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”Getz/Gilberto”
ここにとりいだしましたるは、ジャズのサックスプレイヤーであるスタン・ゲッツが、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンといったブラジルのボサノバ関係の要人たちと吹き込んだ1964年度作品。これの大ヒットによりアメリカにおけるボサノバ・ブームが巻き起こることとなるわけですな。その反面、いろいろボサノバと言う音楽への誤解を産んだりしたわけですが。
何でこんなアルバムを引っ張り出したかといいますとですね、ネット上でこのアルバムに関して「自分はまったく評価しません」という意見がなされ、それに呼応して「あれがいいと言うのは、ブラジル音楽を知らない人ですよね」なんて発言がなされたから。
私はそれを読んでのけぞってしまいました。いやあ、よく言えるなあ、そんなこと。ここにはまず、「自分はブラジル音楽を正しく理解できている」という強烈な自負がある。私もまあ、そこそこですがブラジル音楽を聴いてはいます。でも、そこまでは言えない。「あれを良いなんていう奴はブラジル音楽を分かっておらん」と一刀両断に切り捨てる、なんて。
しょせんは地球の裏の、自分が育ったのとはまるで別の文化の中で育まれた音楽ですからねえ。その音楽の本質を掴んでいるか知っているかと問われたら、胸を張って「知っている」と答える自信はない。自分が気が付いていない、どんな見落としや誤解があるかも知れないし。せいぜい、「聴いたことはある。好きなものもいくつかはある」程度でしょう、答えられるのは。審判を下す席に着くなんて考えられない。
ここで書いてる文章にしたって「好き・嫌い」「面白い・つまらない」以上のものはないわけでね。
まあこれに関しては個々人の性格というものもあり、文句をつけてもしょうがないんですが。ただ、「よく言えるなあ、”お前、ブラジル音楽を知らないだろ”なんて」と驚いているだけのことで。
で、このアルバムについて、ですが。
なんか、青少年の頃、ジャズ喫茶に入り浸っていた頃など思い起こさせる音ですねえ。いや、そう感じるのは後付けの記憶で、本当に聴こえていたのはレストランや商店街のBGMとして、だったのかも知れない。まあ、そういう扱いのアルバムじゃなかったか。
でも思うのですね。このアルバムが吹き込まれた当時、ボサノバなんて音楽は世間的にはまるで知られてはいなかった、と言っていいんじゃないでしょうか。まず、そういう時代背景がある。
そこに、前の年に吹き込んだ「ジャズ・サンバ」で一山当てたばかりのスタン・ゲッツがいる。おそらくはもう一発当てようと企んでいる。呼び寄せられたブラジル側のミュージシャンだって、ゲッツの計画に乗って何らかの現世的利益を、と考えて無かったってこともないでしょう。
レコーディングの最中にゲッツとジョンの間にボサノバ理解を巡って一悶着起こったなんて話も聞きましたが、いろいろあったでしょうねえ、それは。二人とも、ただ事ではない人格ですからね、それは。
で、ここに一つの歴史の扉が開けられているわけですね。何の扉かといえば”一つの音楽が若干の通俗化を伴い、世界規模の大衆音楽の流れに組み込まれて行く瞬間”という。
立派な志ばかりでもなかったでしょう、”純粋”を旨とする音楽愛好家には納得できない音素だらけかも知れません。でも、そのいい加減な継ぎ接ぎの音楽の流れの底に、清濁併せ呑んでギラリと光る人間の生の営みの証し、みたいなものが覗く瞬間があるように思え、私は、こういうアルバムを簡単にバカにするものじゃないぞと密かに呟いてみたりもするのです。
ここにとりいだしましたるは、ジャズのサックスプレイヤーであるスタン・ゲッツが、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンといったブラジルのボサノバ関係の要人たちと吹き込んだ1964年度作品。これの大ヒットによりアメリカにおけるボサノバ・ブームが巻き起こることとなるわけですな。その反面、いろいろボサノバと言う音楽への誤解を産んだりしたわけですが。
何でこんなアルバムを引っ張り出したかといいますとですね、ネット上でこのアルバムに関して「自分はまったく評価しません」という意見がなされ、それに呼応して「あれがいいと言うのは、ブラジル音楽を知らない人ですよね」なんて発言がなされたから。
私はそれを読んでのけぞってしまいました。いやあ、よく言えるなあ、そんなこと。ここにはまず、「自分はブラジル音楽を正しく理解できている」という強烈な自負がある。私もまあ、そこそこですがブラジル音楽を聴いてはいます。でも、そこまでは言えない。「あれを良いなんていう奴はブラジル音楽を分かっておらん」と一刀両断に切り捨てる、なんて。
しょせんは地球の裏の、自分が育ったのとはまるで別の文化の中で育まれた音楽ですからねえ。その音楽の本質を掴んでいるか知っているかと問われたら、胸を張って「知っている」と答える自信はない。自分が気が付いていない、どんな見落としや誤解があるかも知れないし。せいぜい、「聴いたことはある。好きなものもいくつかはある」程度でしょう、答えられるのは。審判を下す席に着くなんて考えられない。
ここで書いてる文章にしたって「好き・嫌い」「面白い・つまらない」以上のものはないわけでね。
まあこれに関しては個々人の性格というものもあり、文句をつけてもしょうがないんですが。ただ、「よく言えるなあ、”お前、ブラジル音楽を知らないだろ”なんて」と驚いているだけのことで。
で、このアルバムについて、ですが。
なんか、青少年の頃、ジャズ喫茶に入り浸っていた頃など思い起こさせる音ですねえ。いや、そう感じるのは後付けの記憶で、本当に聴こえていたのはレストランや商店街のBGMとして、だったのかも知れない。まあ、そういう扱いのアルバムじゃなかったか。
でも思うのですね。このアルバムが吹き込まれた当時、ボサノバなんて音楽は世間的にはまるで知られてはいなかった、と言っていいんじゃないでしょうか。まず、そういう時代背景がある。
そこに、前の年に吹き込んだ「ジャズ・サンバ」で一山当てたばかりのスタン・ゲッツがいる。おそらくはもう一発当てようと企んでいる。呼び寄せられたブラジル側のミュージシャンだって、ゲッツの計画に乗って何らかの現世的利益を、と考えて無かったってこともないでしょう。
レコーディングの最中にゲッツとジョンの間にボサノバ理解を巡って一悶着起こったなんて話も聞きましたが、いろいろあったでしょうねえ、それは。二人とも、ただ事ではない人格ですからね、それは。
で、ここに一つの歴史の扉が開けられているわけですね。何の扉かといえば”一つの音楽が若干の通俗化を伴い、世界規模の大衆音楽の流れに組み込まれて行く瞬間”という。
立派な志ばかりでもなかったでしょう、”純粋”を旨とする音楽愛好家には納得できない音素だらけかも知れません。でも、そのいい加減な継ぎ接ぎの音楽の流れの底に、清濁併せ呑んでギラリと光る人間の生の営みの証し、みたいなものが覗く瞬間があるように思え、私は、こういうアルバムを簡単にバカにするものじゃないぞと密かに呟いてみたりもするのです。
この『ゲッツ・ジルベルト』もブラジルで発売されたかどうかは知りませんが、多分されなかったと思います。
日本観光用の外人向けハトバスに日本人が乗ったことがなくても、なにも不思議でないように。
かと言って、あのアルバムがブラジル音楽となんの関係もない、と言ってしまうのはいかがなものか。
歪んではいるがブラジル音楽のある一面を痛烈に捉えていると言えはしまいか。と思うのであります。