”もうひとりの私-ちあき船村徹をうたう ”
前回に続いて、船村演歌についての話をまたはじめてしまいます。すまんこってす。
幼い頃、ふと目覚めてしまった深夜に遠く聴く夜汽車の汽笛の音などというものほど凍てつく孤独の塊の如くあるものもなかった。その車両の片隅に座り込んだ魂が抱え込んだ地獄のように深い孤独を思うと、それはもう恐怖そのものといっていい感情が沸き起こり、慌てて布団の中に頭からもぐりこんだものだった。
あるいはすでにこちらは大人になっていて、まさにその夜汽車の乗客になっている。自分が好き好んで始めた北を目指す旅の途上である。時はすでに夜半を廻り、汽車は北国の名も知れぬ駅を通り過ぎるところである。夜汽車の窓を飛び過ぎて行く遠くの街の灯りを思う。それは広大な夜の闇に比すればあまりに頼りない小ささで、漆黒の中に光を放っている。
ふと思う。あの明かりの中、名も知れぬ街のあそこに自分と本当に理解し合える懐かしい人々、まだ逢った事はないが懐かしい人々はいて、だが自分はその人々とは永遠に出会う機会はないのだ、などと。そして街の灯りは遠方へと飛び去って行く。
ちっぽけなセンチメンタルだが、なに、人はそんなつまらないものにすがって生きて行くものだ。
で、いまここで、ちあきなおみが船村徹作品ばかりを歌ったアルバムを前にしているわけだが、演歌作家船村徹のソウルのありようというのは、そのような”遠方”を透視する感性ではないか、などと思っているのだが。
彼の作品で私が最初に強烈な印象を受けたのが”涙船”だったのだが。北島サブちゃんの歌唱が印象的なあの曲、なにしろ「別れの記憶を反芻する涙の雫がゴムの合羽に染み透って行く」のだ。寒風吹きすさぶ北の海における漁場の一叙景。
そんな凍りつくような、そして彼の故郷である北の国と二重写しになる一場面を船村は想っている。はるか東京のネオン瞬く紅灯の巷で。
あるいはまた”あの子が泣いてる波止場”。浮気なマドロスは、もうとうの昔に後にして来た潮風の匂う街で出会った、心の純な娘の思い出を反芻している。思い出したところで、もう戻れる世界ではないと、波頭が笑っている。そんなこともあるのだろうと、とりあえず船乗りではない船村は想いを馳せながら、五線譜に陽気な、けれどいつか淋しいメロディを書き印した。
あるいは空間が、あるいは時間が、あるいはその両方が心のあるべき場所から遠く遠くへ人を連れ去って行く。それは後にして来た故郷であったり別れた女であったり、つぶれてなくなった飲み屋であり、若くして亡くなった親友であったり。
もう戻らないそれらとの距離を越えようとする思念のありようが船村の切なさの存在証明だ。意味分からない文章だ?いや、私もそう思いつつ書いているから大丈夫。まあ、気分で読んでいただきたい。