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舒明天皇の仏教政策は厩戸皇子を模範とした:三舟隆之「舒明天皇即位紛争事件の再検討」

2022年05月08日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄を題名とした論文が少ないことは前にも記事で紹介しましたが(こちら)、舒明天皇の即位を論じる際、山背大兄に触れる論文は当然ながらかなり有ります。その一例が、

三舟隆之「舒明天皇即位紛争事件の再検討」
(吉村武彦編『日本古代の国家と王権・社会』、塙書房、2014年)

です。

 吉備池廃寺後の発掘が進み、これが舒明天皇が建立した巨大な百済大寺であることが確定しましたが、三舟氏は、「蘇我氏の権力が絶頂期の中、なぜ舒明天皇にそれだけの規模の寺院を造営しうる権力が存在したのか」を問題にします。

 山背大兄と舒明天皇となる田村皇子の関係については、当時は「嗣位」とか「遺詔」の概念はなかったして『日本書紀』の記述を疑う説や、境部摩理勢が山背大兄を応援して蘇我入鹿に殺されたとするのは後代の解釈で実際は蘇我氏内部の争いだとする説や、舒明天皇が即位した時には山背大兄は既に亡くなっていたとする説など、様々な説があります。

 しかし、篠川賢氏はそうした説を批判しており、三舟氏もそれに賛成し、この件については『日本書紀』はおおむね当時の史実を伝えていると見ます。そして、曖昧とされる推古天皇の遺詔を検討し、やはり田村皇子を意中の継承者としていたと推測します。ただ、それは山背大兄に資格がなかったためではなく、当時はまだ若かったためであろうとします。だからこそ、その後になって再度、皇位継承問題が起きたとするのです。

 外交については、伝統的に親百済派であった蘇我氏と違い、舒明天皇は、新羅に対しては均衡外交策をとり、良好な関係を保ったため、蘇我氏との対立が生まれたと推測します。

 その舒明天皇は百済大宮と百済大寺を建設するのですが、宮が「大宮」と呼ばれるのはこの宮だけであるため、本格的な宮を造営しようとしたことが分かると説きます。そして、宮と寺を平行して建設したのは、斑鳩宮と斑鳩寺が先行例であるうえ、宮中での経典講読の例も考えると、「舒明天皇の仏教政策は厩戸皇子を範としたのではなかろうか」と論じます。

 舒明天皇は山背大兄との競争に勝って即位したため、反上宮王家であったように思われがちですが、実際には政策は厩戸皇子を継承したと見るのです。この点は、以前、同じ推測を述べている鈴木明子さんの論文を紹介したことがあります(こちら)。

 そして、舒明8年には、大派王が豊浦大臣、すなわち蝦夷に朝参の時刻厳守を進言するが蝦夷は従っていないことから、舒明天皇と蝦夷は対立関係にあったとします。舒明天皇は推古朝の政治路線を継承しようとしたが、天皇の権力強化には蝦夷は反対だったのであって、孝徳朝になって時刻厳守が定められている点から見て、舒明天皇は内政・外交・仏教政策はすべて推古朝の方針を継続して強化しようとしていたと見られると説きます。

 また、『万葉集』では、巻一は雄略天皇の歌で始まりますが、次の歌は舒明天皇の国見の歌であり、巻一は雄略天皇以外は、舒明・皇極(斉明)・天智・天武とその近親の歌で始まっていることから考えて、『万葉集』の編者が古代の王権をどのように見ていたかが分かるとします。舒明天皇は、古代における画期的な存在の天皇と見られていたのであり、それは推古朝の政策を推し進めることによってそうなったとするのです。
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