![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/05/f10b09379d1457aad52a855e19caf689.jpg)
(王政復古がない限り)ポルトガル最後の王妃
カルルシュ1世妃 アメリア・デ・オルレアンス
1865~1951/在位 1889~1908
アメリアの父はフランス王ルイ・フィリプの孫にあたるパリ伯フィリプ、
誇り高き(時代が読めない)ブルボン家の出身です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/eb/588015b8eb0c9029369ea8ef84504867.jpg)
スペイン王家かハプスブルク家との縁談が考えられていましたが
カルルシュに嫁ぐことになりました。
1886年に結婚し、1889年に王妃になりました。
ブルボン家出身だけどあまり格式張らず、温和な女性だったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b7/36f53b45bb02b1fe3f3933111967610d.jpg)
地味目だけど美しい1枚
アメリアは義母マリア・ピア同様、浪費する傾向がありましたが
結核の予防や治療、慈善団体の設立、サナトリウムや薬局の配備などに積極的に関わって
人気を高めていきました。
ポルトガルでは不況、プロレタリアートの拡大で共和主義が台頭していました。
暴動が頻発し王制廃止の声も上がっていました。
アメリアの人気は、わずかながらポルトガルの王家を延命させたみたいです。
国が破産に直面し、産業不振で、社会主義者も民主主義者も王家を批判する中
カルルシュがとんでもないことをしでかし、非難が集中します![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp27.gif)
それは不倫… 愛妾当たり前の中世ならいざ知らず、時代を考えなきゃ!
とうとう1907年に共和国設立になりますが、カルルシュは議会を解散します。
翌年、王家揃ってヴィソザ城からリスボンへの帰路、アーセナル通りで銃が発射されました。
カルルシュはほぼ即死、王太子ルイスは20分後に亡くなりました。
アメリアは無事でしたが、もうひとりの王子マヌエルも怪我を負います。
翌日、王子マヌエルが即位しましたが、ポルトガルの明日は決まったようなものです。
1910年、革命によりポルトガルでは第一次共和制が始まりました。
王制は廃止され、王家は追放になりました。
アメリアは余生のほとんどをフランスで過ごしました。
第二次大戦中、士気を高めるためですかね? それともフランス対策?
ポルトガルから帰国を依頼されましたが辞退しています。
でも直後に訪れたみたいで、それが最後の訪問になりました。
どうでしょうねぇ? ポルトガルの王政復古はあるのでしょうか?
一応、1910年の革命の際に、永続的共和主義政府樹立の宣言をしてたりする…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/6d/b982357a795d95806903809589a168a0.jpg)
王妃と呼ばれる日は訪れず…
マヌエル2世妃 アウグスタ・ヴィトリア
デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン
1890~1966/在位せず
アウグスタの父はホーツォレルン=ジグマリンゲン候ヴィルヘルムで
母はシチリア王女マリア・テレジアです。
マリア2世の曾孫になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/91/9fa879f1b488ea895d91584357eb5bcf.jpg)
王家が追放中の1913年に廃位したマヌエルと結婚しました。
まだブラガンザ家は復位を諦めていなかったと見えますね。
もちろん、ホーエンツォレルン家もね。
1932年にイギリスのミドルセックスでマヌエルが亡くなると7年後に再婚しました。
アウグスタは49歳、お相手のランゲンシュタイン領主ロバート・ダグラスは53歳です。
いくつになっても素敵な方との出会いをあきらめちゃだめね!
その後はバーデンで暮らし、1966年に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/7c/e3ae1ef6017b8d8cff41ff7576d7bbed.jpg)
こちらは実物。高貴そうでいらっしゃる
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
カルルシュ1世妃 アメリア・デ・オルレアンス
1865~1951/在位 1889~1908
アメリアの父はフランス王ルイ・フィリプの孫にあたるパリ伯フィリプ、
誇り高き(時代が読めない)ブルボン家の出身です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/eb/588015b8eb0c9029369ea8ef84504867.jpg)
スペイン王家かハプスブルク家との縁談が考えられていましたが
カルルシュに嫁ぐことになりました。
1886年に結婚し、1889年に王妃になりました。
ブルボン家出身だけどあまり格式張らず、温和な女性だったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b7/36f53b45bb02b1fe3f3933111967610d.jpg)
地味目だけど美しい1枚
アメリアは義母マリア・ピア同様、浪費する傾向がありましたが
結核の予防や治療、慈善団体の設立、サナトリウムや薬局の配備などに積極的に関わって
人気を高めていきました。
ポルトガルでは不況、プロレタリアートの拡大で共和主義が台頭していました。
暴動が頻発し王制廃止の声も上がっていました。
アメリアの人気は、わずかながらポルトガルの王家を延命させたみたいです。
国が破産に直面し、産業不振で、社会主義者も民主主義者も王家を批判する中
カルルシュがとんでもないことをしでかし、非難が集中します
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp27.gif)
それは不倫… 愛妾当たり前の中世ならいざ知らず、時代を考えなきゃ!
とうとう1907年に共和国設立になりますが、カルルシュは議会を解散します。
翌年、王家揃ってヴィソザ城からリスボンへの帰路、アーセナル通りで銃が発射されました。
カルルシュはほぼ即死、王太子ルイスは20分後に亡くなりました。
アメリアは無事でしたが、もうひとりの王子マヌエルも怪我を負います。
翌日、王子マヌエルが即位しましたが、ポルトガルの明日は決まったようなものです。
1910年、革命によりポルトガルでは第一次共和制が始まりました。
王制は廃止され、王家は追放になりました。
アメリアは余生のほとんどをフランスで過ごしました。
第二次大戦中、士気を高めるためですかね? それともフランス対策?
ポルトガルから帰国を依頼されましたが辞退しています。
でも直後に訪れたみたいで、それが最後の訪問になりました。
どうでしょうねぇ? ポルトガルの王政復古はあるのでしょうか?
一応、1910年の革命の際に、永続的共和主義政府樹立の宣言をしてたりする…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/6d/b982357a795d95806903809589a168a0.jpg)
王妃と呼ばれる日は訪れず…
マヌエル2世妃 アウグスタ・ヴィトリア
デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン
1890~1966/在位せず
アウグスタの父はホーツォレルン=ジグマリンゲン候ヴィルヘルムで
母はシチリア王女マリア・テレジアです。
マリア2世の曾孫になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/91/9fa879f1b488ea895d91584357eb5bcf.jpg)
王家が追放中の1913年に廃位したマヌエルと結婚しました。
まだブラガンザ家は復位を諦めていなかったと見えますね。
もちろん、ホーエンツォレルン家もね。
1932年にイギリスのミドルセックスでマヌエルが亡くなると7年後に再婚しました。
アウグスタは49歳、お相手のランゲンシュタイン領主ロバート・ダグラスは53歳です。
いくつになっても素敵な方との出会いをあきらめちゃだめね!
その後はバーデンで暮らし、1966年に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/7c/e3ae1ef6017b8d8cff41ff7576d7bbed.jpg)
こちらは実物。高貴そうでいらっしゃる
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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