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天孫神話の原型は400年頃に伽耶から須恵器とともに伝わった?:瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」

2022年05月21日 | 論文・研究書紹介
 「阿毎多利思比孤」について二人の研究者の説を紹介しましたが、匈奴であれ倭国であれ、その国独自の伝統に基づく「天子」という概念はありうるものの、「天孫」を天から地上に送るというのは特殊な形ですね。この点が聖武天皇を「孫」とする藤原不比等の政治的位置と関わることを示唆したのは、上山春平氏でした。

 ここまでは仮説としてはありうるものの、大山氏の太子虚構説は、これを極度なまでに展開したため、墓穴を掘る結果となった次第です。

 ただ、問題は、「天孫降臨」の思想を受け入れる基盤、つまり、天から幼い者が支配者として地に降りてくるという図式が倭国に古くからあったかどうかですね。この問題に取り組んだのが、

瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」
(『東洋文化研究』第20号、2018年3月。こちら

です。早くからコンピュータを活用して『風土記』や『古事記』の仏教利用の面を解明してきた瀬間さんは、最初期の文系コンピュータ利用仲間の一人であって、日本と古代韓国の変格漢文にも注意を払っていたため、以前、科研費で変格漢文の国際共同研究をおこなった際は、メンバーとしてご参加いただきました。

 その瀬間さんは、学部時代に韓国語を学び、また2008年に韓国に長期滞在したほか、近年も在外研究で韓国におもむいて韓国の研究者たちと交流して木簡などに見える変格語法に注意しており、2010年頃からは「<百済・倭>漢字文化圏」というものを唱えています。これは、百済滅亡の後、大量の亡命者たちがやってきていますが、その一世と二世くらいまでは、百済と倭は同じ漢字文化圏であったというものです。

 これにはその前駆があり、それは高句麗の好太王が400年に韓国南部の伽耶まで進出したため、大量の伽耶人が倭国に逃れてきたことです。この人たちがもたらしたのが、伽耶式土器であって、これがいわゆる須恵器です。瀬間さんは、この人たちは、須恵器だけでなく、神話ももたらしたと推測するのです。

 瀬間さんは、百済の漢字の字体が藤原宮の木簡にも見えるものの、平城宮になると変わってくるなど、早い時期における百済の漢字文化の影響を指摘します。百済の木簡297号に見える「疎加(ソカル)」の「ル」は、稲荷山鉄剣の「獲可多支(ワカタケル)」と同じ字体なのです。

 これに対して、新羅では固有の言葉の発音を漢字で表記するやり方は、百済や日本と異なっていたとし、ただ、片仮名の起源になるもの、またお経の訓点は新羅と密接に関係すると瀬間さんは述べます。

 『日本書紀』天智天皇7年の記事で唐が高句麗を討ったという部分では、「母夫人」という語に「おりくく」という古訓がつけられていますが、これについては『周書』百済伝が「妻を於陸と名づく」とし、「夏言妃也(夏には妃と言うなり)」と述べていることに注意します。朝鮮半島関連の記事は亡命百済人が訓をつけていたと説くのです(「〇言~」の語法については、前回の記事で触れましたね)。

 こうした古訓については疑われることもあったのですが、1975年に百済の地である光州から『千字文』が出たため、百済の発音が判明し、『日本書紀』に見える不思議な訓は、百済人の言葉に基づくことが判明しました。

 その他、興味深い指摘が多いのですが、この記事の題名に関連する内容として、伽耶国神話と天孫降臨説話の類似をとりあげたところを見てみましょう。

 高麗の『三国遺事』が引用している『駕洛国記』のうち、首露王の降臨神話の部分では「北亀旨」に降りたとされていますが、この「亀旨(くじ)」の語が日本の天孫降臨の地である「久士布流多気(くしふるたけ)」と音が一致することが前から注目されていました。

 この神話では、それから幾ばくもなくして天から紫色の縄が下りて来て地に着き、縄のもとを見ると紅幅で包まれた金の合子があり、開けてみると黄金の卵が六つ入っていたとされています。これが、真床覆衾に包まれて嬰兒(ニニギ)が降臨するのと良く似ているのです。

 瀬間さんは、ここで三輪の大物主が蛇となって結婚するという三輪山神婚譚に注目します。三輪の娘のところに正体不明の男が毎晩やって来るが分からないため、衣に針と糸を付けておき、その糸をたどっていくと、三輪山の神の社に至ったため、男は神の子だと知り、糸は三勾(みわ)だけ残っていたので三輪と名付けたという話です。

 これと似た話が『三国遺事』の「後百済」のところに見えており、紫の衣を着た男が娘の寝室にやってきて共寝するため、父が長い糸を針に通して男の衣に刺しておくように言い、夜が明けてから糸をたどっていくと、大きなミミズにささっており、娘はみごもって子を産んだが、それが百済王の甄萱となったとしています。ただ、この話より、母が池の龍と交わって百済の武王となる藷童が生まれたとする説話の方が古いようです。

 瀬間さんが問題とするのは、『新撰姓氏録』や『粟鹿大明神元記』などでは、糸をたどっていく際、茅渟の陶邑から三輪山まで行っている点です。そこで瀬間さんは、陶邑を通る理由を問題とし、三輪山からは陶邑で作られた祭祀用の須恵器が大量に出土していること、また百済の甄萱の「甄」も陶の意味であることに注目します。そして、三輪山型説話の原型が朝鮮半島にあり、特に須恵器の作成法を伝えた集団で伝承されていた可能性を推測するのです。

 『常陸風土記』でも、誕生した子が蛇であって、子供を育てる容器として「杯(つき)」や「瓫(ひらか)」が登場するなど、須恵器と関わる素材が出てくることに注目するのです。

 このため、瀬間さんは三輪山型神婚譚も「天孫降臨神話」も400年に高句麗侵攻から逃れてやってきた亡命伽耶人たちが持って来たのではないか「想像をたくましくしているところです」(153頁)と述べて終わっています。

 「天孫降臨神話」と言っても、「孫」の部分はなく、あくまでも「天」から幼い者/卵が包まれて降りてくるという図式のことでしょうが、倭国と朝鮮半島南部の国が密接な関係にあったのは明らかなのですから、瀬間さんの問題提起を検討していく日韓共同の国際研究が必要ですね。 
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