聖徳太子研究の最前線

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舒明天皇の巨大な百済大寺は隋の建築技術を用いた斑鳩寺を継承したか:青木敬「舒明朝の考古学的特質」

2023年12月10日 | 論文・研究書紹介

 前々回は、語法・文体に注意せず、個々の語だけに着目してあれこれ推測して失敗するという例でした。聖徳太子関連の研究でもう一つ注意すべきは、考古学や美術史などの研究成果です。

 「聖徳太子はいなかった」説も九州王朝説も、また「珍説奇説」コーナーで紹介したその他のトンデモ説も、文献だけ見てあれこれ空想してこじつけるからおかしなことになるのであって、「モノ」の研究を無視するからこそ勝手なことが言えるのですね。

 「いなかった」派は、考古学や美術史は『日本書紀』などの記述を基準にして編年しているから信用できないと批判していました。昔はそうした研究も一部にはありましたが、この20年ほどで調査研究が大幅に進み、編年の信頼度は飛躍的に高まりました。

 それを無視して文献解釈だけで大発見をしようとするのは無理な話です。もっとも、「いなかった」派も、たまたま目についた考古学の成果で自説に都合が良さそうなものだけは、強引に自説に引きつけて使っていましたが、このうしたやり口は、「いなかった」派だけでなく、他のトンデモ説にもよく見られます。

 さて、山背大兄と争い、非蘇我系の田村皇子が即位して舒明天皇となったわけですが、舒明は意外にも聖徳太子の事業を受け継ぐ面があったことは、以前紹介しました(こちらや、こちらや、こちら)。

 そうした面を考古学の成果から論じたのが、

青木敬「舒明朝の考古学的特質」
(『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 青木氏は、『万葉集』が舒明天皇の歌で始まっているのは、そこから新しい時代が始まっており、それ以前は「上古」と見ていたことを示すとし、実際、事績から見てもそうであり、歴代遷宮が舒明の飛鳥岡本宮以後行われなくなったこと、天皇として初の官寺である百済大寺を建立したこと、そして王墓として八角墳が作られたことに注意します。

 舒明11年(639)に造営の詔を発した百済大寺は、天香具山の北東に位置する吉備池廃寺であることが確定しています。この遺跡の調査では、金堂が東、塔が西に配された法隆寺式であったうえ、塔の基壇が32メートルほどもあり、その巨大さで人々を驚かせました。

 基壇の上部には、南北6.7メートル、東西5.4メートル以上の巨大な心礎の抜き取り穴があったのです。こうした巨大な塔を建てたのは、北魏の洛陽にてられた永寧寺の九重塔、百済の弥勒寺木塔(639年)、新羅の皇龍寺の九重塔(645年)などに対抗するためであるとするのが通説です。

 しかも、基壇上部に抜き取り穴があることは、それ以前の地中に心礎を添える方式でなく、基壇上面に心礎を配置する地上式心礎であったことを示します。こうした方式は、本薬師寺東塔や文武朝の大官大寺など7世紀末頃に多く見られますが、古い例は斑鳩の若草伽藍のみであって、建築様式が似ているのです。

 若草伽藍と吉備池廃寺(百済大寺)は、7世紀末の寺々よりきわだって古いため、青木氏は、7世紀末になって増える地上式心礎は、若草伽藍や吉備池廃寺とは別系統の技術と見ます。

 その吉備池廃寺の塔の基壇と掘込地業の版築土は、ほぼ一種類の土で版築されており、しかも、それは舒明天皇が山に登って国見の歌を詠んだ天香具山の土でした。この土に極似した土は、7世紀末の大官大寺金堂や藤原宮大極殿南門に見られますが、いずれも天皇関連の施設です。

 そもそも、一種類の土だけで版築する例は希少であり、唯一の例外はまたしても、若草伽藍の塔の掘込地業である由。一方、飛鳥寺塔、奥山廃寺塔、山田寺塔など、6世紀末から7世紀半ばにかけて飛鳥周辺に次々に立てられた塔の場合は、数種類の異なる性状の土砂を用いており、これは中国南朝とそれを受け継いだ百済の寺に見られます。

 これに対し、一種類の土だけで版築するのは、北朝から北朝系の隋・唐の寺に見られ、代表は長安の青竜寺です。このため、青木氏は、若草伽藍や吉備池廃寺の塔は、遣隋使・遣唐使によってもたらされた技術によると見ます。

 聖徳太子の斑鳩宮移住は推古13年(605)であって、それより少し遅れるとみられる若草伽藍造営では、金堂がまず建てられており、塔の瓦は620年頃の作成と見られているため、それ以前に塔の掘込地業が完成していたことが推測されます。遣隋使は607年、608年、610年に派遣され、607年と608年の遣隋使は留学僧を派遣していますので、その際、北地の技術がもたらされたと青木氏は見るのです。

 百済大寺は、聖徳太子が田村皇子に譲ったという熊凝精舎に基づくという話は、現在では後代の伝承と考えられていますが、青木氏は、吉備池廃寺は、若草伽藍の瓦を受け継いでもいるため、関連があったと考えざるを得ないとし、熊凝精舎の移建の話も単なる伝承として片付けることはできないとします。この点についても、最近は歴史学の方面でも認める研究者が増えてますね。

 興味深いのは、吉備池廃寺の版築の仕方が、東国のいくつもの古墳に見られることです。青木氏は、舒明天皇が「東の民」を動員して百済大寺を立て、「西の民」を動員して百済大宮を造営したことに着目し、そこで動員された東の豪族の技術者たちが、東国に帰って古墳の造営に当たったと見ます。

 さて、舒明天皇の押坂陵と考えられているのが段ノ塚古墳ですが、この古墳は正八角形であって、正面には隅角を配しており、側面を正面とする以後の八角墳とは異なります。つまり、この八角墳は前の方形壇まで含めると、一見、前方後円墳のように見えるのであって、まさに過渡期のものなのです。

 柿本人麻呂が帝徳を称えた長歌では、「やすみしし 我が大君 神ながら」と詠っていることで有名ですが、「やすみしし」は「天下の八角を治めた」ということであって、八角墳はこうした概念と関連しますが、青木氏は、八角墳には仏教の死生観の影響もあると推測します。

 つまり、この時期から後の墓では、死者の世界につながる長い羨道が次第に消えていくのであって、それは舒明12年(640)に前の年に帰朝した恵隠が内裏で『無量寿経』を講説し、以後は阿弥陀信仰を思わせる東向きの金堂が造営されるようになっていくことに示されていると、青木氏は見ます。

 問題は、7世紀中頃に方形壇に八角形の墳丘が築造されるのは、段ノ塚古墳、叡福寺北古墳、御廟野古墳、岩屋山古墳であることです。叡福寺北古墳は、孝徳天皇の陵とする説もありますが、伝承では聖徳太子の墓ですね。

 面白いことに、東国には、上が円で下が方形の古墳が東日本に見られることです。青木氏は、東日本の豪族のうち、大王家と関わりの深いメンバーが、八角墳にすることはできないため、同じ形式で円墳としたものと見ます。

 このように、聖徳太子と舒明天皇のつながりが、考古学の成果からも裏付けられることは興味深いですね。

 『日本書紀』は編纂時に潤色や大幅な創作が加えられていることはよく知られており、蘇我氏本宗家を悪者にして中大兄や中臣鎌足の役割を強調したり、律令制の呼称に呼び変えたり、外交関連で日本を優位に描いているような箇所が多いことは確かですが、これまでこのブログで何度も書いてきたように、個々の記述が意外と史実を反映している場合もかなりあるのです。

 むろん、史実をそのまま反映した記述であっても、『日本書紀』全体のイデオロギーのもとで配置されていて本来の記述おは別な印象を与えようとしている場合ありますから、そうした点に注意しなくてはなりません。大事なのはそれらを見分けていくことですね。

 『日本書紀』の最終段階での編集方針によって書き換えられたり加筆されたりした部分もむろん多いものの、『日本書紀』は大急ぎで編集されたため、最終編纂時の基本方針が徹底されず、切り貼りして利用された元の史料がそのまま残っている部分も少なくないのです。