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聖徳太子ゆかりの寺の本尊に多い半跏思惟像の系譜:宮地昭「半跏思惟像を読み解く」     

2023年12月23日 | 論文・研究書紹介

 中宮寺、広隆寺が半跏思惟像を本尊としていることは有名ですし、現存していないものの、四天王寺の金堂も本尊は半跏思惟像だったと推測されています。つまり、聖徳太子と関係深い寺の多くが、半跏思惟像を本尊としているのです。それはなぜなのか。

 この問題を直接解明しようとしたものではありませんが、上記の寺々の本尊にまで至る半跏思惟像のインド以来の系譜を跡づけたのが、

宮地昭「半跏思惟像を読み解く-アジア的視点から見た菩薩信仰の一斷面-」
(『日本仏教綜合研究』第16号、2018年)

です。

 仏像研究の代表者の一人であって、インドやシルクロードなどの現地調査の経験も豊富な宮地氏は、まず、「半跏」の説明から始めます。半跏とは、背もたれのない椅子に腰かけ、一方の足(多くは左足)を踏み下げ、もう一方の足をその膝の上にのせる姿勢であって、詳しくは「半跏踏み下げ」と呼びます。

 特定の姿勢での瞑想が盛んなインドでは、仏像や神像は、坐像の場合は何らかの姿勢で瞑想する姿をとることが多く、両足を組み合わせた結跏趺坐の型が多いものの、半跏趺坐のものもあり、南インドに多く見られます。

 「思惟」の語は動詞の √cint ないしその名詞形である cintā の訳語として用いられますが、原義は「考える、思いをめぐらす、熟考する」「心配する、不安に思う、憂う」という二つのニュアンスを持っています。

 その「半跏」と「思惟」を組み合わせた物思いにふける像は、仏教美術が盛んであったインド西北のガンダーラで成立し、西域、中国、韓国、日本へと広まっていきます。ところが、インド内部では、半跏思惟像はガンダーラの仏教美術の影響を受けたマトゥラーに数例あるのみで、インドの中央部やスリランカや東南アジアにはほとんど見られません。この点について、宮地氏は北地に伝わっていった大乗仏教の菩薩信仰と関係があるとします。

 ガンダーラの半跏思惟像は、釈尊になる前の悉達太子が原型のようです。太子がある日、農村に来て樹の下で休んでいて瞑想したとする伝承では、農夫が畑をたがやす鍬で虫が死んだり、虫が鳥に食べられたり、その鳥を人間が捕まえたりする様子を見て、生き物が殺し合い、食べ合うこの世界の苦しい状況を痛ましく思ったとされています。それがガンダーラでは半跏して右手の指を傾けた額に宛てて考える姿でもっってレリーフで表現されており、漢訳の仏伝では「思惟す」と表現されているのです。

 このタイプが北伝仏教では歓迎され、中国でも北魏の時代には半跏思惟像が多数作られました。ただ、中国では、太子が城を出て、馭者や愛馬と別れて苦行の林に入る場面と混淆される例もあり、それが日本にも及ぶ由。つまり、半跏思惟する釈尊の横に馬が描かれたりするのです。

 ギリシャ彫刻の影響もあって大いに発達したガンダーラの仏教彫刻のうち、半跏思惟像には、ターバン型の冠飾をつけ、手に何も持たないタイプも少数ながらあるものの、大半は左足を踏み下げ、右手を顔に当て、左手に蓮華を持った観音菩薩像です。つまり、生き物の苦しみを思う悉達太子の姿が、生き物たちの危機を救う観音菩薩と結びつけられたのですね。

 時代が進み、密教が盛んになってくると、観音は様々な形に造形されるようになり、それを承けた日本では、半跏思惟型の観音菩薩は如意輪観音として受容されました。中宮寺でも本尊は如意輪観音とされてきましたね。

 観音菩薩以外で悉達太子と結びついた菩薩は、遠い将来に仏となって人々を救うとされる弥勒菩薩です。未来仏としての弥勒菩薩信仰が確立したのもガンダーラでのことと推測されています。ガンダーラは、単に仏教美術が盛んだった土地というだけでなく、大乗仏教の新しい動向を生みだした拠点の一つだったのです。

 弥勒菩薩信仰には、死後、兜率天に生まれてそこで弥勒菩薩にお会いするという上生信仰と、遠い将来、弥勒菩薩が兜率天からこの地上に下りて来て仏となり、人々を救うという下生信仰があります。半跏思惟像は、こうした弥勒菩薩信仰とも結び着いて北伝仏教とともに広がっていきます。

 北魏後期から北斉になると釈迦仏、観音菩薩、弥勒菩薩といった名が記される仏像以外に、「思惟像」「白玉思惟像」「思惟玉像」などといった仏像名が見られるようになります。宮地氏は、これはそうした名の菩薩として信仰されたことを示すとし、瞑想のやり方を説いた禅観経典の中に「思惟」の語がしばしば登場することに着目します。つまり、信者たちを死後、快楽に満ちた兜率天に導いてくれる菩薩として信仰されたと推測するのです。

 半跏思惟像は弥勒信仰が盛んであった朝鮮三国できわめて流行します。ソウルの中央博物館には、広隆寺の半跏思惟像そっくりの国宝指定の半跏思惟像があることが有名ですが、他にも金銅製や石造の半跏思惟像が多数存在します。6世紀後半から7世紀中頃のものが多いのですが、統一新羅の時代になると、ほとんど見られなくなるのが不思議なところです。

 日本では、当然ながら上記の時期の半跏思惟像が多数伝来しており、日本での制作も始まります。広隆寺の半跏思惟像は赤松で作られ、中宮寺は樟木で作られています。その制作地は諸説ありますが、宮地氏は広隆寺の像は推古30年に新羅から献納されたとする説を有力とします。面白いのは、現在は黒い姿になっていますが、当初は金色に輝いていたらしいことです。

 広隆寺は、後代の伝承では太子創建の寺とされ、それ以前の伝承では、太子が太子所蔵の仏像を祀る者を求めたところ、秦河勝が申し出て建立した寺とされていますが、大きな冠を付けた弥勒の半跏思惟像で知られる野中寺も太子建立という伝承があることです。この像については、激しい論争がありましたが、宮地氏は美術史では666年に作成されたと見ており、遺跡から見て寺は7世紀中頃の作と推測されると述べます。

 広隆寺の半跏思惟像とならんで名高い中宮寺の半跏思惟像は、現在は黒漆塗りとなっていますが、当初は肉身部は肌色、衣文は朱・緑青・群青などの鮮やかな着色がなされていたと推測されています。生々しいですね。制作時期については、7世紀中頃から第3四半期頃と宮地氏は見ます。

 この他、現存はしていませんが、四天王寺金銅の本尊も、『別尊雑記』によれば、名は救世観世音菩薩で、右手は指を軽く曲げた思惟の姿であったとあるため、半跏思惟像と見られると宮地氏は説きます。宮地氏は、四天王寺は若草伽藍とほぼ同時期に創建されたと述べますが、少し後ですね。

 いずれにしても、広隆寺、野中寺、中宮寺、四天王寺と、聖徳太子と関係が深い寺で半跏思惟像が大事にされていることが注目されますね。宮地氏は、聖徳太子を追慕する者たちによってこれらの像が制作されたと推測し、その支えての中心は女性だったろうと見ます。

 そして、この半跏思惟像は、将来、仏となる存在という面と、生き物の苦しみを憐れみ、救おうと考えて決意する菩薩という二つの面を持っていると推測します。それがそのまま太子信仰と重ねられていたわけです。

 なお、有名すぎるためでしょうが、宮地氏は触れていませんが、上野の国立博物館に併設されている法隆寺宝物館では、金銅の小型の半跏思惟像がどさっと陳列されていて壮観です。なぜこんなに多くの像が法隆寺に伝えられてきたのか。

 寺の本堂などでなく、小さな仏堂に安置されたり、邸内の部屋に安置され持仏として拝まれていたのでしょうが、6世紀末から7世紀頃の韓国・日本の仏教信仰、それも日本では聖徳太子信仰と重なっていた可能性のある仏教信仰を示すものとして貴重ですね。 

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