ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

遥かなるケイジャンのオタケビ

2009-08-21 03:01:59 | 北アメリカ


 ”Les Memoire du Passe”
  by Lesa Cormier / August Broussard and the Sundown Playboys

 ワールドミュージックのファンとしては、かってヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ諸国を植民地支配した際に残していった音楽の種が現地の音楽とどのような具合に激突をして、どのような新しい音楽を生み出したのか、なんて罪を孕んだドラマには当然、血が騒ぐ次第である。それぞれの国が持つ文化の様相に応じて、紡がれるドラマの個性にも違いが見えて、興味は尽きない。
 たとえば、特に圧倒的な影響を及ぼした感じでもないのに、結果を見てみると世界中に重要な音楽の種を蒔き残していったポルトガルなど、実に不思議な存在と思う。いまだにその事情がよく分らないので、ここでは触れないが。

 スペインの音楽が新大陸侵略の歴史の中でアフリカから奴隷として連れて来られた黒人たちの音楽と出会い、カリブ海で行なった交雑の過程は、なんとも”血の婚礼”とか名付けたくなるようなアクの強いドラマとなっているが、同じラテン系文化でもフランスの音楽と現地の音楽の関係は、また相当に違うものがある。
 フランスの音楽が異郷に出かけて行くと。分りにくい表現しか出来ないのだが、そして、私の感覚ではそう感ずる、といった話でしかないのだが、フランス音楽の場合、現地の風土や風俗に抱きとめられてグズググに溶け崩れ、ドロドロに溶けて異郷の土と混ざり合い、まるで形を失うかに見える。が、よく聴いてみると不思議な香気、あるいは臭気が深々と土の奥深くから立ち上っているのに気が付く、みたいな、それは渋い形状をしているのだ。
 (あ、これはあくまでも大衆音楽の世界の話ね。”シリアス・ミュージック”とか、そこら辺の事情はまったく知りません)

 そんなわけで今回持ち出したのは、アメリカ合衆国深南部はルイジアナ州のローカルポップス、”ケイジャン・ミュージック”の激渋盤。
 ルイジアナ州はご存知の通り、アメリカ合衆国が独立する際、フランスから金銭で譲渡された土地とのことで、そこには昔から少なからぬ数のフランス系住民が住んでいた。今日でもフランス語を話し、フランスの文化を継承しつつ生きる人々。
 彼らが各種民族文化が入り乱れるアメリカ南部で作り上げてきた民俗ポップスがケイジャン・ミュージックというわけで。
 まあ、いい加減な私などは知らない人には「ああ、ようするにフランス語のカントリー・ミュージックだよ」とか、めちゃくちゃ雑な説明をするのが常なのだが。でもまあ、大まかに言えばそんなものでしょ?

 で、この盤である。レイク・チャールスというケイジャン文化ど真ん中、みたいな土地にあるローカルレコード社から2001年にリリースされた盤なのだが、その中身はたぶん、その50年前にもその土地で演奏されていたのと同じではないかとも思われる音楽である。
 ジャケ写真には、もう嫌になるくらいアメリカのド田舎の頑迷な年寄りたち、みたいな男たちが並んでいる。そして針を落としてみれば(おい、CDだぞ)まさにその通りの音楽が流れ出してくる仕組みだ。

 昔々から引き継がれてきたフランス系アメリカ人の大衆文化たるケイジャン・ミュージックのあまりにもオーソドックスな唄と演奏。と言っても演奏者たる彼らには、伝統文化を守ろうなんてうっとうしい思い入れはありません、多分。爺さんたちはただ、彼らが村の年寄りたちから教えられ、自分たちの楽しみとして演奏してきた音楽をそのまま、相変らず自分たちの楽しみとしてやっているだけ。それだけの話。
 軽快なツー・ステップ。優雅なワルツ。まあ、演じられるのは主にこの2パターンなのだが、遠い故郷フランスでは優雅なダンスミュージックだったはずのそれは、新大陸の風土の中で実に野趣に溢れた、まあようするにド田舎のダンスミュージックの泥臭い逞しさ楽しさを獲得してしまっている。

 ギター、ベース、ドラムスにスチールギター、というカントリー音楽の標準編成にアコーディオンとバイオリンが入った、実にオーソドックスな編成のケイジャン・バンドであり、サウンドもまた、ひねりも何もない明快で分かり易いものとなっている。
 トップに置かれているのは、私などには「昔、小坂一也が歌っていた”悲しきディスクジョッキー”みたいなメロディ」としか聴こえないオリジナル曲である。かって日本で流行ったくだらない曲、「ケメ子の唄」みたいなイントロが恥ずかしい露骨な循環コードのロッカ・バラードが何曲もあり、アメリカ南部のいなたく生暖かい風情を伝える。
 終幕近くの聴かせどころには、ハンク・ウィリアムスの「泣きたいほどの淋しさだ」みたいなメロディのバラードの絶唱が置かれている。この曲もバンドのメンバーのオリジナルということになっている。

 なにより嬉しいのが、ボタン・アコーディオン奏者でありヴォーカリストであるAugust Broussardの存在である。
 容貌魁偉な彼が古めかしいボタン式アコーディオンを抱えてマイクの前に進み出、しわがれ声のフランス語のカントリーナンバーをわめき倒す時、現地の文化と一緒に畑に埋もれ、ひん曲がったジャガイモになってしまったパリのエスプリとか何とかが見えてくるような気がするのである。
 こいつは、文化の国おフランスの面目丸つぶれの猥雑なエネルギーの発露が妙に嬉しいアメリカン・ローカルポップス、ケイジャンの痛快盤なのだった。




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