ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

追悼・布谷文夫

2012-01-19 12:33:03 | 60~70年代音楽

 初代ブルース・クリエイションを振り出しに、日本ロック界のある意味極北を歩き続けていた男、布谷文夫がこの15日、亡くなていたようだ。脳溢血だったそうな。
 まだ亡くなるには若過ぎるのは勿論だが、我が青春時代の結構アイドルだった人で、あの岩石みたいな歌声で歌われるブルースをまだまだ聴きたかったのに、無念である。
 なにしろ知らせを聞いたのがこんな時間であるし、そもそも冷静に追悼文など書ける状態ではない。とりあえず、かって布谷が率いていたDEWなるバンドについて以前、書いた文章などホコリを払って引っ張り出してお茶を濁しておく。(考えてみればこの文章だって、もう10年も前に書いたものだった。時は流れる。容赦なく流れる)

 グッバイ、岩石ブルース野郎。


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 野音通いを続けておりますと、野音の「通」としての贔屓バンド、なんてえものが出来てまいります。知る人ぞ知る、みたいなバンドをつかまえて、「凡人には分からねえだろうが、アタシなんかはこの頃、あのバンドでなくっちゃあいけません」などと粋がったりする。当時の我々にとってはDEWなんてバンドが、それにあたりますな。(何故、落語口調になるのだ?止め止め)

 DEWとは、ブル-ス・クリエイションの創設メンバ-だった布谷文夫が結成した、ハ-ドなブル-ス・ロックのバンドなのだが、これが1度見たら忘れられない個性を持っていた。と言って、その「個性」はエグ過ぎて、一般的な人気に繋がる性質のものではなかったので、通ぶって贔屓にするには実に好都合だったのだ。

 どんな個性かと言うと、このバンド、楽器の音もボ-カルも、とにかく全てTOO MACHだった。すべての針が振り切れていた。誰かが布谷のボ-カルを「すべての音に濁点が付いている」と表現していたが、まさに彼はその通りの個性の持ち主で、そんなリ-ダ-の重苦しいケダモノのオタケビに引きずられるように、ギタ-もベ-スもドラムス(4人編成)も、地面をのたうち回るような臨界点ギリギリのブル-スを奏でていた。各人が力みすぎ、コントロ-ルが効かなくなって分裂する、その寸前で危うく踏みとどまっているような、そんな彼らの「やり過ぎ」のステ-ジ。我々は失礼ながら、そんな彼等に、「因果物」的な面白さを見いだしていたのだ。

 暗くなりかけた野音のステ-ジ、照明の中に浮かんだ彼等が演奏を始めると、そこだけ煮えたぎる坩堝に見えてきて、しかもそこから生まれ出るのは、ことごとく歪んだ鋳物ばかり。そんな彼らを我々は、こちらも負けずにオ-バ-過ぎる喝采を持って迎えたものだった。もちろん、そんな悪のりのカラ騒ぎをしているのは我々(注)だけで、隣に座った「凡人」たる他の客たちは、きょとんとして「有名なバンドなんスか?」とか尋ねてきたものだ。もちろん我々はにっこり笑って答えた。「ううん、無名のバンド」と。
 (注・この野音シリ-ズにおける「我々」とは、例の「はっぴいえんど関係アンプ運びバイト軍団」を指します)

 レコ-ディングの機会には恵まれなかったDEWだったが、何故か、71年のライブ音源が98年になってCD化された。が、このCD、ライブにおける彼等の「針の振り切れ具合」までは、残念ながら捉えきれていない。ミキシング云々とか言うより、例の「村八分のライブの凄さ」と同様、それは、音盤に収めることの不可能な「何物か」なのか、とも思う。

 DEW関係の逸話二つ。

 一つ。オ-バ-アクションで歌っていた布谷が、完全にボ-カルマイクから外れて歌ってしまったことがある。が、あの男、どういう喉の構造をしているのか知らないが、その声は、PAを通した際と全く変わりない音量で我々の元に届いてきたのである。やっていたのがスロ-ブル-スで、出ていた音数が比較的少なかったとはいえ。ちなみに我々は、野音の外延近く、一番後ろの席で、まさに高みの見物をしていたのだ。
 あまりのことに我々は、驚くより前に笑い転げてしまったものだ。聞いたかよ、今の。マイクから外れても音量が変わらないって何なんだよ、と。

 二つ。当時、友人が、遠藤賢司のコンサ-トを企画して、が、どんな宣伝をしたのか、あるいはしなかったのか集客に失敗、ひどい状態になってしまったことがある。その悪夢のコンサ-トのオ-プニングに起用されたのがDEWだった。
 すべてが終わり、エンケンに「ボクだってプロだからお金は欲しいしね」と、しごくまっとうなお叱りを受け、ボロボロとなった友人が、DEWの連中にその日のギャラ(大した金額ではなかった)を差し出すと、彼等は「そ、そんなにくれるの!?」と青くなってのけぞった。そこで友人は頭を掻き、「あ、間違えた」と言って、そのギャラの半分をポケットに戻し、残りを再度、差し出したのである。と、DEWのメンバ-は「そ、そうだよね」と安心顔となって頷き、それを受け取り、そしてなぜか両者とも冷や汗を流しつつ、握手をして別れた。なぜか忘れられないエピソ-ドである。

 DEWというバンドがいつまで続いたのか、寡聞にして私は知らない。その後布谷は、たしか73年にソロ・アルバム「悲しき夏バテ」を発表する。冒頭に「現役でバリバリやってる布谷くんです」との紹介コメントがあり、それに周囲の者が失笑する、というギャグ?が挿入されているところから、この時点で布谷はすでにステ-ジを降りていたようだ。

 さらにその何年後かに布谷はカムバック、大滝詠一のナイアガラのお笑い企画の一貫として、着流しに妙な眼鏡や帽子、といったバカな姿で「ナイアガラ音頭」を吹き込むことになる。
 真っ昼間の主婦向けTV番組の「売れない芸能人特集」みたいなコ-ナ-に出て、その姿でそれを歌い、清川虹子かなんかに「芸能界以外に本業があるなら、それに打ち込んだら?」とかアドバイス?されていたのが印象に残っている。
 
 現在でも布谷は、自己のバンドを持ち、どうやら副業ながらも歌い続けているようだ。マニアとしては「もう一花」と願わずにはいられないところなのだが。

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