ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”アラビアの唄”が流れる街角に

2012-01-22 03:02:41 | その他の日本の音楽

 さて、そろそろ二村定一の決定盤CDが発売されるということで、ついでといってはなんだが、彼絡みの話題など。
 これは以前から気になっている事なんだけれど、彼の大ヒットナンバー、「アラビアの唄」に現れている”アラビア音楽”のありようというもの、歌の発表された昭和の初め頃の日本の大衆には、どのように認識されていたんだろう?それが気になる。 どうでもいいことをと笑われるかもしれないが、ワールドミュージック者としては、気になってしかたがないのだ、これが。

 ”アラビアの唄”の歌詞に現れている”アラビア音楽”の姿は、「あの淋しい調べに今日も涙流そう」というくらい哀愁に溢れたものである。今日、部屋の片隅にアラビア方面のポップスのCDを積み上げている者としては、その音楽としてのイメージを言葉にすれば、官能的とか神秘的とか扇情的とか言う感じになるのだが、あのイスラミックな音階を短調っぽくとれば、「流れくる淋しき調べ」という解釈も納得できないものではない。
 それにしても当時の日本人がアラブ世界にどれほどの知識をもっていたのか?と思えば、それは大したことないものだったろうなあ、と考えるしかない。今日だって、特別興味をもっている人以外は何も知らないに等しいでしょ。いわんや、昭和初期においておや、ということで。

 それでも、この歌の紹介者であり日本語歌詞の作詞者である堀内敬三は、「あの淋しい調べに涙を流そう」と書いたのだ。優れた大衆音楽の作り手だった堀内が、彼なりに時代の空気を読んでそのように書いたのだ。なにごとか、そのように定義してしまっても通用するようなものが日本の大衆の認知の内にあったのではないか。それについて知りたい、というのが今回の文章の主題なのだが。

 当時のアラブ世界自体がどのような状況にあったかと言えば、まさにアラブ世界のど真ん中を支配していたオスマン・トルコ帝国が第一次世界大戦の結果、崩壊し、その後の利権を求めてハゲタカの如くに襲いかかったイギリスやフランスが自分の都合であちこち勝手に国境線を引き、傀儡の王を即位させ、今日のアラブ紛争の種を巻きまくっていた時代となる。
 あるいはそのような世情が影を落とし、おそらくは興味本位な偏見だらけの報道やら、時には活劇映画のタグイなどが我が国にも流入し、なにがしかのアラブに関する断片的なイメージが一時的にせよ流布していた、などという事実もあったのかもしれない。

 活劇映画と言えば、そもそも”アラビアの唄”はアラブを舞台にしたアメリカ映画の主題歌として作られた歌だった。だが映画は本国では全くヒットせず、その主題歌のみが日本でヒットする、といった変則的な経緯を辿った。
 その映画がどのようなものだったか、そして肝心の”アラビアの唄”の原詩はどのようなものだったのか、そいつが激しく知りたいと思うのだが、これがいくら検索してもさっぱりヒットせず。
 スッキリしないなあ。この辺に興味をもった人はいないんだろうか。当時のアメリカ人によって書かれたオリジナルの英語歌詞では、”寂しい調べに”のくだりは、どのようになっているのだろう。日本語詞と同じようなものか、それとも元はまったく別の内容のものなのだろうか。クセモノの堀内敬三の訳詞作業ゆえ、どのようなケースも考えられ、こいつは現物に当たらねばなんとも言えない。

 などといいつつ。昭和初期のわが国の庶民の心の片隅をかすめ、街角のどこかに、陽炎のようにかすかに流れて消えて行った・・・のかもしれない、なんとも儚い”アラブの音楽”の幻影が、やっぱりなんだか気になって仕方がない。