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50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

納得できない「鉛筆の持ち方フォーラム」左利きの意見 

2005-09-02 | 左利き
「鉛筆の正しい持ち方」お茶でっせ版新生活版 の参照サイトとしてあげました「鉛筆の持ち方フォーラム」について一言しておきます。

「鉛筆のヘンな持ち方に対するご意見」として、十二件収録されています。その中に、“左手使いを右手に直した”という事例を四番目と五番目に二件続けて載せています。これについてです。

* このフォーラムは「持ち方矯正」ではなく「左利き矯正」か *
まず根本的におかしいのは、この場は「持ち方の矯正」についてのフォーラムであって、字を書くときに左手でなく右手に持つべきか否かという「使い手の変更」問題―書字における「左利きの矯正」(※注)問題に関しての意見を開陳する場ではないはずです。
「どちらの手で持つか」ではなく、「どのように持つか」の意見を扱う場所でしょう。

※注:右手使いを作法にかなった正しい所作と考え、左手使いは誤りであるからこれを正す必要があるとする考え方。非科学的で不合理な、非民主的で封建的な旧来の思想であり、誤りであると私は考えています。過去の事象に用いる場合を除き、上記の理由により不適切な表現であり、現在形や未来形では使用すべきでないと考えています。参照:「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について

内容的に言うと、「持ち方を直す」ことと「左手で持つことを直す」ことが明確に区別されていません。
左利きにおいては、「持ち方を直す」=「左手で持つことを直す」になっています。
これは、ちょっと偏見に満ちた意見ではないでしょうか。左手で持つことは「へんな持ち方」なのでしょうか?

しかし、一方、「鉛筆の持ち方矯正器具のテスト」では、左利き用(左手書き)に対応した器具の紹介もしています。
左手使いに対する配慮を示しています。
両者に整合性がなく、どうも納得がいきません。

* 無知無教養な人を惑わす意見 * 
成功の事例のみ取り上げて掲載することの多いこういう場所で利き手の問題と言う“微妙なケース”を取り上げるのは問題ではないでしょうか。

たとえば、宝くじの広報で当選者の声を掲載している例と同じで、これは問題ありと言わねばなりません。
宝くじは買えばいつか必ず当たるかのような宣伝は、いたずらに射幸心をあおり、無知無教養な人を惑わすものです。

同様に、このような左手から右手への変更意見を掲載することは、やはり無知無教養な人に一方的な認識を与える危険性があります。左利きでも、字を書くときは右手を使うほうがよいのだ、という認識です。
成功例のみが掲載され、それ以外の声は出てこないのですから、これは一方的で偏向していると言えます。

こういう一方の意見のみを麗々しく掲載するのは、極言すれば、「左利きに対する偏見に基づく陰謀」と言われてもいたしかたないでしょう。

これでは、変更を強制していることになります。
こちらのサイトでは、少なくとも字を書くことに関しては「左利きは右手に直す」ことを勧めているのでしょうか。

* 「矯正」派に見られる誤った持ち方の原因 *
個別に例をふりかえってみますと、ミロさんのように、左利きの方で右手使いに「矯正」された人の場合、右手で持つことはできていても、その持ち方が正しくないケースがけっこうあります。

これは利き手ではないため手の器用さがたりず、正しい指使いができない結果であると思われます。
そして親としては、右手に持たせるだけで疲れ果て、とりあえず右手で持っていれば良しということにして、それ以上の指導を放棄するせいではないでしょうか。

器用さに欠ける、非利き手で持とうとするとどうしても持つことに意識が行き、力を入れて握りこむような持ち方になってしまいがちです。
微妙な力加減でそれぞれの指を自由に動かせる状態を維持するには、利き手の持つ精妙な動きを可能にする鋭敏な神経が必要です。

神経系が未発達な幼児では、非利き手でそのような微細で精密な動作を行うことはむずかしく、大きな負担になります。これは避けるほうが無難でしょう。

* どちらの苦労を取るか―非利き手を使う難行か、生活の不便さか *
字を書く、箸を持つといった動作は、右手でなければできないことではなく、左手でも十分要件を満たすことができます。

右手に比べ左手使いでは、効率が悪いとか不便であるという意見がありますが、確かに作業だけを問えばそういう結果になるかもしれません。どちらもまったく同じ能力を有している場合は、単純に比べることが可能です。

しかし、前提としてその人の利き手という問題があるのです。

これはレースに言い換えれば、現在位置の違いです。
ゴールに近い位置でスタートするか、より遠い位置からスタートするかの問題に置き換えることができるのではないでしょうか。

あるいは、スピードのある人とない人の違いです。
コースが短くても亀のように歩みののろい場合と、コースは長くてもウサギのように跳んで行ける場合との違いです。

左手を使うことの非効率性か、非利き手を使うことの非効率性か、その人にとってどちらがより不都合となるかの問題です。

別の言い方をすれば、心身に他人の目には見えないさまざまな影響を受けるであろう非利き手を鍛える難行に挑むか、まわりの人の協力があれば改善できうるであろう生活の表面的な不便さを取るか、です。

現状では、左利きで生きて行く場合、多くの乗り越えなければならない試練が待ち受けています。
一方、非利き手を使えるように鍛えることは想像以上に苦しいものがあります。

しかし、どちらにおいても、さほどの苦労を感じずに生きてゆく人もいます。
これはまったく個人差の大きな問題です。
ただ、だからと言ってリスクを抱える生き方を選ぶのがいいのか、リスクを最小にするのがいいのか、それは誰にもわかりません。
そして、それを親が決めていいのかどうかも…。

* それぞれに才能を生かす生き方を *
結局大事なことは、その子の才能がどこにあるか、どのようなものであるかを見極めることです。
その上で指導に当たらなければ名選手に育てることはできません。

そこで、利き手の判定、あるいは判別をしっかりと行わなければなりません。
残念ながら、まだ利き手を科学的に判別する方法はありません。
脳を調べてこういう時にこういう場所が活性化しているから、こういうホルモンが分泌されているから、血液中のある因子がこれこれだからどうだこうだ、というように分析できるわけではありません。

一番にいい方法は自然に明らかになるまで待つことです。
利き手というものは、あらかじめ個人に設定されたものです。それが脳・神経系の成長や、手を使う機会の増大とともに徐々に明らかになってゆくものです。
誰の目にも明確になる時期は、せいぜい五、六歳ぐらいから。完全に決定されるのは学者によれば十歳ぐらいとも言われます。
それまで待つのが一番確実な方法です。それから字を書かせるなり、箸を持たせるなりすればいいのです。
しかし、実際問題としてそれでは遅すぎます。食事の摂取は日々の必要ですし、学校もあります。

ではどうするのか。
その子の生活の場面場面でのふるまいをじっくりと観察し、時には遊びを通して色々試行錯誤してみるしか方法はないでしょう。
その上で利き手が明らかになれば、親のエゴでなく、それぞれの才能を活かして能力を伸ばしてゆくように指導するしかないのです。
各人の才能に応じてその能力を活かし育ててゆける社会を作って行くしかないのです。

* 個人の問題とするか、社会の問題とするか *
最終的にいえることは、左利きにおける問題は、それを個人の問題とするか社会の問題と捉えるかという点に尽きます。

利き手そのものは個人の問題と言えば個人の問題のようですが、社会そのものが「左利きにも」優しいものに変われば、以後生まれてくる子供たちはみな何不自由なく暮らしてゆけるようになる、ということです。

すなわち個人の問題として、個人に改善を要求していれば、この世に生まれてくる左利きの子供たちは永久にこの問題と直面し続けなければならないということです。

*
―些細な問題から、大きな話になりました。
しかし、これが真実ではないでしょうか。
私はそう信じています。
 
※本稿は、ココログ版「レフティやすおのお茶でっせ」より転載して、テーマサロン◆左利き同盟◆に参加しています。
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