goo blog サービス終了のお知らせ 

まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポルトガル王マヌエル1世妃 イサベル

2010-05-18 01:42:34 | ポルトガル王妃
華々しい一族の哀しい姉妹たち
マヌエル1世妃 イサベル・デ・アラゴン・イ・カステーラ


1470~1498/在位 1497~1498

父はアラゴン王フェルナンド2世、母はカスティーリャ女王イサベル1世
妹にカスティーリャ女王ファナとイングランド王ヘンリー8世妃キャサリン
そして後にマヌエル1世の後妻になるマリアがいます。

すごい一家でありますが、なんか姉妹は皆不幸な人生を送った気が…

        
イサベルは20歳の時ジョアン2世の王太子アフォンソと結婚しました。
アラゴン・カスティーリャは豊かなポルトガルを隣で見ていて
「くっそーぅ!」と思っていたはず。
なんとか王位にくい込んでいかなくちゃね!

そんな政略結婚でしたが、若い二人はとても愛し合うようになりました。
ところが結婚の翌年、アフォンソは乗馬中の事故で亡くなります。
イサベルは重い病に陥り、ジョアン2世から親元へ帰されました。

病から回復したイサベルは二度と結婚しないと決め、修道院に入ろうとします。
でーもー、くい込みたい一心の両親は気づかぬふりで6年が過ぎ
1497年にマヌエル1世との再婚を勧めます。

イサベル…なぜに6年もグズグズしていたのかしら?
ちゃっちゃと修道院に入ればよかったものを…イサベル1世が止めたか?

マヌエルはフェルナンド2世とイサベル1世に倣い
キリスト教に改宗しない国民を追放するという条件を掲げていました。
フェルナンド2世とイサベル1世のイベリア半島統一構想に拍車がかかるってもんです。

結局イサベルはポルトガルへ再び嫁ぎます。

同じ年の10月、アラゴン・カスティーリャ王国のたったひとりの王子ファンが亡くなり
長女のイサベルが王位継承者に指名されました。
マヌエル1世にも逆統一の期待が膨らんだはず…

けれども、イサベルは翌年出産の際に亡くなりました。
幸い王子ミゲルは誕生したわけですけれども、2年後に亡くなりました。

マヌエルはカスティーリャ王座を手に入れるチャンスを失い
ミゲルの死でイベリア半島連合王国の希望も消えました。

てなわけで、イサベルの妹マリアに求婚することにしましたとさ

マヌエル1世の野望やいかに… 次回へつづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王ジョアン2世妃 レオノール

2010-05-16 01:02:06 | ポルトガル王妃
マカオにもある慈善の証
ジョアン2世妃 レオノール・デ・アヴィシュ


1458~1525/在位 1485~1495

レオノールはポルトガル王家の歴史でたったふたりしかいないポルトガル人の王妃です。

レオノールはアヴィシュ家傍系の王女ですが
王家をとって代わろうと時機を伺うブラガンザ家の血も流れています。

ブラガンザ家のガッツが垣間見える家系図ですね!
でも、レオノールの妹イサベルが嫁いだブラガンザ公フェルナンド2世は
あまりにも頑張りすぎて1483年に反逆罪で処刑されます。

         

レオノールは小さな頃から王太子ジョアンと一緒に育てられ
12歳の時に結婚しました。 ジョアンは15歳でした。
小さな許嫁たちはいくつぐらいから結婚を意識するんでしょうね?
結婚する頃には飽きちゃってたらどうするのかしら?
顔を見たこともない人と結婚させられるよりはマシですかね。

1481年に即位したふたりには王子が生まれましたが、次男は夭逝し
長男の追う太子アフォンソは乗馬中の事故で16歳の時に亡くなりました。

当時ポルトガルにはアフリカの富が集まっていました。
ジョアン2世は、庶子ジョルジュを富める国の継承者にしようと考えました。
しかしレオノールは反対、弟のマヌエルを継承者にしようとします。
ジョアンは教皇に猛アピールしたものの、教皇は敬虔なレオノールに味方して
庶子への継承は叶いませんでした。

1495年、ジョアン2世が亡くなります。
ジョアン2世は王権を強化し、貴族は反感を抱いていました。
毒殺の疑いも拭いきれません。

弟のマヌエル1世即位後も、レオノールは宮廷で女主人を務め
チャリティーにも精を出してアクティブに暮らしました。
主に貧しい人々を救うための団体Santa Casa da Misericórdia設立の先頭に立ち
当時ヨーロッパ一と言われた設備を誇る病院を建設しました。
この団体はポルトガルだけでなく植民地にも設立されて、今も各地に残っています。
マカオにもあるんだって。

また、こちらもヨーロッパ随一と言われるマドレ・デ・デウス修道院も建てています。
レオノールは後年、多くの時間をこの修道院で過ごしました。
その時は尼僧のような服に身を包んでいたそうです。

上の肖像画を見ると、なにかトラブルがあったくさい王妃?と思ってしまいましたが
実はいい方ね。
人を肖像画で判断してはいけない…

              
             あまりにもイメージが違うのでのせてみた

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ5世妃 ジョアナ

2010-05-15 00:43:00 | ポルトガル王妃
またの名を “ ベルトランの娘 ”
アフォンソ5世妃 ジョアナ・デ・トラスタマラ


1462~1530/在位 1475~1479

ファナ(ジョアナ)の母親はポルトガル王ドゥアルテとレオノール・デ・アラゴン
王女ジョアナで、父親はカスティーリャ王エンリケ4世ということになっていますが
スペインでは “ ファナ・ベルトラネーハ(ベルトランの娘)” と呼ばれていました。
ベルトランとは母と噂のあったアルブルケルケ伯のことです。

母ジョアナは司教フォンセカの城へ追放にされた上に
フォンセカの甥と愛し合っちゃって、1468年に結婚を取り消されました。

       

エンリケ4世はイサベル1世の異母兄にあたります。
異母妹弟を恐れたエンリケは早々にファナを後継者に指名して
カスティーリャ王位を要求するアフォンソ5世と結婚させることにします。
アフォンソは1455年に王妃イサベル・デ・アヴィシュを亡くしていました。

しかしその後、両親の結婚が無効になったためにファナの継承権は剥奪され
アフォンソとの結婚は立ち消えになります。

アフォンソ5世は、新たに継承者になったイサベル(後の1世)と結婚しようとしたのですが
イサベルはムチャクチャ嫌がり、速攻でフェルナンド2世と結婚しちゃったわけです。

ファナは8歳の時にギュイエンヌ公と結婚して、再び王位継承社者に指名されますが
2年で夫が亡なります。 10歳で未亡人…

結局エンリケ4世の後はイサベルが継ぎました。
しかし貴族の中にはファナやアフォンソ5世を推す一派もあって
“ ポルトガル王位奪還! ” を目指すふたりは結婚することになります。

アフォンソ5世は約束通りカスティーリャに侵攻したわけですけど
戦いにはアラゴンも加わって長引きます。
4年後、教皇シクストゥス4世から「親戚だから」と
ファナとの結婚の無効を宣言されたアフォンソ5世も疲れ果てて
カスティーリャ&アラゴンと同盟を結び、ファナが女王になる道は絶たれました。

女王イサベルは、自分の王子と結婚するか、サンタ・クララ修道院に入るか
どちらか選ぶようファナに言い、ファナが修道院を選ぶと
「その選択は正しい」と褒め讃え、お別れ会まで開いてくれました。
それに、ずっと幽閉する気もなく3年後にはサン・ジョルジュ城で暮らす許可を与えます。

すっかり王位に欲が無くなったように見えたファナ、
子供の頃からの政争に疲れ果て「もうこりごり…」と感じているかと思いきや
どうやら手紙には死ぬまで “ 女王 ” と署名していたそうですよ。

イサベルが亡くなった時も
「わたくしの継承権は放棄し、王女ファナに譲る」とのたまいました。
でも、女王ファナはすでに即位していたんだけどね…

(参考文献 三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ5世妃 イサベル

2010-05-15 00:35:06 | ポルトガル王妃
政変まっただ中の恋愛結婚
アフォンソ5世妃 イサベル・デ・アヴィシュ


1432~1455/在位 1447~1455

イサベルの父親は、アフォンソ5世の摂政コインブラ公ペドロで
アフォンソ5世とイサベルはいとこ同士になります。

       

父親は摂政で宮廷にいることが多いし、小さな頃から一緒に育ったんでしょうね。
ふたりは愛し合うようになり、13歳の時に婚約しました。
もしや、これはコインブラ公の作戦かしら?

この婚約に怒ったのはブラガンザ公アフォンソです。
ブラガンザ公はジョアン1世と愛妾イネス・ペレスの庶子で
孫とアフォンソ5世を結婚させて王座に食い込みたいと考えていました。

先を越されたもので、ブラガンザ公は少年王にコインブラ公の野望を吹き込み
反抗心をあおることにします。
ちなみに、アフォンソをブラガンザ公に叙位したのはコインブラ公なんですよ。

アフォンソ5世は15歳になると、イサベルと結婚はしたんだけど
義父コインブラ公を疎んじるようになり、とうとう反逆者と言い出しました。

コインブラ公は商人をはじめとする上流ブルジョワジーの味方だったってことで
王党派の領主たちは快く思っていなかったという背景もあります。

1449年、コインブラ公は内乱の最中に亡くなります( 暗殺説があります)
イサベルの兄弟たちも追放されました。

せっかく愛する人と結ばれても家族がこんな目に遭わされるんじゃ…
「結婚なんかしなきゃよかった!」ってことになりませんかね?

それでもアフォンソ5世のイサベルへの愛は冷めなかったようです。

1455年、コインブラ公の罪が晴れ、イサベルは宮廷で祝宴を開きました。
イサベルが代わりに統治していた領土に兄弟たちも戻って来ます。
嬉しかったでしょうねぇ。
反逆者の娘として生きるのって、けっこうきついと思うけよ。

それなのに、祝宴からしばらくするとイサベルは23歳の若さで急死しました。
毒殺かもしれない…ってことでございます。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王ドゥアルテ妃 レオノール

2010-05-14 00:27:05 | ポルトガル王妃
夫の遺志に報いれず…
ドゥアルテ妃 レオノール・デ・アラゴン


1402~1446/在位 1433~1438

レオノールはアラゴン王フェルナンド1世の王女です。
母親はペドロ1世の孫にあたるレオノール・デ・アルブルケルケで
グチャグチャになるから家系図からは省きましたが
父方の曾祖父はカスティーリャ王アルフォンソ11世になります。
アルフォンソ11世の王妃はポルトガル王アフォンソ4世王女マリアでしたけど
祖父は愛妾レオノール・デ・グズマンとの庶子でした。ふうぅ…

       

26歳ぐらいでドゥアルテと結婚しています。
けっこう晩婚ですが子供は9人(4人は夭逝)生まれ
王女のうちレオノールは神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に
ジョアナはカスティーリャ王エンリケ4世に嫁ぎました。

1438年、ドゥアルテが亡くなり王子アフォンソが王に即位しました。
でもアフォンソは6歳…レオノールはドゥアルテの遺志により摂政になります。

議会は一応承認したんだけど、レオノールはどうやら政治に不向きだったようです。
慣れない上に “ アラゴン人 ” ということで不人気、
誰もがドゥアルテの弟コインブラ公が摂政に相応しいと考えました。

遡ればポルトガルに行き着くんだから温かい目で見てあげればいいじゃないねぇ…

結局、レオノールが摂政に就いたことでリスボンでは暴動が起きます。
またまた、その暴動をアラゴンの兄ファン(後の2世)に鎮圧してもらったりして
不人気の上塗り…
その間にコインブラ公は着々と反王大后派貴族や国民の支持を集めていました。

王大后とコインブラ公の和解交渉は、レオノールを支持するバルセロス伯と
コインブラ公を支持するリスボンの大司教の横やりが入り紛糾しました。
最終的にはコインブラ公が摂政になりますが、あきらめきれないレオノールは
摂政に戻ろうと頑張っちゃいます。

で、1440年にはカスティーリャに追放されて、5年後にトレドで亡くなりました。

6歳の息子ですもの、がっちりハートを押さえておけば摂政にならずとも
背後から操れたんじゃないの? と思うのは庶民だから?
大人しくしていれば追放にもあわずにすんだでしょうに…

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王ジョアン1世妃 フィリパ

2010-05-13 02:07:17 | ポルトガル王妃
交易大国ポルトガルの母
ジョアン1世妃 フィリパ・デ・ランカストレ


1359~1415/在位 1387~1415

フィリパはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘で
祖父がイングランド王エドワード3世、弟がヘンリー4世です。

       

弟ヘンリーと一緒に学び、当時の女性としては高い教育を受けていて
ギリシャ語、ローマ語も読むことができ、詩人チョーサーとも親しくしていました。

27歳、というとかなり晩婚に思えますが、2歳年上のジョアン1世と結婚します。
これはフランス=カスティーリャ連合に対抗して
イングランド=ポルトガルで同盟を結ぶためと
娘キャサリン(カスティーリャ王エンリケ3世妃カタリーナ)を通じて
王位を主張しているジョン・オブ・ゴーントへの協力を示すための縁談でした。

ポルトガル宮廷では「27歳~?」と、後継ぎが大丈夫か不安視する声もありましたが
フィリパは6人の子を生み、皆成人になりました。

フィリパと結婚した時、ジョアン1世には長年の愛妾イネス・ペレス・エステベスがいて
子供が3人いました。 長男のアフォンソなんてもう10歳!
フィリパはイネスの子供たちを宮殿で教育することは受け入れましたが
イネスはフィリパの推薦で小修道院長になりました。
ま、後押しっていうか、出て行っていただいたわけね

フィリパは信心深く、敬虔さのシンボルのようになりました。
「妻が夫のやることを邪魔立てすることは無作法なことです」と妻の鏡的な発言で
宮廷中の尊敬も集めました。
しかしながら彼女、かなりポルトガル宮廷で影響力がありました。
その上残っていた手紙によれば、弟ヘンリーの即位についてや貴族間の結婚など
イングランド宮廷に、遠いポルトガルの地から支持を与えておりました。

ところで、ポルトガルと言えば紅茶やスパイスなどの交易で財を成した国ですが
交易への活路を開いたのが、なにをかくそうフィリパです。

カスティーリャとの戦争を終えた後、戦争に従事していた男性たちが失業しました。
フィリパはジョアンに「セウタ(アフリカ北部)に遠征したらいいんじゃないかしら…」と
アドバイスではなくて “ ほのめかし ” ました。
フェルナンドはセウタ遠征軍を編成します。 エンリケ航海王子も参加しています。

政治と流通に詳しかったフィリパは、セウタの征服がものすごく有利で
特にスパイスの交易にもってこいだと考えていました。

53歳の時、フィリパは疫病にかかりサカヴェンに転地しました。
死を覚悟したのか息子たちを呼んで訓示を与えた後
敬虔で穏やかな最期を過ごして亡くなりました。

ポルトガルがセウタを征服したのは、フィリパが亡くなった1ヶ月後です。
もう少し頑張れば朗報が聞けたのに…
ポルトガルはその後交易から大きな利益を手に入れることになります。

ちなみに、フィリパが名前をいただいたというエドワード3世妃フィリッパ・オブ・エノー
先見の明に長けた賢夫人の誉れ高い方でした。
祖母の名を名実共に引き継いだ立派な王妃と言えましょう。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル女王 ベアトリズ

2010-05-12 00:17:52 | ポルトガル王妃
お国では女王じゃないらしい・・・
ポルトガル女王 ベアトリズ


1372~1408/在位 (ポルトガル女王)1383~1385
          (カスティーリャ王妃)1383~1390

レオノール・テレスとの間にベアトリズしか子供がいなかったフェルナンド1世は
カスティーリャとの講和条約で、ベアトリズとカスティーリャ王ファン1世の結婚を
条件に入れていました。

        

しかしフェルナンド1世は、結婚をまとめようとしちゃ中断し、
まとめようとしては取り止めて…を繰り返していました。

この結婚には王妃レオノールが乗り気で「いい縁談じゃないの!」と急き立てて
とうとうベアトリスが10歳の時に実行に移されました。

ベアトリズの結婚から5ヶ月後にフェルナンド1世が亡くなりベアトリズが即位、
母后レオノールが摂政になりました。

それでなくても不穏な空気の中、レオノールはポルトガルとカスティーリャの同盟を結び
国内から反発を招きます。

フェルナンド1世が課していた重税と、カスティーリャ支配に反発して
ポルトガルでは暴動が相次ぎ、とうとう内乱に発展します。
ベアトリズの叔父にあたるアヴィシュ家のジョアンが国民を率いていました。

1384年、ベアトリズは王子ミゲルを生みました。
ミゲルの王権のためカスティーリャ軍がポルトガルに侵攻してきました。
これをジョアンが撃退、ベアトリズは廃位されました。

ポルトガルの歴史家たちは、ベアトリズが在位した1383年から1385年の君主を
内乱による空位としていまして、ベアトリズは女王に数えられないそうです。

廃位からしばらくは王位を取り戻そうと試みたベアトリズでしたが上手くいかず
1408年にカスティーリャ王妃として亡くなりました。

              
                お茶目だからのせてみた…

10歳で君主にされて廃位されてなんて、本人はあまり理解していないと思うけど…
父王の政策の失敗と、母后の奔放ぶりのツケを払わされちゃったって感じでしょうか?
ご主人のカスティーリャ王は口ほどにもなく負けちゃうんだしね…
楽しいはずの十代を、大人たちにグチャグチャにされちゃって、可哀想ですね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王フェルナンド1世妃 レオノール

2010-05-10 23:20:43 | ポルトガル王妃
内乱を招いた…かもしれない妃
フェルナンド1世妃 レオノール・テレス・デ・メネセス


1350~1386/在位 1372~1383

レオノールはトラス・オス・モンテスの貴族の娘で
少女時代にポンベイロ領主ドン・ファン・ローレンソの妻になりました。

         

ペドロ1世とイネス・デ・カストロの王女ベアトリズの侍女をしている
姉のマリア・テレスを訪ねていた時、王女とアルブルケルケ伯サンショの結婚式に
参列するという栄誉を与えられました。

式に参列していたベアトリズの異母兄フェルナンド(後の1世)は
美しく、燃えるような赤毛のレオノールにすっかりまいってしまいます。

フェルナンドは、カスティーリャ王エンリケ2世王女レオノールと
結婚することになっていたのに、レオノール(テレス)に猛アタックします。

レオノールはほとんど拒まなかったそうでございます
恋愛沙汰を防ごうとするマリア・テレスにも食って掛かる始末…

フェルナンドは「同族結婚だ」と言ってレオノールと夫の結婚が無効になるよう手を回し
1372年にこっそり結婚しました。
同じ年に王女ベアトリズが生まれていますので、急いで結婚したのかもしれませんね。

結局その後嫡子が生まれず、1383年にフェルナンド1世が亡くなります。
ベアトリズが女王になり、レオノールは摂政になりました。

女性摂政がよく陥る敗因に “ 愛人と国を治める ” というのがありますね。
当時君主の政策に、何が正しくて何が間違いと判断を下すのは難しかったと思いますけど
愛人が牛耳ってるというだけで反発を招く原因になったみたいです。

レオノールの場合はオーレム伯アンデイロという愛人がおりまして
貴族からも庶民からも怒りをかうことになりました。

ベアトリズがカスティーリャ王ファン1世と結婚していたこともあり
カスティーリャ支配を嫌った国民は反乱をおこします。
ベアトリズは廃位され、王位は叔父のジョアン1世に引き継がれました。
レオノールは国外追放になり、カスティーリャのトルデリシャスの僧院に入ります。
3年後に亡くなりました。

それでなくても「ベアトリズは本当に王の子?」と疑われていた状況で
愛人を表舞台に上げるとはちょっと考えなしでしたね。
影のフィクサーみたいにしておけばよかったのに…浮かれてしまったか?
相手の男性にせがまれると弱いタイプだったのかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王ペドロ1世妃 イネス

2010-05-08 23:33:13 | ポルトガル王妃
不倫転じて悲恋となる…
ペドロ1世妃 イネス・デ・カストロ


1325~1355/在位 1357~1367

上の生年月日と在位期間は間違っているわけではないんです。
今からその理由を書きますね。

イネスはガリシア貴族ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロの娘で
15歳の時にペドロ妃コンスタンサの召使いとしてポルトガルへやって来ました。

      

20歳のペドロは即イネスに惹かれ愛するようになります。

愛妾イネスの方が王太子妃コンスタンサより影響力があるということで
宮廷ではカスティーリャの亡命貴族たちの力が増してきました。
すでに希薄だったポルトガルとカスティーリャの関係は厳しいものになります。

また、コンスタンサが生んだフェルナンド(後の1世)は弱々しい子だったのに
イネスが生んだ王子たちは心身共に優良児でした。
カスティーリャ貴族の影響力はさらに増大し、ポルトガル貴族は忌々しく感じていました。

ペドロの父王アフォンソ4世は、イネスの影響力を嫌って
早く別れればいいのに… と思っていました。

1345年にコンスタンサが亡くなると、アフォンソ4世はペドロに何度か再婚を勧めますが
ペドロはイネス以外の女性とは再婚しないと断ります。

アフォンソ4世は怒り爆発! イネスを宮廷から追放します。
しかしペドロが連れ戻す → 追放する → 連れ戻す、が何度か続いた末
アフォンソ4世はイネスの死を命じます。

1355年、コインブラのサンタ・クララ修道院に監禁されていたイネスのもとへ
3人の刺客が向かい、彼女は非業の死を遂げました。
ペドロの嘆きは大変なもので、刺客たちは復讐を与えられました。
アフォンソ4世に対して反乱までおこしています。

1357年、アフォンソ4世が亡くなりペドロが即位すると
新王は「イネスとは秘密裏に結婚していた」と言い出し、なんと!
彼女を棺から出してきて王妃の宣誓をしたそうですよ!
死後2年の遺体がどんな状態かはわかりませんけど、出してこられてもねぇ…

そんなわけで、イネスは死後王妃になっています。

1367年にペドロが亡くなると、アルコバッサ修道院のイネスの向かいに葬られました。
伝説では、最後の審判でお互いの棺から起き上がり見つめ合ったってことでございます。
二人の棺には “ 世界が終わる時まで供に ” 的な趣向をこらした彫刻が施されています。

結婚についてはペドロの宣言以外に証明できるものはありませんでしたが
遺された子供たちのうち、ジョアンとディニスが結婚の正当性を盾に取り
後のポルトガル内乱で王位を要求しています。

               
                なにやら悲恋の香りがしますね

イネス本人は自分をめぐる騒動をどういうふうに考えていたのかしら?
追放された時、自分から宮廷に戻りたがったのか、嫌々戻っていたのかしら?

美しいお話しではありますが、愛妾時代の態度如何によっちゃあ
こちらのとらえ方も変わるってもんです、詳しく知りたいですね。
文献を探してみなくっちゃ…

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ4世妃 ベアトリズ

2010-05-07 00:53:57 | ポルトガル王妃
迫りくるアラゴン&カスティーリャ
アフォンソ4世妃 ベアトリズ・デ・モリナ・イ・カステーラ


1293~1359/在位 1325~1357

書き出すと面倒くさいので家系図にまとめてみましたが
アラゴン王国とカスティーリャ・レオン王国が狙ってますよね!

できたら自分の国にしてしまいたいが、とりあえず味方につけとくか…てな感じで
三国入り乱れた家系図がたまらないことになっています

で、ベアトリズですけど、カスティーリャ王サンチョ4世の王女です。
兄フェルナンドはアフォンソ4世の姉コンスタンスと結婚しました。

     

娘マリアは甥のカスティーリャ王アルフォンソ11世妃になりまして
レオノールはアラゴン王ペドロ4世妃になっています。

“ 勇敢王 ” と言われるアフォンソ4世は、父王が庶子に甘いからって反乱を起こしたり
娘がネグレクトされているからとカスティーリャに戦争をしかけたり
息子ペドロが愛妾を妃にしようとした時には処分を命じたりと
結構血の気が多いタイプの方みたいですが、正義感は強かったようです。

そばで見ていたベアトリズはどう思ってましたでしょう?
なにもエピソードが無いんですよね…
とりあえず、ペドロがイネスの件で反乱をおこした時にはとりなしてます。
熱血漢の妻って、わりと気苦労が多かったりして…



               
使用人の人選を間違った王妃
ペドロ1世妃 コンスタンサ・マヌエル


1315~1345/在位せず

父はアラゴン王フェルナンド3世の血をひくペニャフィエル公ファンで
母はアラゴン王ハイメ2世の王女コンスタンスという家柄です。

           

10歳でカスティーリャ王アルフォンソ11世の妃になりましたが
この結婚は2年後に取り消されました。

ペドロも子供の時にカスティーリャ王女ブランカと結婚しましたが無効になりました。
(*Wikipedia英語版でリンクされているブランシュ・ド・カスティーヨは別人です)

1339年に王太子ペドロと結婚しました。
この時、大変な失敗をっ

コンスタンサは召使いとしてイネス・デ・カストロという女性を同行したんですけど
ペドロはすぐ彼女に夢中になっちゃって…
結局ずーっとイネスに寵愛を奪われたまま人生を終えることになります。
どうせ連れて行くなら、夫が振り向かないような人ばかり揃えりゃいいものを…

後継ぎは生まれましたが、ずっとペドロに無視されたままの6年の結婚生活の末
1345年に亡くなりました。

イネス・デ・カストロについては、つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王ディニス妃 聖イザベル

2010-05-05 10:22:06 | ポルトガル王妃
平和をもたらす聖女
ディニス妃 聖イザベル・デ・アラゴン


1271~1336/在位 1283~1325

イザベルはアラゴン王ペドロ3世とシシリー王女コンスタンスの王女です。

         

イザベルの名は、大伯母にあたるハンガリー王女聖エルジェーベトにあやかって
名付けられたそうですが、期待に違わず敬虔な方でした。

幼いうちから信心深さを表していたイザベルは、毎日礼拝に行っていたそうです。
しかも略式じゃなくみっっっちりとね!
それから断食などの苦行もすすんでこなし、日に2回ミサの吟唱を行っていたそうです。
付き添う女官の方々も大変だったでしょうね…

12歳の時、10歳年上のディニスと結婚します。
ディニスは詩人であり “ 農園王 ” としても知られていました。
なんでも広大な松の木の森を造ったそうです。
この森の木は大航海時代に船になり、ポルトガルの世界進出に貢献しました。

イザベルは結婚後も信仰を追い求めて、病気や貧しい人々のために身を捧げていました。
慈善は貴婦人の嗜みとはいえ、イザベルの献身ぶりには嗜みの域を超えていたらしく
奇妙なことに嫉妬や非難を招くことになってしまいました。

ふたりの間に生まれた王子アフォンソは、父王が庶子にばかり好意を示すのに激怒して
反乱を起こし、1323年には親子の間で宣戦布告までされました。
イザベルはふたりを和解させて “ ピースメーカー ” として知られるようになります。

1325年にディニスが亡くなり、息子のアフォンソ4世が即位すると
イザベルは、1314年に彼女が設立した修道院サンタ・クララ・ヴェルハに入り
王妃時代同様、貧しい人、病の人に尽くして余生を送っていました。

イザベルはそのまま静かに人生を終えたいと思っていたと思うんですけど
再びピースメーカーとしてかり出されてしまいます。

1336年、アフォンソ4世はカスティーリャにむけて進軍します。
アフォンソの王女マリアはカスティーリャ王アルフォンソ11世に嫁いでいたんだけど
王には愛妾エレオノール・グスマンがいて、マリアのことを病人とよばわり、
すっかり遠ざけていました。
これを知ったアフォンソは怒り爆発!ってわけです。口実かもしれないけど…

イザベルはすでに体が弱っていたにもかかわらず
ふたりの王が睨み合うエストレモスに駆けつけて争いを止め和平をもたらしました。

でもこの騒動が急速にイザベルを弱らせたようです。
そのまま病にかかり、エストレモス城で亡くなりました。
遺体はサンタ・クララ・ヴェルハへ運ばれました。

イザベルの臨終には、聖人の証である奇跡が伝えられていて
1625年、教皇ウルバヌス8世によって整列されました。

               
                 善行を讃えてもう1枚

修道院で平和に過ごしていた老齢の彼女を戦場に駆り立てたのは
ピースメーカーと名付けられたからには…という責任感でしょうか?
息子のためという親心かしら?
大人になっても王になっても、可愛い我が子ですものね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ3世妃 マチルデ

2010-05-01 23:48:06 | ポルトガル王妃
領地においてけぼり
アフォンソ3世妃 マチルデ2世・デ・ボロンハ


1202~1262/在位 1248~1253

マチルデのフランス名はマオー2世です。
母親のイーダから1216年にブローニュ伯を継承していました。

         

1223年にクレルモン=アン=ボーヴェ伯フィリプと結婚します。

フィリプはフランス王フィリプ2世の庶子でしたので
1226年に異母兄ルイ8世が亡くなると
摂政ブランシュ・ド・カスティーヨに反乱をおこしたりしました。
1235年に亡くなりました。

その後3年間、女手ひとつで領地を守っていたマチルデでしたが
1238年にアフォンソと再婚しました。

当時はイタリアのボローニャ大学で学んだ方々がエリートだったようで
高位聖職者となり王権を強化、ほぼ独裁に近い政治を行っていました。

貴族たちの不満が高まり、内乱の末、聖職者と教皇によって
兄サンショ2世が廃位され、アフォンソが1248年に即位しました。

王になったものの、後継者が生まれないことにアフォンソの焦りが募っていきます。
1253年、マチルデは50歳を超えてしまってますね…アフォンソはもう無理だろうと考えて
マチルデと離婚することにします。

当時マチルデはボローニャにいたみたいで、ポルトガルに行きたいと願い出ますが
聞き入れてもらえませんでした。

マチルデには、最初の夫との間に一男一女がいました。
ところが息子アルベルトは、なぜか継承権を放棄してイングランドに渡っていました。
娘ジョアンは嫁いでいましたが、こちらはお子が皆夭逝していたみたいです。

そんなわけでマチルデの爵位は、従姉妹のアデライデ・ド・ブラバントに継承されました。




              
若いにもほどがある花嫁
アフォンソ3世妃 ベアトリズ・デ・グズマン・イ・カステーラ


1242~1303/在位 1253~1279

ベアトリズはカスティーリャ王アルフォンソ10世と、愛妾マヨールの娘でした。

          

32歳で世継ぎがいないアフォンソ3世は、離婚したその年にベアトリズと再婚しました。
しかし彼女は11歳…いくら若い方がいいっていったって、あんまりでしょ?
子供なんか生ませたら可哀想じゃないの
さすがに長女が生まれたのは17歳ですけど…

ベアトリズは期待に応えて8人のお子さんを生んでいます(3人は夭逝)

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ2世妃 ウラッカ

2010-04-29 20:33:27 | ポルトガル王妃
フランス王妃だったかもしれない
アフォンソ2世妃 ウラッカ・デ・カステーラ


1186~1220/在位 1212~1220

アラゴンとは手を結んだものの、やはりお隣にも予防策を、というわけで
アフォンソの妃はカスティーリャ王アフォンソ8世の王女から迎えることになりました。
母レオノールはイングランド王ヘンリー2世王女です。

         
ウラッカは、フランス王ルイ8世のお妃候補に挙がっていたのですが
祖母であるヘンリー2世妃エリナー・オブ・アキテーヌが直々に検分して
ブランカの方がフランス王妃に相応しいと言ったとかで、妹が嫁ぐことになりました。
ウラッカという名前がフランスに受け入れられないと言ったという説もあります。

欧州の中心みたいなフランス王妃になれず落胆したのか
近くに嫁げて良かったと安堵したのか、ウラッカの心境が知りたいですね。

20歳の時、1歳年上のアフォンソと結婚しました。
後にアフォンソの妹マファルダが、ウラッカの弟エンリケ(1世)と結婚します。




              
実はすごくエピソードがありそう・・・
サンショ2世妃 メシア・ロペズ・デ・ハーロ


1215~1270/在位 1246~1248

メシアは、サンショ1世とドゥルセの王女テレサが嫁いだ
レオン王アフォンソ9世の庶子ウラッカの娘です。

        

1215年頃に生まれたことになってるんですけど、だとすると結婚した時31歳。
初婚じゃないんじゃないかしら?
ちなみにサンショ2世は37歳なので、年齢的には釣り合います。
今ならなんの問題も無く適齢期と言えましょう。

しかし、メシアがサンショと結婚した時ポルトガルでは
聖職者による王権強化のせいで貴族が反発し内乱が起きていました。
1427年、サンショ2世は廃位され、トレドに亡命して1248年に亡くなりました。

その後のメシアのことがWikipedia英語版だとさっぱりわからんのですが
ポルトガル語版はかなりボリュームがあります。
[このページを訳す]で見てみたけど、やっぱり理解不能でした

やはり初婚じゃなかったみたいです。
そして死についてはバレンシアが関係しているらしい…

でも「婚姻無効の宣告を」とか「クイーン誘拐 蒸着の王」とか
気になるフレーズが並んでいてものすごく面白そうですよ!
どなたか英語版か日本語版に書きこんで下さらないでしょうか?

* Cucciolaさんがイタリア語を訳して下さいました
  コメント欄を見て下さいね。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルトガル王アフォンソ1世妃 マファルダ

2010-04-27 02:17:23 | ポルトガル王妃
ポルトガル初代王妃
アフォンソ1世妃 マファルダ・デ・サボイア


1125~1158/在位 1146~1158

肖像画…ビビッドね。

以前喜久子さんにいただいたコメントにポルトガルのことが書いてありまして
「そーよ!ポルトガルがあるじゃない」と考えたしだいです。

ポルトガルは現在の日本ではちょいと地味目な印象ですけど、すごい国だと思うわ。
イベリア半島のアラゴン、レオン、カスティーリャ、グラナダなんかが集結して
スペインという大国が形成される中を踏みとどまり
そのスペインさえ、ハプスブルク家だ、ブルボン家だと外国の王を戴いてしまった時代を
短期間を除いてほぼ自前の王家でまかなったというのは…

植民地だってすごかった!
日本にも来た!! 鉄砲がやってきたじゃないの。

そんなポルトガルは、他のヨーロッパ諸国同様古代ローマの支配があり
ゲルマン人ゴート族の支配の後、イスラム教の影響が強く入り込んできました。

11世紀、イベリア半島のキリスト教徒からの支援要請に対して
フランスのブルゴーニュ公アンリが援軍として訪れ、掌握したのがポルトゥカーレです。

エンリケ(アンリ)の息子アフォンソはポルトゥカーレ伯として父を継ぎましたが
カスティーリャからの独立、領土拡大の末、1139年のオーリッケの戦いで勝利をおさめ
ポルトガル王を宣言しました。

そんな初代王アフォンソの妃は、サヴォイア伯アメデーオ3世の娘マファルダです。
21歳の時に、少なくとも16歳年上のアフォンソと結婚しました。

           
33歳で亡くなっています。
たぶんアフォンソ1世のことだと思われる物語の中に書かれている
嫉妬した王が王妃を殺した説は、まったくもって根も葉もない話だそうです。




              
早くも家系図が込み入ってきた・・・
サンショ1世妃 ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ


1160~1198/在位 1185~1198

ドゥルセはアラゴン女王ペトロニラとバルセロナ伯ラモン・ベレンゲル4世の娘です。
美しかったらしいですよ。

         
この結婚は、ポルトガルとアラゴンの同盟を復活させたいと考えた
ドゥルセの兄アフォンソ2世によってまとめられました。
イベリア半島にスペイン王国は誕生していなくて、覇権争いの真っ最中ですからね。

ポルトガルだって王国になったとはいえ、まだイスラム教の力もあり
レオンやカスティーリャも再び宗主国に返り咲こうと狙っています。
カスティーリャを挟んで位置するアラゴンとの同盟は願ったり叶ったりです。

サンショ1世は文学好きで、詩などをしたためる知識人だったそうです。
植民を奨励し、新しい村や町を誕生させたことから “ 植民王 ” と呼ばれました。

ドゥルセは14歳の時、20歳のサンショと結婚し、11人のお子様を産んでいます。
王女のうち長女テレサはアラゴン王アフォンソ9世妃に
ベレンガリアはデンマーク王ヴァルデマー2世妃に
マファルダはカスティーリャ王エンリケ1世に嫁ぎました。

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする