聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

ゲント大学開催のEAJS大会での近代における聖徳太子パネル(1)

2023年08月21日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、EAJS(ヨーロッパ日本学協会)の2023年大会のため、金沢みたいなベルギーの古都、ゲントに滞在中です。会場はゲント大学。19日に私が参加したパネルは、以下の通り。

Phil_13 A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history

Convenor: Orion Klautau (Tohoku University)
Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University)

Lokaal 0.3: Sat 19th Aug, 11:00-12:30

Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku
Kosei ISHII (Komazawa University)

Projecting modern ideals on the past: Nichirenist perspectives on Shōtoku Taishi
Yulia Burenina (Osaka University)  *日本からリモート発表

Harmonizing the Prince: Shōtoku Taishi’s constitution between the Taishō and early Shōwa years
Orion Klautau (Tohoku University)

 会場となった教室は、開始10数分前は日本人研究者、それもこのパネルのメンバーの知り合いが5~6人来ているだけだったため、パネルを企画したクラウタウさんは、「これなら日本語でやりましょうか」などと言っていたほどでした。

 ところが、始まる直前になると、諸国の研究者が次々に入って来て満席となり、後ろに立ち見まで並ぶ盛況となったため、ほっとしました。聖徳太子はいろいろな面にからむため、関心を呼ぶのか。

 最初の私の発表は、聖徳太子が編纂したとされる江戸時代の偽史、『先代旧事大成経』の巻70、「憲法本紀」に含まれていて太子作と称している『五憲法』がどのように受容されたか、特に明治初年にいかに歓迎されたかを検討したものです。

 『日本書紀』に載せられている「憲法十七条」は、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説くのみであって、「神」にまったく触れず、儒教の根本である「孝」にも触れていません。

 一方、『五憲法』の五つの憲法のうち、最初の「通蒙憲法」は、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神なり」と変えるなどしており、儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じています。儒教や国学の者たちが仏教を批判し、聖徳太子についても厳しく批判するようになったことに対する対応ですね。

 『大成経』は1681年に幕府によって偽書と判定されて発行が禁止され、出版に関わった人々は罰せられたのですが、出版の中心であった黄檗宗の潮音道海(1631-1698)は将軍の母に帰依されていたため、50日の謹慎の後、地方の寺に隠棲させられただけであって、『五憲法』の注釈を書いてます。

 『大成経』は、江戸時代の人々が飛びつきそうな興味深い記述で満ち満ちているため、禁書となって以後も写本でかなり伝わっており、特に『五憲法』やその注釈は、『大成経』の一部ということは示さずに何度も刊行されています。その『大成経』を引用したり注釈を書いたりした人たちは、実に多様であって、以下の私の発表資料が示す通りです。

 江戸時代の注釈で注目されるのは、かの『葉隠』を口述した山本常朝の師であって、『葉隠』に大きな影響を与えたとされる儒者の石田一鼎(1624-1694)が、『五憲法』を武士が守るべき心構えとしてとらえ、その立場で『聖徳太子五憲法釈義』を著していることです。この本は、一鼎の子孫が入手した写本を、その志を継ぐ人が昭和62年(1987)に自費出版するまで、世間に知られていなかったものです。

 明治になると、国民教育を神道一本でやろうとして失敗した政府は、僧侶の活動も認めるかわりに、明治5年(1972)に「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴」などの三箇条を原則とするよう求めたため、仏教側、特に浄土宗はこれに飛びつき、説教の資料として『五憲法』を盛んに用いました。

 神道一本槍で行こうとして失敗した明治政府は、仏教の僧侶なども国民教導に利用することにしたのですが、その際、「敬神愛国」「天理人道「皇上奉戴」を柱とする三条教則を基準と定めたため、仏教側は対応に困り、聖徳太子が儒教・仏教・神道を尊重するよう命じたとする『五憲法』に頼ったのです。

 以後も「教育勅語」が出ると、また『五憲法』の注釈がいくつも出されますし、昭和天皇が皇太子で摂政を務めていた時に結婚すると、それを祝って皇太子で摂政を務めたとされる聖徳太子作と称する『五憲法』の注釈が刊行されなど、皇室がらみの何かがあると『五憲法』は再注目されており、現代に至るまで信者が絶えません。

 このため、私は発表では、日本仏教史は聖徳太子のイメージの変遷史だが、明治初期の太子のイメージは『大成経』が強調する神道重視の太子だと論じたところ、近代日本宗教の代表的な研究者の一人である林淳さんから、適切で厳しいコメントをいただきました。

 確かに、明治期には『五憲法』などとは異なる近代的な太子のイメージも出てきますし、『五憲法』を積極的に利用しなかった宗派もあります。私の発表は、浄土宗における『五憲法』尊重が衝撃的であったため、それを一般化しすぎでしたね。

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