千の天使がバスケットボールする

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「さすらう者たち」イーユン・リー著

2010-05-23 14:53:47 | Book
1971年3月21日、その日は夜明け前にはじまった。春分の日だった。鳥や虫や木や川は大気の変化を感じ取り、季節の移り変わりを示す役割を果たしてくれるのだが、老夫婦にとってはこの日には何も意味がない。ひとり娘が処刑される日、悔悛しない反革命分子という勝手な罪状で無実の罪をきせられて、死刑の日をきままに決められたように。

68年、湖南省に住む元紅衛兵の19歳の少女が、文化大革命を批判する手紙をボーイフレンドに送ったところ、彼は要職のポストと引き換えに彼女を密告した。この世でもっとも危険な生き物は人間なのだ。その後、逮捕された少女は10年収監されて最後には処刑されるという事件があった。その処刑の模様や、その後の市民達の行動こそがストーリーなのでここであかすことはできないが、「さすらう者たち」で重要な役割を演じる顧(グー)夫婦の処刑される娘の珊(シャン)たちは、著者がインターネットでこの実際に起こった事件をモデルにしてあくまでもリーの創作した物語となっている。リー自身はこの小説を、「歴史や政治の記録として読まないでほしい。登場人物たちは、私たちと同じようにささやかな幸せや富や愛を得たいと望みながら、日々の暮らしを続けている。そんな人々を時代の犠牲者にしたくない」と語っているそうだ。彼女のこの願いには考えさせられる。もし、彼、彼女たちを”時代の犠牲者”と読んでしまったら、本書は文学たる力もなく、そもそも文学の必要性もないだろう。衝撃的な事実を、過去の歴史を個々人で反芻して養えばよいのだ。5年前、短編集「千年の祈り」で数々の名誉ある新人賞を受賞した著者初の長編作品は、雪解けの春の日のひとつの処刑をきっかけに、無数にある小さな石ころのひとかけらのような街の人々の人生がつながりあい、事件から逃れようもなくまきこまれていく姿を、時にはそこはかとないユーモラスさえただわせて何年も読み継がれるであろう完成度の高い作品となっている。全く、期待以上の彼女の仕事ぶりに驚かされる。30代半ばの女性の作品とは思えないくらい感情を抑えて静謐な雰囲気が彼女の作品の特徴であり、原作の英文はシンプルだがエレガントだとも批評されている。中国在住の中国人作家・余華が意図的に粗野な作風で問題小説の「兄弟」を書いたことを考えると、同じ中国人作家でも対照的なふたりなのだが、その原点は案外近いのではと私には感じられる。ふたりとも語り口は大きく異なれど、扱う内容にはこの国の事情だけではなく人間に対する大胆で鋭いきわどさがありながらも、人間へのいとおしさがベースにある。

さて、ヒロインを珊の元同級生で政府幹部の息子と結婚した美しい凱(カイ)にしたら、悲劇性が強まる恋愛に比重がおかれ、あるいは、娘を処刑される顧夫婦を中心にすると時代性をおびた人情ものに傾くのだが、登場人物と一定の距離をおいた作家の位置や、大学院時代には免疫学の研究者を目標にしていた冷静さが作品のスケールの大きさに貢献している。そして作家と彼らの絶妙なバランスを維持する存在として賢く素直な小学生の童(トン)の役回りがいきてくる。密告。互いを監視しあい、たとえ愛する家族を守る目的であれ、罪のない隣人を踏み台に生き残りをさぐる密告社会が悲劇をくりかえすのは、現代でも続いている。
「今日は肉屋でいても、明日はおまえがまな板の肉になる。他人の喉を切り裂いたナイフは、いつか自分の喉を切るんだ」
まだ幼い童が、顧師のこの言葉を受け止めるにはあまりにも重くつらい。

おりしもGoogleの中国撤退ニュースの報道があったが、リー自身は、母国の中国では創作活動もできないし、中国語では心にバイヤスがかかって創作活動ができないと白状している。訳者によると、幼い頃には作品中のハイライトとともなる批闘大会にも出席したこともある彼女だが、舞台となった渾江という地方都市は夫のまだ彼女自身は一度も訪問したことのない地方都市をモデルにしているそうだ。出版されるやたちまち評判をよび、20の言語での翻訳出版が決まったが中国では出版されるのだろうか。もし彼らが本書を手にとることができたら、顧師の次の怒りをどのように受けとめるのだろうか。

「繰り人形が芝居に奉仕するように、殉難者は大儀に奉仕する。この国ではもう誰も歴史を見なくなったがね、歴史を振り返れば常に殉難者は、大規模に人々をだます目的に奉仕してきた。宗教であろうとイデオロギーであろうと」

■アーカイヴ
短編集「千年の祈り」


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