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『新修 斑鳩町史 上巻』(9):古代編「斑鳩の寺院と仏教文化」

2023年03月21日 | 論文・研究書紹介

 ここからは、東野治之氏の担当分です。

「古代編 第六節 斑鳩の寺院と仏教文化」

 斑鳩は飛鳥とならんで日本で仏教文化が初めて開花した土地ですが、東野氏は、飛鳥の諸寺院はほとんど姿を留めていないのに対し、斑鳩は法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺など、伽藍堂塔や古い仏像などの文物を残す寺が少なくないことに注意します。この時期については、「飛鳥文化」と呼ばれるものの、当時の雰囲気を残しているのは斑鳩なのです。

 その中心となる法隆寺については、金堂の薬師如来像の光背銘に、用明天皇が病気になった際、「大王天皇与太子」を呼び、自分のご病気が治るよう薬師像を造ってお仕えすると誓願なさったが、崩御されて造れなかったため、「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」が、ご命令に従って丁卯の年(607)になしとげた、と刻まれており、早くから疑われてきました。

 東野氏は、最近の研究ではこの薬師像は、聖徳太子の没後に建立された釈迦三尊像より形式が新しいうえ、こうした造像銘はおおよそ定まった形があるのに、この銘文は、日付がないことを始めとして異質であり、誓願の第三者の視点に立って、薬師像と寺の由来を述べた縁起文にほかならないと述べます。

 ただ、銘文が後代の成立であっても、内容までまったく否定されるものではないとします。瓦から見て、創建時の法隆寺、つまり若草伽藍の瓦は7世紀初めのものであることは明らかであり、用明天皇の発願であったのか、当初の本尊が薬師像であったかはともかく、創建年代はその頃と見て良いとします。

 607年という年は、太子が宮を造って推古天皇9年(601)に斑鳩に移ってしばらく後のことであって不自然ではなく、宮と平行して寺を建てることは、舒明天皇の百済宮と百済大寺のモデルであって、その百済大寺の伽藍配置が再建法隆寺で採用されるという関係になっていることについて、東野氏は偶然ではないとします。

 法隆寺の火災について、『日本書紀』は天智天皇9年(670)夏四月に「法隆寺に災す。一屋も余す無し」とあり、その前年の「是の冬」でも「斑鳩寺に災あり」とあるため論争となってきましたが、これについては東野氏が戸籍の面から既に解決しており、天智9年でしかありえないことを論証ずみです。

 法隆寺の再建については、早くから別寺平行説が説かれていたうえ、五重塔の心柱の伐採年代が594年、金堂の天井板は650年から669年頃の伐採といった報告がなされたため、以後も論争が続いていますが、東野氏は木材の伐採と寺の建立は別の問題とします。

 現在の法隆寺は谷を埋めるなどの大がかりな整地事業をしたうえで建立されており、しかも、西に20度ほど振れていた若草伽藍と違い、西院伽藍は西に8度ほど触れているだけであるため、早くから造営が始まっていたとは考えられないとします。

 また、太子の病気平癒のための釈迦三尊像を安置するための建物が、火災の前に建設され始めていて、それが現在の金堂であって、若草伽藍の別院のようなものだとする説については、それにしては規模が大きすぎるとします。

 そして、「再建」という表現は、同じ場所に同じ規模で立て直される場合に用いるべきであり、寺地も本尊も伽藍配置も変更されている以上、性格が変わっていると見るべきだとします。つまり、用明天皇のために聖徳太子が建てた寺から、聖徳太子のための寺へと変化したとするのです。古い木材が使われたのも、太子が関わった仏法興隆の時代を追憶するためと見ます。

 ただ、上宮王家が全滅したように言われるのは後代の伝説であり、入鹿に攻められて亡くなったとされる人物が、時代が下るにつれて増えていっていることに注意します。また、法隆寺の食封が停止されたことが問題にされますが、東野氏は特別な状況と見ません。

 これは当時の朝廷の寺院対策の一環にすぎず、天武朝に1度、持統朝に2度、天皇が法隆寺に施入していることからも、官からの相当な支援があったと推測できると述べます。なお、東野氏は、「浄御原宮御宇天皇」、つまり、天武天皇が寄進した「繍帳 二張」は、古い作品をもとに、あらたに制作された「天寿国繍帳」と推測しています。

 確かに、国際的に見てもすぐれている金堂の壁画などを考えると、斑鳩地方の氏族たちの力だけで再建されたとは考えにくい面がありますね。

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