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父の用明天皇・子の山背大兄と違い、聖徳太子が大兄と呼ばれなかった理由:河内春人「倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」(1)

2023年12月15日 | 論文・研究書紹介

 集英社は創業95周年ということで、姜尚中氏を総監修として『アジア人物史』全12巻(ほか索引1巻)という意欲的な企画に取り組みました。その第2巻は今年の2月に刊行されています。その中に、

河内春人「第9章 倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」
(李成市他編『アジア人物史2 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア [2~7世紀]』、集英社、2023年)

が掲載されており、聖徳太子に関する最新の学問状況を示していたのですが、どういうわけか、紹介していませんでした。

 この第2巻では、このブログでとりあげた人としては、河上麻由子さんが「隋の文帝」、仁藤敦史氏が「古代天皇制の成立」と題して天智天皇と天武天皇について執筆しています。

 私もこの人物史シリーズの第3巻に新羅の元暁について書き、8月に刊行されました。私が早稲田の東洋哲学専修の助手をしていた際、東洋史の助手をしていた助手仲間の李成市さんが編集委員ですので、その推薦でしょう。李成市さんとは、その編集打ち合わせの際、久しぶりに会いました。

 打ち合わせでは、姜尚中さんを世に出した編集長の落合勝人さんが方針を説明してくれました。主要な人物について30~40頁ほど論じ、周辺の重要人物数人について概説し、さらに関連する10人ほどについて簡単に説明する、という形であって、そのまとまりをクラスターと称するという点を強調されていましが、まさかその編集途中でコロナ禍となり、クラスターという言葉が別な意味で話題になるとは編集側も考えていなかったでしょう。

 さて、河内氏は、厩戸王子をこの章の柱とし、重要人物として、推古大王・蘇我稻目・蘇我馬子・止利仏師とその一族をとりあげ、そのほか、東アジアの亡命者、府官たち、五経博士、日羅、崇峻大王、小野妹子、秦河勝、観勒、慧慈について概説しています。河内氏はもともと東アジアの交流史に取り組んでいたうえ、このシリーズの性格もあって、東アジア、特に朝鮮半島との関係に注意していることが分かりますね。

 河内氏は、まず廐戸皇子の名前から検討を始めます。別名の多さから見て、当時の人々の間に定着していた人物であって、意図的に制作したフィクションではなく、『日本書紀』が「馬官」で生まれたと記していて役所を「~官」とするのは7世紀前半のこととします。

 河内氏は、この論文ではこの時代については「皇」の語は用いないとして、厩戸皇子のことを「厩戸王子」と呼んでいます。史料に見えない呼び方なので、感心できませんね。

 それはともかく、厩戸王子が「法大王」「大王」などと呼ばれていることについては、「天寿国繍帳銘」で推古の子が「尾治大王」と呼ばれ、『法王帝説』で山背大兄が「尻大王」と呼ばれていることが示すように、「大王」は王族の身近な人が敬意をもって呼ぶ際のものであって、制度で決められた地位ではないが、厩戸王子がそうした有力な王族であったことは疑いないと述べます。

 そして、生まれについて検討していきますが、河内氏は、『日本書紀』では父の用明天皇が即位前に「大兄皇子」と呼ばれており、また厩戸王子の子である山背が大兄と呼ばれていることに着目します。そして、大兄は即位が保証されていたわけではないが、そうなるだろうという認識を与えるものであり、厩戸がそう呼ばれていないのは、その政権参加が「大兄にとどまらない政治的位置づけであることを周囲に印象づけた」と論じます。

 これは重要な指摘ですね。大兄は長子がなることが多いことも原因かもしれませんし、大兄となるには若すぎたことも一因の可能性があるうえ、あるいは推古の即位が急であって厩戸を大兄と認定する時間的余裕がなかったことも考えられますが、『日本書紀』は廐戸皇子を神格化していますし、中大兄の意義を強調しているのですから、その先駆けとなるよう、守屋合戦かその少し後あたりで「厩戸大兄は……」などと書くこともできたでしょう。

 そうしていないのはなぜかということは、考えてみても良い問題です。守屋合戦のあたりは、古い史料を切り貼りしてそのまま貼り込んだ可能性があることは、守屋打倒に乗り出した馬子側についた皇子たちについて述べる際、「泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子」とあって厩戸は3番目でしかなく、しかも「軍の後ろに随う」とあることからも察せられますね。後の太子伝と違って特別扱いして活躍を強調しないのは、誓願の部分を除けば、実状に近そうです。

 河内氏は、厩戸王子がこの時期の渡来系の知識人たちと関わりを持っていたことに注意し、遣唐使や新羅関連の活動などを見ると、「学術ブレーンとしての学僧集団と渡来系氏族、厩戸一族という三つの集団によって支えられていた」考えられるとします。

 この部分で私の論文を参照してくれているのは有難いのですが、「憲法十七条」の「無忤為宗」は「仏典(『成実論』)が典故」と説いているのは誤りです。これは『成実論』を教理の柱としていた系統の中国南朝の僧尼たちが尊重した徳目であって、『成実論』そのものには「無忤」の語は出てきません。

 また、「憲法十七条」では仏教の影響は全体に見え隠れしているものの、明確に仏教に関わる規定は第二条のみとしていますが、そうでなく、他のところでも『優婆塞戒経』を用いていることは私が指摘ずみです。

 ただ、その講演録は最近になって刊行されているため(こちら)、コロナ前から編集が始まっていたこのシリーズの河内論文では間に合わなかったか。他にも仏教の表現を用いている点については、来年刊行予定の「憲法十七条」の本で詳しく書くことにします。

 なお、河内氏は、『日本書紀』では厩戸が仏教と儒教の両方を学んだとされているのに対して、『法王帝説』では仏教面を強調するばかりで、儒教との関わりについては言及しないと述べていますが、これは儒教の師匠などに触れないということでしょう。

 『法王帝説』では、上宮王は仏教に精通しただけでなく、「三玄五経の旨を知り」とありますので、『老子』『荘子』『易経』という奥深い三玄の書を学び、また「五経」の趣旨を把握したことになり、「五経」は儒教です。

 『日本書紀』では厩戸王子の死について大げさな形で詳しく述べていますが、河内氏は、『日本書紀』が示す没年と『法王帝説』ほか法隆寺側の資料が示す没年のズレに着目します。

 そして、国文学の神田秀夫が、日本の正史には中国と違って列伝が付されていないことについて、「個人を単位として……評価するやうな歴史意識がまだなかつた」と述べているとし、厩戸王子は例外であることに注意します。

 厩戸を核として形成された学問集団やその影響を受けた周囲は、厩戸の死を「個人」の死と受け止めて記録したのであり、「天寿国繍帳銘」の「世間虚仮、唯仏是真」というつぶやきは、社会と個人のずれの自覚、「前近代的な個の発見」とみなすのです。

 この記述を見ると、中国と違って歴史書が書かれなかった古代のインドにおいて、伝承化されつつも、その誕生や死について具体的な記録が残るのは、ゴータマ・シッダッタ、すなわち釈尊だけであることを想起させますね。釈尊については、18世紀頃のヨーロッパでは神話上の人物と見られていましたし、仏伝が伝えるような強大な王国の太子ではなく、インド主流のアーリア民族ではないヒマラヤの麓の小国だったシャカ族の国の王か最高貴族の子ですが。

 河内氏は、厩戸王子が隋との国交に熱心であったことを強調します。当時派遣された医恵日は、隋が亡び、厩戸も亡くなってほどない623年に帰国すると、唐に残っている留学生たちを呼び戻すべきであり、唐は「法式備わり定まれる珍の国なり。常に達(かよ)うべし」と提言したものの、実現しませんでした。

 当時、唐が強大になると高句麗は619年、百済と新羅も621年に遣使しているのに対し、倭国が遣唐使を派遣したのは舒明2年(630)のことであり、対応が遅れています。最初の遣唐使に選ばれたのは、最後の遣隋使であった犬上御田鋤と恵日でした。河内氏は、先の恵日の提言を、中国文明を受容しようとする厩戸の遺志を実現せねばならないという悲痛な叫びととらえます。

 推古や馬子に関する河内氏の見解については、続篇で紹介します。

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