聖徳太子研究の最前線

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着実な文献研究の典型:東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』

2023年12月06日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺と聖徳太子に関する着実な研究書が11月29日に刊行されました。

東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』
(岩波書店、2023年)

です(ご寄贈、有難うございます)。

 内容は以下の通り。訂補されているそうですが、元となった論文をこのブログで紹介しているものは、(こちら)で示してあります。この他にも、他の記事で東野氏のこれらの研究に触れている場合が少なくありません。

 目次
 はしがき
 第Ⅰ部 法隆寺の創建・復興とその時代
  第一章 飛鳥時代の法隆寺-創建から焼失、再建まで(こちら
  第二章 法隆寺資材帳をどう読むか
  第三章 金堂壁画-外国文化の受容と画師たち
  第四章 白鳳文化と亡命百済人
  第五章 古代天皇の諡号をめぐって
 第Ⅱ部 聖徳太子信仰の展開
  第一章 奈良時代の法隆寺と太子信仰
  第二章 磯長墓-太子はどこに葬られたのか
  第三章 「南無仏舎利」伝承の成立
  第四章 東院舎利殿の障子絵の主題をめぐって
  第五章 『天王寺秘決』を読む-四天王寺と法隆寺
  第六章 『太子伝古今目録抄』からみた撰者顕真の人物像
  第七章 幕末の法隆寺とその紙幣
  第八章 聖徳太子の人物像と千三百年御忌(こちら
 第Ⅲ部 法隆寺研究の周辺
  第一章 壁画撮影の先駆者・田中松太郎
  第二章 正木直彦が法隆寺に贈った百済の石燈籠
  第三章 古代寺院の僧房と僧侶の持戒生活
  第四章 片岡王寺と百済系氏族(こちら
 図版出典一覧
 索引

以上です。

 特徴は、文献を、それもできるだけ現存最古のテキストを実際に目にして精査し、慎重な判断をする点ですね。たとえば、第Ⅱ部第六章の「『太子伝古今目録抄』からみた撰者顕真の人物像」では、法隆寺顕真の『太子伝古今目録抄』の自筆本について詳細な検討を加えているのがその一例です。

 顕真は、自分の祖先は百済から渡ってきて聖徳太子に仕えた調子丸だと主張し、その伝承をでっちあげた信用できない人物という見方が一般的でしたが、自筆本を調査した東野氏は、顕真が漢字が書けず、あとで埋めようとして横にふりがなだけ記してある箇所、自分が書いた部分にも訓点を付している点などから見て、顕真は漢文の力が弱く、知識も十分でなかったとします。

 そして、ある文書に見える「調子」という人物に関する記述を扱った箇所では、これは自分の先祖の「調子丸」のことだと書いて活躍を強調すれば良いのに、顕真は資料をあげるだけで同一人物かどうかの判断は控えていることなどを例にあげ、顕真は「学識豊かではないが、きわめて実直に、孜々として太子伝研究に打ち込んだ人物」と結論づけます。

 博学であって文を書くことが巧みで、元の資料を自在に書き直す力のある人物であれば、さまざまな資料から関連しそうな記述を切り貼りし、自分にとって都合の良くなるようどんどん改変してゆけるはずなのに、そうしていないというのです、こうしたことは、自筆本にじっくり取り組んでこそ分かることですね。

 東野氏はこのような厳密な文献調査にょって「誰々が捏造したのだ」とか「〇〇と△△の対立の中で偽作されたに違いない」といった陰謀史観風な説を打破していってます。伝承をそのまま受け入れず、文献から読み取れる部分だけを認める一方で、疑われていた伝承が実際には史実をある程度反映している場合もあることに注意するのです。

 たとえば、四天王寺は宣伝上手で偽作文書をたくさん作ったことで知られてていますが、その代表であって太子の手印が押してある『四天王寺御手印縁起』では、太子の頃から敬田院・悲田院・施薬院・療病院という四箇院があったとしています、これについては太子の頃の実状ではなく、8世紀後半頃の四天王寺の状況を反映させたものと見られてきましたが、東野氏はこれを見直します。

 つまり、光明皇后の家政機関である皇后宮職に天平2年(730)に施薬院・悲田院が設置され、それ以前に光明皇后の出身元である藤原氏の興福寺に養老7年に(723)に施薬院・悲田院が置かれていることに注意し、太子信仰が篤かったことで有名な光明皇后が太子の事績とされていたことにならおうとしたものと推測します。

 また、大安寺は該当する田は持っていなかったようですが、『大安寺伽藍縁起流記資材帳』には「悲田分錦」と「悲田分銭」とあるため、そうした事業のための予算を持っていたことが分かります。しかも、大安寺の前身は舒明天皇の百済大寺であって、この寺は太子の熊凝精舎を受け継いだという伝承を持っていますし、瓦も若草伽藍と共通のものが出ています。

 このため、東野氏は、四天王寺の四箇院は8世紀末頃とする通説を疑い、光明皇后の事業も大安寺の社会事業も、起源は太子の時代にあった可能性があるとします。私も、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』とが重視している『優婆塞戒経』は、在家の菩薩が国王となったら社会事業をすべきだと説いていたことを指摘したことがあります。

 こういうやり方で、東野氏は文献を検討していくのですが、東野氏は近代における太子信仰にも注意しており、私もこの元となった論文を読むまでは知らなかったのが、法隆寺が幕末に出していた銀札です。

 江戸時代には大名が藩札を出していましたが、第七章の「幕末の法隆寺とその紙幣」では、聖徳太子の肖像が紙幣に載るよりずっと前の幕末に、法隆寺がおそらく地震で壊れた建物の修理のため、独自の銀札を出しており、その関係史料が残っていることを明らかにしています。その銀札の写真も掲載されてますが、意外ですね。

 このように、東野氏は、綿密な文献研究によって法隆寺と聖徳太子に関して多くのことを明らかにしています。読者は初めて知ることの多さに驚くでしょう。ただ、「憲法十七条」や三教義疏など、太子が書いたとされるものに関する論文がないことが気になるかもしれません。

 確かに、第二部第一章では、『法華義疏』の形態については実物を見たうえでの観察されており、素朴な形のまま大事に保存されていて、題名部分だけ切り取ったように見えるのは、表紙に別な紙を貼り付けて補強した際、下の題名が見えるように補強した紙に窓をあけていることなど、貴重な報告がなされていますが、中身については詳しい説明はありません。

 『三経義疏』と「憲法十七条」の共通面については私がこれまで書いてきましたし、「憲法十七条」については来年、本を出す予定ですので、こうした著作の思想の問題については私などの担当分ということなのでしょう。

 また、ある若手研究者が「憲法十七条」と三教義疏の語法の共通点を発見して学会で報告しており、来年、論文として出ることになっていますので、それが刊行されたら、「憲法十七条」や『三経義疏』の太子撰を疑ってきた日本史学の研究者たちも考えを改めるでしょう。

【追記】
東野氏は前著の東野『大和古寺の研究』(塙書房、2011年)中の「ほんとうの聖徳太子」において、『法華義疏』の実物の書誌的な特色について詳細に検討しており、有益です。本書には「『勝鬘経義疏』の「文」と「語」」と題する論文も収録されており、そこでは『勝鬘経義疏』に良く似ている敦煌本の注釈では「語」となってる部分が『勝鬘経義疏』では「文」となっている箇所が複数あることを指摘し、敦煌の注釈書が話し言葉である「語」を用いている箇所を、『勝鬘経義疏』の作者が文語である「文」に改めているのは、作者が中国語がしゃべれず、漢文を書き言葉としてしか使えない人だったことを示すと述べています。この主張が「ほんとうの聖徳太子」にも盛り込まれていますが、実際には「文意」という表現は隋頃の仏典注釈にはたくさん出てきますので、『勝鬘経義疏』が参考にした注釈が「文意」という表現を用いていたため、それをそのまま使ったことも考えられます。また、『勝鬘経義疏』自身、一箇所ですが「語意」の語を使っている箇所もありますね。また東野氏は、『法華義疏』は訂正具合から見て作者自身の草稿としていますが、全体は側近による書写と見られることは、このブログでも紹介しました(こちら)。