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片岡王寺および周辺の尼寺・僧寺と上宮王家:東野治之「片岡王寺と尼寺廃寺」

2011年03月26日 | 論文・研究書紹介
 前回は、東野治之氏の2009年10月刊行の論文を取り上げました。今回は続いて、同氏による同年3月の論文を紹介しておきます。

東野治之「片岡王寺と尼寺廃寺」(『文化財学報』27集、2009年3月)

です。

 奈良県王寺町に遺跡が残る片岡王寺は、七世紀末の存在が確認できる古寺であり、戦前の調査によって、東向きの法隆寺式伽藍配置であったことが知られています。近年、その片岡王寺の南方の香芝市尼寺に、同様に東向きの法隆寺式伽藍配置を持つと寺の遺跡(北廃寺)と、南向きの法隆寺式伽藍配置を持つ寺の遺跡(南廃寺)が存在することが、明らかになりました。

 東野氏は、片岡王寺は、聖徳太子の娘であって『上宮記』では「片岡王」と記されている片岡女王の寺という理解で良いとし、百済系の大原氏が支えていたと見ます。そして、片岡王寺は敏達天皇系である大原真人氏の氏寺とする説については、百済王系であると称していた大原史氏が、一部の百済王系の氏族と同様、平安初期頃までに敏達天皇系を主張するようになったものと推測します。

 香芝市尼寺の二つの寺の遺跡については、両寺が一対であったことは疑いないとし、南廃寺跡に残る薬師堂の毘沙門天像に、
 
  華厳山般若院
  片岡尼寺  開山
  皇太子勝鬘菩薩ナリ
  (梵字)毘沙門天
       皇太子作

という墨書があることから、南廃寺が片岡尼寺、北廃寺の方が片岡僧寺であるとし、片岡王寺とは別の寺とします。

 その南廃寺については、東野氏は、軒丸瓦が坂田寺の瓦と同笵であり、若草伽藍と同様の手彫りのパルメット唐草文の軒平瓦が南廃寺周辺から一点、出土していること、北廃寺の塔心楚が若草伽藍や橘寺と共通する形式であることに注意します。

 片岡の地は、片岡山飢人伝承や、鵤大寺・片岡王寺・飛鳥寺の僧である三人の百済王氏由来の大原博士氏による造像を伝える694年の「観世音菩薩造像記」(法隆寺蔵)が示すように、上宮王家・蘇我氏と関係が深い場所ですが、遺跡からもそのことが裏付けられたことになりました。

 さらに東野氏は、片岡王寺跡やその瓦を焼いた遺跡からは、長屋王邸と同笵の瓦や、平城京太極殿と同笵の鬼瓦が発見されるなど、奈良時代には朝廷・貴族と親密な関係があったことに注意しており、様々な可能性を示唆しています。

 なお、氏は結論で、「ともあれ史料の少ない中での考察であり、右の私見が絶対であるとは思わないが」(7頁上)と付言しています。これは、史料が限られている古代の状況について研究する際、忘れてはならない心がまえですね。
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