聖徳太子研究の最前線

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豪族間のバランスをとった推古、守屋合戦の前から造寺の準備をしていた馬子:河内春人「倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」(2)

2023年12月19日 | 論文・研究書紹介

 前回の河内春人氏の論文の続きです。

 推古を推古大王と呼ぶ河内氏は、推古大王は単なる中継ぎでは決してないとし、敏達のキサキとしての10年以上の実績によって形成された政治的地位に基づくとします。

 ただ、仏教については、馬子と厩戸が主軸であって、推古はそれに同調したものの仏教を熱心に信仰していたかどうかは明らかでないとします。これは、晩年に起きた事件、つまり、僧が祖父を斧で殴打したことに怒り、仏教界全体を罪に問おうとしたため、百済僧の観勒のとりなしによって中止し、僧正・僧都を置いて僧尼たちを監督させたということが大きいようです。

 それはありえますが、個人の信仰と仏教界の紊乱の取り締まりとは、別に考えた方が良いでしょう。熱心に信仰していればこそ、寺や僧尼が急激に増え、仏教本来でないあり方が目にあまるため是正する、とういことも考えられるので。

 隋の煬帝は皇太子ではなかったため、仏教熱心であった父の文帝や母に気にいられるため、仏教を盛んに保護したものの、皇太子であった兄を蹴落として自分が皇太子となり、さらに皇帝になると、仏教の保護を進めると同時に取り締まりもやってますね。

 河内氏は、推古は仏教を推進した蘇我氏系だったが、仏教推進に懐疑的だった豪族たちについても配慮していたとします。葛城の土地を蘇我の産土として与えるよう頼んだ馬子の求めを断ったのも、豪族全体のことを考慮してのことと見ます。

 その蘇我氏については、渡来系氏族の活用が言われてきましたが、渡来系氏族と関係を持っていたのは、大伴氏や吉備氏なども同様であって、蘇我氏が稻目の時に力を有力となったのは、財政を担当し、文筆能力のある渡来系氏族を活用したのが大きいとします。

 また、蘇我氏が百済と関係深かったのは事実ですが、稻目は小墾田の家に仏像を安置し、また軽の曲殿には高句麗との戦いで得た高句麗人の女性二人を妻として住まわせたとされているため、高句麗に対する理解もあったと見ます。そして、曽我の地から小墾田、向原、軽にいたる交通の要衝を押さえていたことに注目します。

 そして、娘たちを欽明天皇のキサキとして多くの子女を生ませ、その扶養のための名代・子代がもうけられることによって、外戚としてだけでなく、経済力も高めていったとします。当時の上層の子女は、母の家で育ってましたからね。

 その稻目を受け継いだ馬子については、河内氏は豪族などを自分の側に組織い、有利な状況を作り出す力に注目します。これは、『日本書紀』が馬子は武才さけでなく弁才も備えていたと記されていることと対応します。

 先の葛城の地の授与願いにしても、阿曇氏・阿部氏を通じて申し出ており、ここでも他の豪族を巻き込む馬子の手法が見られるとするのです。

 このように、河内氏は聖徳太子周辺の人物について論じていますが、穏当な議論が多い印象です。