まりっぺのお気楽読書

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イングランド王ジョン王女 エリナー

2011-02-03 02:09:06 | イングランド王妃・王女
神への誓いを覆して再婚
ジョン王王女 エリナー・オブ・レスター
ペンブローク伯ウィリアム夫人/レスター伯シモン夫人


1215~1275

リチャード1世と王妃ベレンガリアの間にはお子様がいなかったので
王位は弟ジョンが継ぐことになりました。

ヘンリー2世には王子たちが5人おりまして、末っ子ジョンには与えられるべき土地が
残されていなかったのでした。
父ヘンリー2世、兄弟、フランス王フィリプ2世入り乱れての争奪戦があり
リチャード1世の死後も甥アーサーとの王位争奪戦がありましたが
1199年、王に即位することはできました。

ジョン王はこの後どんどん領土を失っていくのですが
欠地王(ラックランド)と呼ばれるのは生まれつき領地が無かったことに由来します。

さて、ジョン王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの間には5人のお子さんがいましたが
王女は3人、長女ジョアンはスコットランド王アレグザンダー2世妃に、
次女イザベラは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世皇后になりました。

        
三女エリナーがグロースターで生まれた時、ロンドンはフランス軍に占領されていました。

マグナ・カルタの調印&破棄による貴族の反乱、フランス軍侵攻と
慌ただしい日々を送っていたジョン王がニューアーク城で亡くなった時
エリナーはわずか1歳で父親の顔を見たことはありませんでした。

エリナーの兄ヘンリー3世が7歳で即位しましたがフランス軍がぐんぐん迫って来ます。
そんな時、ペンブローク伯ウィリアム・マーシャルを中心とする王党派が
ヘンリーを守ってフランス軍を退けました。
ペンブローク伯はヘンリー3世の摂政も務めます。

エリナーはペンブローク伯の長男で同名のウィリアムと4歳の時に婚約し
9歳で結婚しました。 ウィリアムは再婚で34歳でした。
こ、これは…あからさまな王家にくい込む作戦ではないですかね?

ペンブローク伯は7年後に亡くなります。
エリナーはこの時16歳でしたが、カンタベリー大司教の前で
貞節を守ること(つまり再婚しないってことかしら?) を宣誓しました。

まだお若いのにいいんですか~? と思っていたら、その7年後
レスター伯シモン・ド・モンフォールと出会います。
二人は恋に落ちまして、ウェストミンスター・アベイのキングス・チャペルで
こっそり結婚式を挙げました。

もちろん、エリナーの宣誓のことがあって、この結婚は議論の的になりました。
レスター伯は教皇の許しを得るためにローマまで出向いています。
結局許されたらしくて、レスター伯はヘンリー3世の代理として
ガスコーニュの統治も任されました。

しかし、その後ヘンリー3世がレスター伯を罷免したので反旗を翻し
一時は王&王太子を捕らえて自ら統治に乗り出しました。
結局レスター伯は、救い出された王太子エドワードの反撃に敗れ
1265年にイーヴシャムの戦いで戦死しました。

エリナーはフランスに追放になり、モンタルジ修道院の修道女になりました。
この修道院はレスター伯の妹アミシアが創設して修道院長を務めていました。
知人がいるというのは心強いですね。

追放になった後も兄ヘンリー3世はエリナーを温かく見守り
収入も増やしてあげました。
レスター伯領に関する訴訟を続けることも許してあげました。
ただ、息子さんたちはレスター伯位を継げなかったみたいです。

1275年にモンタルジ修道院でなくなり、葬られました。
夫シモンはイーヴシャムに葬られているので、バラバラになっちゃったのですね。
いつか一緒にしてあげては?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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