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四天王寺は移建されたのか:東野治之「初期の四天王寺と『大同縁起』」

2023年12月28日 | 論文・研究書紹介

 先日、新著を紹介した東野治之氏の次の新著が続いて出ています。

東野治之『史料散策』「初期の四天王寺と『大同縁起』」
(雄山閣、2023年12月)

であって、刊行されたばかりです(有難うございます)。

 「散策」という語が示すように、今回の本は本格的な論文以外に、史料にまつわる逸話や若い頃の思い出も収録されており、文献の流転の歴史などが大好きな私にとっては嬉しい本となっていました。

 そもそも、東野氏が館長を務めている杏雨書屋は、医学・薬品に関する古書を収集していた武田薬品の社長の戦前のコレクションが発展したものであって貴重書の宝庫であり、推理小説になりそうな思いがけない経路を経てここにたどり着いた敦煌写本を大量に所蔵していることで知られています。

 本書の第三章に収録されている「杏雨書屋の敦煌写本景教経典」は、その貴重書のうち、キリスト教の一派であるネストリウス派の漢文文献の書誌的な特徴について報告しており、興味深いものです。

 聖徳太子は厩で生まれたということで、長安にまで伝わってきていたキリスト教との関係が強調されたりするのですが(実際には関係ないことは、こちら)、敦煌写本中の景教文献については、馬小屋での誕生という記述がないことも含め、来年、紹介することにします。

 さて、守屋合戦において厩戸皇子が四天王に戦勝を祈願した話は有名であるものの、『日本書紀』の崇峻天皇前紀では、その願のおかげで勝つことができたため、摂津に四天王寺が建立されたと述べるのみです。

 しかし、平安前期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』では、合戦の際に本営が置かれていた難波の玉造の岸の上に勝利が報告されたため、「即ち宮を以て四天王寺と為し、始めて垣基を立つ」と記し、その少し後で「四天王寺、後に荒墓村に遷る」と記してあるのです。

 このため、歴史学では、四天王寺は玉造から現在の地へ移転したとする説が有力となったのですが、東野氏はこれを疑います。『日本書紀』は移建について説いていませんし、『補闕記』でも、「垣基を立つ」とあるのみで、伽藍が造営されたとはしていないからです。

 そもそも、『日本書紀』推古天皇元年の是歳条では、「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあるのみです。守屋との合戦において、太子の本営が合戦の舞台から遠い難波にあったというのは不自然でしょう。

 そこで東野氏は、『補闕記』にしても、太子の軍営があった場所を寺とするために工事がなされたことを言うだけであって、移建したとは説いていないことに注意し、実際には寺地を変更して現在の地に造営されたと推定します。

 ただ、『補闕記』に見える征討の将軍名や職階の書き方は、7世紀の事実をかなり反映していると思われるため、この記事は、遅くても8世紀初めを下らないと見ます。

 なお、四天王寺の発掘結果としては、塔や金堂は、法興寺や若草伽藍の造営が進捗してからであることが明らかになっているとし、伽藍全体の造営は、難波遷都に伴う地域整備などと関係しつつ進められ、完成したのは7世紀後半と推定します。
 
 そして、四天王寺の初期の姿をうかがううえで役立つのは、太子伝の研究書としては最古のものであって、鎌倉初頭に四天王寺関係者によって作成されたと推定される『天王寺秘決』に引用される『大同縁起』であるとします。

 これは延暦22年(803)に、四天王寺の堂塔」・仏像・宝物・不動産などを記録したもので、大同年間(806-810)に提出されたため、『大同縁起』と称されたものと福山敏男が説いている通りです。

 東野氏は、これを多少補正して紹介しています。そのうちの仏像の部分は、

 阿弥陀三尊。
  右、恵光法師、大唐従り請い坐すなり。
 弥勒菩薩一躯。蓮華に坐す。
  右、近江朝廷御宇天皇の御世に請い坐す。
 ……
 大四天王像四口 右、聖徳法王の本願。
 小四天王四口 右、上宮大后の本願。……

と続いています。阿弥陀像をもたらした恵光は、太子が没した翌年の推古31年(623)に留学を終えて唐から帰国しており、この恵光がもたらした阿弥陀像が金堂の本尊であったと説明されることが多いのですが、東野氏は、金堂の造営が太子の生存中に終わっていれば、別の仏像が本尊だった可能性もあるとします。

 右の一覧のうち、「弥勒菩薩」とあるのが現在の本尊である半跏思惟像ですが、東野氏は、これが本尊とされるのは、太子信仰が高まり、観音と同一視する風潮が広まってからであろうと推測します。

 四天王寺は何度も焼けたため、法隆寺のように沢山の史料が残っていないため、初期の状況についてこうした検討を重ねていかないといけないというのが現状なのです。

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