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「阿毎多利思比孤」は倭国の王を指す言葉で天孫を意味する:近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」について」

2022年05月15日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事で「阿毎多利思比孤」に触れました。この問題については、「追記」であげた、

近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」についてー七世紀の君主号ー」
(『高円史学』第17号、2001年10月。こちら

が妥当と思われる推測をしています。20年以上前の論文ですが、紹介しておきます。なお、『高円(たかまど)史学』は奈良教育大学歴史研究室の紀要であって、本論文は、近藤氏の修士論文を補訂したものである由。

 近藤氏は、「天皇」号の成立に関する諸説を紹介し、最近では天武・持統朝成立説が有力になっているとします。そしてその例として、倭国の王の呼称は「大王」であったが、「大王」から「天皇」への移行にあたっては、「帝(帝王・帝皇・皇帝)」が用いられたとして「天皇」号の成立を天武・持統朝と説く渡辺茂氏の説をとりあげ、検討します。

 近藤氏は、渡辺氏があげる「帝」系の語が見える文献は「天皇」という称号を定めた律令以後のものであるため、必ずしも「天皇」に先行するとは言えないと述べます。

 次に、「天皇」号以前に「天王」が使われたとする角林文雄氏の説を検討します。角林氏は、高句麗・百済・新羅の王が「大王」「太王」と名乗っていた以上、百済を従属させていると自認していた倭国がそれと同様の語を用いるとは考えにくいとし、「大王」の根拠とされてきた銘文を疑い、推古朝遺文や『万葉集』では「大王」は皇子・皇女を指す言葉として用いられているとして、「天王」から発音も同じである「天皇」に移行したと説きます。

 これに対して近藤氏は、推古朝でも「大王」の語が用いられているうえ、「大王」の語は稲荷山鉄剣の銘によって使用例が確認されたため疑う必要はないとします。そして、『万葉集』の用例は、「天皇」号が確立したことにより、「大王(オオキミ)」という敬称の尊重度が下降し、皇子にまで使われるようになったものと推測します。

 また、角林氏が推古朝遺文というのは「天寿国繍帳銘」であって、これについては成立年代をめぐって諸説があるうえ、この銘では「天皇」の語も見えるため、「天皇」号成立以前の文献が皇子・皇女を「オオキミ」と呼んだ例は無いとします。

 さらに『日本書紀』が引用している『百済新撰』に見える「天王」の例は、全て雄略天皇を指したものだが、『百済新撰』の引文には「天皇」と記している箇所も見え、一貫性がないうえ、金石文には「天王」の用例は見えない点からしても、「天皇」の略敬か、簡便に「天王」と書いただけと見る説を妥当とします。

 次に『隋書』や『通典』の「阿輩雞弥」と「阿毎多利思比孤」のうち、「阿輩雞弥」については「オオキミ」説と「アメキミ」説がありますが、「オオキミ」ならば国内で使われていた称号をそのまま示したことになり、「アメキミ」であれば、隋との外交に際して新たに創出されたと考えざるを得ないとします。

 「阿毎多利思比孤」については諸説あるものの、実在した人物の固有名とすると推古女帝にあてはまらないうえ、国王を指す一般的な語と見る場合も、国内で「アメタリシヒコ」が使われた形跡がないため、問題があると述べます。

 ただ、『日本書紀』では孝昭天皇を「天足彦国押人命」と称してますね。孝昭天皇は問題がありますし、『日本書紀』は「日本足彦國押人天皇」と呼び、「此れ和珥臣等の始祖なり」としていますので、律令制成立以後の和珥氏の伝承ということになるのでしょうが。 

 近藤氏は、そこで山尾幸久氏の説を紹介します。山尾氏は、欽明天皇において「アメクニオシハルキヒロニワ」の形で「アメ(天)」を含む和風諡号が初めて現れるため、この時期には倭国独自の「天」観念を踏まえた大王の始祖説話の原型ができており、それが推古朝になって大王即位儀礼などにおいて伴造などの奉仕由来譚として誦唱され、神話が体系化されていく中で、「アメタリシヒコ」は降臨した天孫を意味する「あまくだられたおかた」というほどの意味を持った、とします。

 そうであれば、『通典』が言う「華言天児也」とも通じると、近藤氏は説き、当時の称号は厳密には「オオキミ」だったが、その特性について語った言葉が「阿毎多利思比孤」だったのであって、それを隋が誤解して、「阿毎」を姓、「多利思比孤」を名だと受け取ったとするのです。

 しかし、「阿毎多利思比孤」の背景に倭国の「天」の概念に基づく始祖説話があった可能性は高いですが、「あまくだったお方」と「天児」はかなり違いますね。

 近藤氏は、開皇20年(600)の遣使にあたり、それまで用いてきた「倭王」や「倭国王」ではなく、「阿輩雞弥」という表現を用いたのは、隋の冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張しようとしたためだとする石母田正氏の主張を認めます。

 『隋書』大業3年(607)の記事では「其王多利思比孤」とありますが、これは「阿毎」を姓、「多利思比孤」を名と受け取った開皇20年の記事を受けての記述であるるため、考慮する必要無しとします。

 そしてこの遣使は対等外交ではなく、隋を頂点とする東アジアの冊封体制への参入であり、「朝貢」であったとする研究者の主張に賛同し、倭国側も「天子」を称したのは、朝貢はするが冊封は受けないという方針を示すためであったと、近藤氏は説きます。

 倭の五王以来、中国への遣使が途絶えていた時期に、倭国を中心とした倭国独自の「天下」の概念が成立しており、推古朝の遣使が用いた「天」の語はそれと関係しているとするのです。実際には、当然ながら隋には受け入れられず、不興をかったため、異なる称号を摸索することになったというのが近藤氏の見通しです。

 近藤氏は、「スメラミコト」への変化を含めた「大王」「オオキミ」から「天皇」「スメラミコト」への変化の全体の検討を今後の課題にしたいと述べてこの論を閉じています。実際、最も不明なのは「スメラミコト」の由来であって、森田悌氏の須彌山(スメール)由来説を含めてきちんと検討する必要がありますね。

 倭国が「大王」の語を倭国王の意味で用いる際は、その上に「治天下」という言葉がついていることが大事であることは、この近藤論文以後ですが河内春人氏が述べています(こちら)。近藤氏が20年前に修論でこうして諸説を検討していたことは評価できるだけに、これ以後、論文は書かれていないようであるのが惜しまれます。

 なお、本論文の「付記」では、修士論文提出と前後して熊谷公男氏の『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社)が刊行されており、本論文と重なるところがあるため、氏の論を踏まえて再考すべきところもあったが十分に果たせていない、と述べていますので、次回は熊谷氏のこの書の該当部分を紹介します。
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