王妃・王女
英国王室女性随一のサラブレッド
ヘンリー7世妃 エリザベス・オブ・ヨーク


1465~1503/在位 1486~1503

テューダー王家初の王ヘンリー7世の妃エリザベスは
英国王室の女性の中でただ一人、イングランド王の娘であり、姉妹であり、姪であり
妻であり、母であった女性  セレブ中のセレブです。

         

そんな畏れ多い身分の彼女ですが、父王は戦いにあけくれ
父王の死後は教会の庇護を受け、弟のエドワード5世とヨーク公を
頼みの綱の叔父に殺され、その叔父も戦死してしまい
母親の生家に力は無く、明日はどうなるか(ってことは無いと思うけど)という
なんとも穏やかでない日々を送りました。

エリザベスは5歳の時にノーサンバランド伯の息子と婚約しましたが
相手方が寝返ったために破談に、次いでフランス皇太子シャルルと縁談がありましたが
父王ルイ11世が同意せずうまくいきませんでした。
自分の意志でないとはいえ、縁談がうまくいかないってへこむでしょうね?
(でも、じいさまの王様の後妻とかだったらダメになって嬉しいかも・・・

ヘンリー7世との結婚は、王の母マーガレット・ボーフォートが強く望んで実現したもので
王位の正当性を強固にするため、そしてヨーク家の蜂起を防ぐための結婚でした。
ヘンリー7世はナポリ王女との結婚を考えていましたが母親に押し切られてしまったようです。

       

確かに家系図でみると、ヘンリー7世の王位の根拠は希薄ですね。
せいぜい母方を遡っていけばエドワード3世(ジョン・オブ・ゴーントの父)に
いきつくぐらいです。

ヘンリー7世は、年代記作家を総動員して、リチャード3世を極悪非道で醜く
逆に自分を美化して書かせたという説があります。
また、自分の王位を脅かす者を極端に怖れ、ヨーク家の末裔たちを処分し
エリザベスの母エリザベス・ウッドヴィルも権利を剥奪され隠居させられます。

自分と血のつながりがある人々を次々と奪っていった男性と結婚して
エリザベスは幸せだったんでしょうか?
ところが、なんだか二人はとても仲睦まじかったらしいです
戦国の世は不可解ですなぁ・・・

しかしその幸せも長くは続かず、エリザベスは7人目の子供の出産で命を落とします。
38歳で結婚17年目のことでした。
その前年長男アーサーが急死してしまったことがひびいたようです。

ヘンリー7世は新設したチャペルにエリザベスを埋葬し、再婚もせず
死後は王妃の側に埋葬されました。
政略結婚も悪いことばかりじゃないのかもね

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王リチャード3世妃 アン

2008-10-23 22:43:01 | イングランド王妃・王女
“キングメイカー”の娘
リチャード3世妃 アン・オブ・ウォーリック


1456~1485/在位 1483~1485

ヨーク家最後の王リチャード3世が結婚したのは、エドワード4世に
半旗を翻して倒されたウォーリック伯リチャードの次女アンでした。

      

ウォーリック伯はエドワード4世擁立に尽力した人物でしたが、
エドワードが王になってから軽んじられたため、王弟クラーランス公を王にしようとしたり
潜伏中のヘンリー6世を復権させようと目論みます。

ウォーリック伯は、二人の娘のうち長女イザベルはクラーランス公に
妹アンをヘンリー6世の皇太子エドワードに嫁がせます。
(この時アンは正式に結婚式をあげていません)

結局、ウォーリック伯の画策は失敗し、アンは父も夫のエドワードも失いますが
広大なウォーリック伯領を手に入れたかったグロースター公リチャード(後の3世)と
結婚します。

当然ながらこの結婚には、アンの姉イザベルを妻にもつクラーランス公から
大反対がおこりますが、兄王エドワード4世の許可を得て結婚しました。

アンとリチャードは小さな頃、同じ城にいた時期があります。
もし、お互いが初恋相手だったんだとしたらロマンティックですよね
いずれにしてもリチャードはアンにぞっこんだったそうです。

少年王エドワード5世の殺害(の疑い)の件もあって残虐なイメージが強いリチャード3世。
アンが28歳の若さで亡くなった時にも、
リチャードが姪のエリザベス・オブ・ヨークと結婚するために毒殺した、という
噂がたったといいますが、どうやらアンの死因は結核だったようです。

でも、二人が結婚して暮らしたヨークシャーのミドゥラム(旧ウォーリック伯領)では
よくできた領主様と評判が良かったらしいですよ
権力欲しさに人って変わってしまうものなのかしら?
しかもかなりのハンサムさんで『醜い』という説は間違いだって噂も・・・

アンの死後5ヶ月、リチャード3世はヘンリー・テューダーに敗れ戦場で殺害されます。
今はお墓も残っていません。

ヨーク家も、兄弟や親類同士で争ってばかりいないで家族一丸となっていたら
三代で終わることはなかったかもね・・・

              
           こちら、おちゃめなタッチのアン・オブ・ウォーリック

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版
      デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王エドワード4世妃 エリザベス

2008-10-23 22:32:03 | イングランド王妃・王女
身分違いの再婚で王妃へ
エドワード4世妃 エリザベス・ウッドヴィル


1437年~1492/在位 1464~1470、1471~1483

ヨーク家で最初の王になったエドワード4世が結婚したのは
なんと 敵であるランカスター軍の騎士ジョン・グレイの未亡人エリザベスでした。

      

彼女の夫も父も敵方の一介の騎士に過ぎませんでした。
ただ母親は伯爵家の出で、最初の夫はヘンリー4世の四男ベドフォード公ジョンでした。

5歳年上の未亡人であれば、本来なら愛人にしちゃうのが道理というもの。
しかも、王位に就いたとはいえ、まだ前王妃マーガレットがヘンリー6世の復位をねらって
戦っている最中です。
後ろ盾となってくれそうなフランス王家がらみの娘にするとか
どちらの味方かはっきりしない大貴族の娘なんかと結婚するのが正解でしょ?

ところが、エリザベスはエドワード4世の求愛を、本心からか作戦か
「結婚しないならば・・・」と拒み続け、とうとうエドワードは彼女と秘密裏に結婚します。

なんでもエドワード4世はハンサムだったらしいけど、なにしろ好色で、しかも人妻好きで
王が視察に来るというと金持ちは妻を連れて田舎などへ逃げ出したらしいです

もう、エリザベスと夜をともに過ごすためなら
政治的な策略なんてどうでもよくなっちゃったんでしょうね。
しかし(当然というか)この結婚は不幸な結末を招きます。

41歳でエドワード4世が他界すると、13歳の息子がエドワード5世として即位しますが
ロンドンへ向かう途中で前王の弟にあたるグロースター公リチャードに
ロンドン塔に連れ去られてしまいます。
さらに11歳になる弟のヨーク公リチャードまで、王の遊び相手として連れていかれます。

そしてグロースター公がリチャード3世として即位。
二人の兄弟はぱったり姿を見せなくなってしまいます。

             
             ロンドン塔の二人の王子です。

エドワード5世は仕方ないとして、どうしてヨーク公を渡しちゃったかなぁ?
せっかく手元にいて、教会の庇護下にあったのに・・・
たぶん、兄であるリヴァーズ伯も処刑され、なんら後ろ盾をもたないエリザベスは
あきらめてしまったんでしょうね?
他の子(全て女の子)が助かるなら仕方がないと・・・

その後、長女エリザベスがテューダー家の王ヘンリー7世に嫁ぎますが
王位をおびやかす家柄を極端に怖れたヘンリー7世は
妻の母であるエリザベスも例外でなく修道院に隠退させました。
彼女はそこで5年後に寂しく亡くなります。

王太后であり、王の妻の母であったのに、家柄のせいで誰からも救いの手が差しのべられず
不幸な後半生を送ることになったエリザベス。
普通の騎士と再婚していたら幸せだったかもしれませんね。

玉の輿も考えものです・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー6世妃 マーガレット

2008-10-22 08:01:47 | イングランド王妃・王女
“女王”であった王妃
ヘンリー6世妃 マーガレット・オブ・アンジュー


1429~1482/在位 1444~1461、1470~1471

生後9ヶ月で王になったヘンリー6世は、不幸にも母方の祖父である
フランス王シャルル6世の血を受け継いでしまい、精神異常の傾向がありました。
軍事的、政治的に全く無能だったことから、主導権争いがおこり、薔薇戦争へと
イングランド内乱の時代を招きます。

そんな王を助けたというよりは、主導権を奪い取ったという女傑、王妃マーガレットは
フランス王シャルル7世妃マリー・ダンジューの姪にあたります。

      

フランスとの戦争に次々と敗れ、領土の大半を失いつつあったイングランドは
休戦に持ち込むためヘンリー6世とフランス王女の結婚を申し入れます。
しかしシャルル7世はこれを断り、マーガレットとの結婚を休戦の条件にします。

なぜかしら?
すでにヘンリー6世の狂気や無能ぶりが伝わっていたんですかね?
それともマーガレットに手を焼いていたんでしょうか?

マーガレットは15歳で輿入れすると、信頼する和平派サフォーク公の意を受けて夫を説き
主戦派グロースター公を逮捕、処刑し、ヨーク公(後のエドワード4世の父)を
追放処分にします。
この後マーガレットとヨーク公の衝突は続きますが
1455年、議席を剥奪されるに及んでヨーク公が蹶起します。

本来ヨーク公の権利が戻って落ち着くはずだった戦いは
マーガレットの、ヨーク公を叩きのめしたいという欲望から泥沼化します。

結局、1971年まで続いたランカスター VS ヨークの戦いの中でヘンリー6世は廃位され
一度は奪回したものの最後はヨーク家に敗れます。
その間、王であるヘンリー6世はどうしていたかというと、捕えられ、逃げ出し、発狂し、
とまるきり役立たずで 、マーガレットが兵を集めたりヘンリーの救出を指揮したりと
東奔西走していました。

マーガレットはヘンリー6世を愛していたのではないと思います。
たぶん、息子エドワードを王にしたいために戦っていたのでしょう。
しかし皇太子エドワードは殺され、ヘンリー6世は獄中で死亡し
ランカスター家の王位は3代で終わりを告げます。

マーガレットは、5年の牢獄生活の後フランスに帰されますが
フランス王ルイ11世は彼女を手厚く庇護しようとはしなかったらしく
7年後貧困の中で亡くなります。

本来は平和の使者であったマーガレットが、国内に戦乱をひき起こしたことになりますが
政治的に浅はかではあっても、責任感がと意志は強い
背負った使命を全うする人だったんじゃないでしょうか?
男だったら良かったかも

イングランドでの彼女の評価は散々ですが、王に変わって政争に巻き込まれ、
矢面にたたされてしまった不幸な王妃だと、私は思います。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      石井美樹子氏 『イギリス・ルネサンスの女たち』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー5世妃 キャサリン

2008-10-22 01:21:49 | イングランド王妃・王女
王家の流れを変えた再婚
ヘンリー5世妃 キャサリン・オブ・ヴァロア


1401~1437/在位 1420~1422

早すぎる死を迎えたヘンリー5世の妃キャサリンは
フランス王女でありながら、不幸な少女時代をおくりました。

      

彼女の父シャルル6世は精神異常があり、度々発狂していました。
そこで国政の主導権を巡って、フランスは内乱状態に陥ります。

母であるイザボー・ド・ヴァビエールは有名な悪妻で、愛欲と浪費にあけくれ
キャサリンら子供たちは食べ物に困って修道院にあずけられたこともあったそうです。
(王様の子よ

キャサリンが13歳の時、ヘンリー5世との縁談が持ち上がりますが
これはイングランドの助力を得るため、アルマニャック派から
ヘンリーに申し入れたものでした。
ブルゴーニュ派も、ブルゴーニュ公の娘キャサリンの縁談をもちかけていましたが
ヘンリーは(王女)キャサリンを選びます。

持参金や領土などを巡って交渉が決裂したことで、ヘンリー5世がフランスへ侵攻し
圧勝するなどの紆余曲折がありましたが、両国の間で講和が結ばれた1420年
19歳になっていたキャサリンは屈辱的な条件とともにイングランドへ嫁ぎます。

自分の国を打ち負かした王の妻になるなんて・・・
戦利品みたいに扱われ、姉リチャード2世妃イザベルがヘンリー4世に受けた
酷い仕打ちの思い出もあります。
幸せいっぱいの花嫁ではなかったと思うなぁ・・・

1年後に皇太子が産まれますが、その9ヶ月後
ヘンリー5世はフランスに出征中急死してしまい
1歳にもならない息子がヘンリー6世として即位します。

キャサリンは摂政にはなりませんでしたが、幼い王の王太后としてフランスへも帰されず
再婚禁止の決議まで出されてしまいます

しかし、ヘンリー5世の死後3年ほどで、キャサリンは“王太后付納戸係秘書”である
オウエン・テューダーと愛し合うようになり、秘密裏に結婚、4人の子供をもうけました。

納戸係ってなに?
衣装とか帽子、宝石に靴、これだけですごくたくさんの部屋がありそうですよね

これが後々、ランカスター家 VS ヨーク家の争いに、テューダー家まで加わり
王位継承がしっちゃかめっちゃかになる要因になります。

キャサリンはオウエンと愛し合うようになってから
息子のことはほったらかしだったそうです。
彼女が本当に愛したのはオウエンてことですかね?
自分を物のように扱った王より、身近で守ってくれる納戸係の方が
彼女に幸福を与えられたのかもしれません。

 おまけ
キャサリンの墓銘は、息子ヘンリー6世(ランカスター家)の頃には
『ヘンリー5世妃』としか入っていなかったのに
孫であるヘンリー7世(テューダー家)の頃に
『オウエン・テューダーと結婚』と加えられました。

死んでからもゴタゴタに巻き込まれて・・・
おちおち休んでいられないですね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王ヘンリー4世妃 メアリー

2008-10-21 08:11:32 | イングランド王妃・王女
王位簒奪者の妻
ヘンリー4世妃 メアリー・ドゥ・ブーン


1370~1394/在位せず

リチャード2世を廃位に追いやり王位に就いたヘンリー4世ですが
他にも王位を主張するクラランス公家やヨーク公家などがあり
彼の王位は盤石ではありませんでした。

彼は王になる前に、莫大な財産の相続人メアリーと結婚し彼女を亡くしています。

     

メアリーの姉エリナーはヘンリーの叔父にあたるグロースター公トマスと結婚していて
財産を独り占めしたかったトマスはメアリーを尼僧院に閉じ込めてしまいましたが
ヘンリーは叔母の入れ知恵でうまいことメアリーを連れ出して結婚します。

この時ヘンリー13歳、メアリー11歳なんですが
13歳で財産を狙って結婚を考えるとは・・・末恐ろしい少年ですね。
ちょっとちょっと!! 翌年子供が産まれてますよ
じいややばあやは何やってんのよぉ? 誰がそんなこと教えてんのよぉ?
夫婦とはいえ子供同士じゃないかね。

メアリーは7人目の子供を出産後24歳で亡くなります。
若すぎる出産の連続がひびいたんじゃないかしら?



               
人妻時代に見初められた王妃
ヘンリー4世妃 ジョアン・オブ・ナヴァール


1370~1437/在位 1403~1413

メアリーを亡くしたヘンリーは9年後にナヴァール王女で
ブルターニュ公の未亡人ジョアンと再婚します。

      

どうやらヘンリーは前王に追放されていた1398年頃、追放先のブルターニュで
ジョアンに恋をしたらしく、5年越しの思いを成就させて結婚しました。

ヘンリーとの間には子供が産まれませんでしたが前妻メアリーの子供たちとの関係は良好で
よく父王とぶつかる皇太子ヘンリーの肩を持ってあげていたようです。

しかしヘンリー4世の死後皇太子が王位に就くと、なぜか妖術に凝りだし
こともあろうに、ヘンリー5世に妖術を用いたとして幽閉されます。
4年後幽閉を解かれたジョアンは、その後は静かに暮らしたそうです。

マーガレット・オブ・フランスとかもそうだけど
継母になった王妃はだいたい前妻が産んだ皇太子の肩を持ちますね。
優しくしなきゃという思いがそうさせるのか、夫亡き後の保身なのか?
けっこう不幸な老後をおくる王妃っていますからねぇ・・・

余談です
メアリー・ドゥ・ブーンの肖像画・・・
これしか見つけられなかったんだけど、愛嬌があっていいですね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングランド王リチャード2世妃 イザベル

2008-10-19 21:40:50 | イングランド王妃・王女
10歳で未亡人
リチャード2世妃 イザベル・オブ・ヴァロア


1389~1409/在位 1396~1399

27歳でアンを亡くしたリチャード2世は30歳で再婚しますが
いくら政略結婚といってもこれは絶句です

       

イザベルは7歳です。

リチャード2世と前王妃アン・オブ・ボヘミアとの間には子供がなく
世継ぎのことを考えたらもう少し“産める年頃”の人にした方が良かったのでは?
結局リチャード2世は世継ぎを残すことができず
それが今後の王位継承をぐちゃぐちゃにする一因になります。

再婚して三年後にリチャード2世は廃位になり、その後幽閉先で死亡(たぶん餓死)します。

10歳のイザベルはヘンリー4世によって幽閉され、5年後にフランスに帰国しますが
17歳でオルレアン公シャルルと再婚、20歳の時出産により死亡しました。

国王の娘に生まれながら、不幸ではかない一生ですね・・・
“ お姫様 ” って小さな頃の憧れだったけど、いいことばかりじゃないね

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする