前回の記事の末尾で、次回とりあげると書いたのが、
熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社、2001年)
です。本書は、4世紀頃の日本列島と韓国南部の状況から始まり、律令制によって天皇が確立した時期までをバランス良く描いた良書です。
本ブログに関連するところだけ紹介します。第四章「王権の展開」の「2 女帝と太子」では、蘇我氏は戦前は足利尊氏とならぶ逆賊という扱いを受けていたものの、実際には仏教の受容に努め、渡来人を配下に置いて先進技術を活用したとして蘇我氏を評価します。
その蘇我氏系の王族の代表が聖徳太子であったとする熊谷氏は、大山誠一氏の「聖徳太子は実在しなかった」とする「センセーショナルな説」(220-221頁)について、史料批判については一定の評価をしつつ長屋王などによる「捏造」とする点には疑問を呈する者が少なくないとし、太子信仰を『日本書紀』成立時点まで引き下げるのは無理と説きます。
そして、『日本書紀』の厩戸皇子に関する記述が太子信仰の所産と見られる部分が多いことは確かだが、「一定の史実も含んでいると考えられる」とします。むろん、「皇太子」などという呼称は推古朝には無かったものの、「その前身となるような地位」はあったとするのです。
その一例が、『隋書』倭国伝に見える「太子を名づけて利歌弥多弗利となす」の部分です。この「利歌弥多弗利」の「利」は「和」の誤記であり、奈良時代以後は皇族の子女の尊称として使われた「ワカミタフリ」のことであることが明らかになっています。
というのは、古代の日本語ではラ行の音と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まる語は「羅列」「利己」「瑠璃」「練金」「魯鈍」など漢語ばかりであることが国語学で解明されているからです。実際、660年以前に唐で作成されたと推測されている類書の『翰苑』、それも日本の太宰府天満宮に残る現存最古の写本では、「王の長子を和哥弥多弗利と号す。華には太子と言う」としてあり、語頭は「和」となっています。
(同書、222頁)
漢語が多く用いられるようになった中世でも、ラ行で始まる言葉は発音しにくかったようで、ヤ行やナ行の音に変えて発音する場合もあったことが指摘されています。
九州王朝説信者 は、「利歌弥多弗利」というのは九州王朝の王の長子である「リカミタフリ」だと主張していますので、太宰府を都としていたという七世紀の九州王朝では、時空を飛び越え、利左衛門(りざえもん)とか利佳子(りかこ)などという名も付けるようになった中世以後の日本語を使っていたのでしょう。
なお、「華言太子」という句については、「華言の太子なり」という訓が普通であって、熊谷氏もそう訓んでいますが、「華言~」は、「[中]華には~と言う」ということであって、中国では~と呼ぶということです。
中国の経典注釈では、「〇〇者、此云~(〇〇とは、此[ここ=中国]には~と云う」という説明が多数見られることが示すように、これは定型表現ですね。「華言の太子なり」と訓んでも、意味は同じですけど。ちなみに、『勝鬘経義疏』では「梁云~」という例があり、梁代を基本としていたことが知られます。
熊谷氏は、当時にあって「太子」にあたる存在としては厩戸しかいないとし、推古15年(607)に、有力な王子の生活費に充てるための名代・子代に相当する壬生部(乳部)が設定されており、これが厩戸没後も上宮王家に受け継がれたことをその証拠とします。
そして、推古朝を推古女帝のもとで厩戸と馬子大臣が共同で輔政したと記す『上宮聖徳法王帝説』の記述を認める研究者が多いとし、自分もその一人であると述べます。これが今日に至る主流の考え方です。教科書において厩戸皇子の功績が強調されなくなったいったのは、どの時期に誰の発言力が強かったかは判定しにくいとするためですね。
ただ、熊谷氏が厩戸の政策を認めていることは、遣隋使の派遣期間(600~614)が、高句麗が派遣してきて厩戸の師となった僧侶の慧慈の在日期間(598~614)と重なるとする坂元義種氏の指摘に触れ、また慧慈の役割を重視した李成市氏の論文に触れていることからも明らかです。李成市さんは、私が早稲田の東洋哲学科で助手をしていた際、東洋史の助手をしていた仲間です。
熊谷氏は、「憲法十七条」は、太子ひとりの作かどうかはともかく、推古朝当時の作と見ることは現在は多数意見だとします。そして問題の「阿輩雞弥」については、『翰苑』が「天児」だとしている以上、「オオキミ」ではなく「アメキミ」と訓むべきだとし、「阿毎多利思比孤」については、『万葉集』が「天の原振り放け見れば大王の御寿は長く天足らしたり」(巻2・147)の歌などを考慮すると、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解される、とします。
世襲王権の初めとも言われる欽明天皇が「アメクニオシハラキヒロニワ」、皇極天皇が「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」、孝徳天皇が「アメノヨロズトヨヒ」、天智天皇が「アメノミコトヒラカスワケ」、天武天皇が「アメノヌナハラオキノマヒト」であって、この時期の天皇名については「アメ」が強調されている以上、推古朝前後の倭王の尊称であろう「アメタリ(ラ)シヒコ」も同様だったと見ます。
つまり、大王を天の子孫とする考えは既に形成されていたとするのです。ただ、その「アメ」は徳治を前提とした中国的な観念の「天」ではなく、既に独自の「天下」観を有するようになっていた倭国の、独自の「事依(よ)させ」に基づくものであって、まだ記紀神話のようには体系化されていなかったと見るのです。
さて、いかがでしょう。「天の満ち足りた男子」というのは、「天の子」というのとは、少し違うように思われるのですが、大きな流れとしては、熊谷氏の説かれる通りで差し支えないと思われます。
次回は、「天の子」に関わる神話についてとりあげましょう。
【追記:2022年5月19日】
古代の日本語でラ行の語や濁音は語頭に来ないこと、また現代では用いられていることなどについて、少し補足しました。
熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社、2001年)
です。本書は、4世紀頃の日本列島と韓国南部の状況から始まり、律令制によって天皇が確立した時期までをバランス良く描いた良書です。
本ブログに関連するところだけ紹介します。第四章「王権の展開」の「2 女帝と太子」では、蘇我氏は戦前は足利尊氏とならぶ逆賊という扱いを受けていたものの、実際には仏教の受容に努め、渡来人を配下に置いて先進技術を活用したとして蘇我氏を評価します。
その蘇我氏系の王族の代表が聖徳太子であったとする熊谷氏は、大山誠一氏の「聖徳太子は実在しなかった」とする「センセーショナルな説」(220-221頁)について、史料批判については一定の評価をしつつ長屋王などによる「捏造」とする点には疑問を呈する者が少なくないとし、太子信仰を『日本書紀』成立時点まで引き下げるのは無理と説きます。
そして、『日本書紀』の厩戸皇子に関する記述が太子信仰の所産と見られる部分が多いことは確かだが、「一定の史実も含んでいると考えられる」とします。むろん、「皇太子」などという呼称は推古朝には無かったものの、「その前身となるような地位」はあったとするのです。
その一例が、『隋書』倭国伝に見える「太子を名づけて利歌弥多弗利となす」の部分です。この「利歌弥多弗利」の「利」は「和」の誤記であり、奈良時代以後は皇族の子女の尊称として使われた「ワカミタフリ」のことであることが明らかになっています。
というのは、古代の日本語ではラ行の音と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まる語は「羅列」「利己」「瑠璃」「練金」「魯鈍」など漢語ばかりであることが国語学で解明されているからです。実際、660年以前に唐で作成されたと推測されている類書の『翰苑』、それも日本の太宰府天満宮に残る現存最古の写本では、「王の長子を和哥弥多弗利と号す。華には太子と言う」としてあり、語頭は「和」となっています。
(同書、222頁)
漢語が多く用いられるようになった中世でも、ラ行で始まる言葉は発音しにくかったようで、ヤ行やナ行の音に変えて発音する場合もあったことが指摘されています。
九州王朝説信者 は、「利歌弥多弗利」というのは九州王朝の王の長子である「リカミタフリ」だと主張していますので、太宰府を都としていたという七世紀の九州王朝では、時空を飛び越え、利左衛門(りざえもん)とか利佳子(りかこ)などという名も付けるようになった中世以後の日本語を使っていたのでしょう。
なお、「華言太子」という句については、「華言の太子なり」という訓が普通であって、熊谷氏もそう訓んでいますが、「華言~」は、「[中]華には~と言う」ということであって、中国では~と呼ぶということです。
中国の経典注釈では、「〇〇者、此云~(〇〇とは、此[ここ=中国]には~と云う」という説明が多数見られることが示すように、これは定型表現ですね。「華言の太子なり」と訓んでも、意味は同じですけど。ちなみに、『勝鬘経義疏』では「梁云~」という例があり、梁代を基本としていたことが知られます。
熊谷氏は、当時にあって「太子」にあたる存在としては厩戸しかいないとし、推古15年(607)に、有力な王子の生活費に充てるための名代・子代に相当する壬生部(乳部)が設定されており、これが厩戸没後も上宮王家に受け継がれたことをその証拠とします。
そして、推古朝を推古女帝のもとで厩戸と馬子大臣が共同で輔政したと記す『上宮聖徳法王帝説』の記述を認める研究者が多いとし、自分もその一人であると述べます。これが今日に至る主流の考え方です。教科書において厩戸皇子の功績が強調されなくなったいったのは、どの時期に誰の発言力が強かったかは判定しにくいとするためですね。
ただ、熊谷氏が厩戸の政策を認めていることは、遣隋使の派遣期間(600~614)が、高句麗が派遣してきて厩戸の師となった僧侶の慧慈の在日期間(598~614)と重なるとする坂元義種氏の指摘に触れ、また慧慈の役割を重視した李成市氏の論文に触れていることからも明らかです。李成市さんは、私が早稲田の東洋哲学科で助手をしていた際、東洋史の助手をしていた仲間です。
熊谷氏は、「憲法十七条」は、太子ひとりの作かどうかはともかく、推古朝当時の作と見ることは現在は多数意見だとします。そして問題の「阿輩雞弥」については、『翰苑』が「天児」だとしている以上、「オオキミ」ではなく「アメキミ」と訓むべきだとし、「阿毎多利思比孤」については、『万葉集』が「天の原振り放け見れば大王の御寿は長く天足らしたり」(巻2・147)の歌などを考慮すると、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解される、とします。
世襲王権の初めとも言われる欽明天皇が「アメクニオシハラキヒロニワ」、皇極天皇が「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」、孝徳天皇が「アメノヨロズトヨヒ」、天智天皇が「アメノミコトヒラカスワケ」、天武天皇が「アメノヌナハラオキノマヒト」であって、この時期の天皇名については「アメ」が強調されている以上、推古朝前後の倭王の尊称であろう「アメタリ(ラ)シヒコ」も同様だったと見ます。
つまり、大王を天の子孫とする考えは既に形成されていたとするのです。ただ、その「アメ」は徳治を前提とした中国的な観念の「天」ではなく、既に独自の「天下」観を有するようになっていた倭国の、独自の「事依(よ)させ」に基づくものであって、まだ記紀神話のようには体系化されていなかったと見るのです。
さて、いかがでしょう。「天の満ち足りた男子」というのは、「天の子」というのとは、少し違うように思われるのですが、大きな流れとしては、熊谷氏の説かれる通りで差し支えないと思われます。
次回は、「天の子」に関わる神話についてとりあげましょう。
【追記:2022年5月19日】
古代の日本語でラ行の語や濁音は語頭に来ないこと、また現代では用いられていることなどについて、少し補足しました。