季節は冬。ルーマニア国内のとある駅に、 ヴォイキツァはドイツで暮らしていたアリーナを迎えにやってきた。喧騒の中の線路わきで、久しぶりに再会した彼女達は、まるで二度と離れることができないかのように、お互いを強く抱きしめあう。そんなふたりの若い娘たちのすぐ後ろを、たった今、アリーナを降ろした列車が人々をけちらすように音をたてて走り去って行った。
ドイツのバーで働いていて精神状態が不安定になったアリーナにとって唯一の希望は、 同じ孤児院で育ったヴォイキツァと一緒に暮らすこと。彼女を連れ戻すためにルーマニアに一時的に帰ってきた。しかし、 ヴォイキツァは修道院でお互いに支えあう仲間と出会い、やすらぎと神への信仰に満ち足りたおだやかな生活を変えるわけにはいかなかった。やがて、復活祭がやってくる。(以下、内容にふみこんでまする。)
本作は、2005年にルーマニアの小さな田舎町の修道院に友人を訪ねてきた当時23歳の女性が、「悪魔祓い」と称する行為によって命を落とした実際の事件をもとにしている。ブログなどで表示を見かける”ネタばれ”になってしまうのだが、要するに物語の発端から結末まではこれがすべてになる。”ネタばれ”と言えば、おおかたの人は、本作に関してはあらかじめ物語を知った上で、それでもわざわざ観に行ってるのではないだろうか。私は小説でも映画でも、展開から結末までをあかしている書評なり批評は、好きではないし、読まないようにしている。むしろルール違反だとも思っている。けれども、クリスティアン・ムンジウ監督の作品だったら、ストーリーの展開を追うことよりも、なにものかを考えさせてくれるという期待が、映画館に向かわせたのだろう。
冒頭の駅の再会シーンだけで、今後のふたりの波乱を予感させ、緊張感をよび、よくしかけられた映像だ。そして、ヴォイキツァが身を寄せている修道院の暮らしぶりが紹介されていく。電気が通じてなく、井戸水をくんで自炊する生活。私物は人に譲り、快楽とはほど遠く、貧しく、ぎりぎりの暮らしぶり。信仰に支えられ、神に捧げる人生。日本人からみると、彼らは遠い異国の特殊な社会集団にみえてくるのだが、孤児だったヴォイキツァがこの修道院以外に生きていく場所がないという孤独を抱えていることが伝わってくるようになると、「無縁社会」が浸透してきた日本からみても、それほど特殊な状況ではないと思えてくる。
又、孤児院にいる少女が、卒業したら行く場所がないため、何とか修道院に入れないかと修道女にお願いする場面があるのだが、前作『4ヶ月、3週間と2日』にも通じるルーマニアを見つめる監督の視点は厳しい。治療費や薬代が払えないと入院もできない。ある年齢に達すると、行き場所がなくてもこどもを放り出す孤児院。養子を労働力とみなす里親。壁画がないからと認められない修道院。息のつまるような閉塞感とともに、現実は、世間は、車の窓に容赦なくかかる泥水のようなものかもしれない。
そして、当初の神父や修道女たちの科学的な無知という私の見方も、少し違ってくる。いかがわしいと予想していた神父だが、理論的で高潔な人物だったり、単純だと思っていた修道女長は限りなく善意の人だったり、「悪魔祓い」という行為を科学的な無知による暴走と一言でくくれない複雑さがある。ヴォイキツァにとっては、信仰などそれほど重要ではない。修道院は自分の居場所を確保する屋根であり、生きる場所だから固執しているだけだ。自分の生きる場所確保と、精神状態が不安定になり暴力的になったアリーナをとどめるための窮余のひとつとして選択肢にあがったのが「悪魔祓い」だった。そして、修道院も人々も、本来のキリストの愛を見失っていく。閉ざされた組織の中で、個人はどこまで理性的にふるまえるのだろうか。
高い密度の映像、人物描写、多くの事を考えさせてくる映画、寒々とした風景とともに、こんな映画が私は好きだ。
尚、亡くなった女性は医師により統合失調症の診断がされていたが、悪魔祓いの儀式によって急性心肺不全により命を落としたそうだ。神父と4人の修道女は不法監禁致死罪で逮捕され、実刑がくだされた。現在は、出所しているが、再び僧衣を着る事は認められていない。
原題は、「丘をこえて」という意味だそうだ。何と意味しんな言葉だろうか。
製作・脚本・監督:クリスティアン・ムンジウ
原題:Dupa dealuri
2012年ルーマニア・フランス・ベルギー合作
■アーカイヴ
・『4ヶ月、3週間と2日』
ドイツのバーで働いていて精神状態が不安定になったアリーナにとって唯一の希望は、 同じ孤児院で育ったヴォイキツァと一緒に暮らすこと。彼女を連れ戻すためにルーマニアに一時的に帰ってきた。しかし、 ヴォイキツァは修道院でお互いに支えあう仲間と出会い、やすらぎと神への信仰に満ち足りたおだやかな生活を変えるわけにはいかなかった。やがて、復活祭がやってくる。(以下、内容にふみこんでまする。)
本作は、2005年にルーマニアの小さな田舎町の修道院に友人を訪ねてきた当時23歳の女性が、「悪魔祓い」と称する行為によって命を落とした実際の事件をもとにしている。ブログなどで表示を見かける”ネタばれ”になってしまうのだが、要するに物語の発端から結末まではこれがすべてになる。”ネタばれ”と言えば、おおかたの人は、本作に関してはあらかじめ物語を知った上で、それでもわざわざ観に行ってるのではないだろうか。私は小説でも映画でも、展開から結末までをあかしている書評なり批評は、好きではないし、読まないようにしている。むしろルール違反だとも思っている。けれども、クリスティアン・ムンジウ監督の作品だったら、ストーリーの展開を追うことよりも、なにものかを考えさせてくれるという期待が、映画館に向かわせたのだろう。
冒頭の駅の再会シーンだけで、今後のふたりの波乱を予感させ、緊張感をよび、よくしかけられた映像だ。そして、ヴォイキツァが身を寄せている修道院の暮らしぶりが紹介されていく。電気が通じてなく、井戸水をくんで自炊する生活。私物は人に譲り、快楽とはほど遠く、貧しく、ぎりぎりの暮らしぶり。信仰に支えられ、神に捧げる人生。日本人からみると、彼らは遠い異国の特殊な社会集団にみえてくるのだが、孤児だったヴォイキツァがこの修道院以外に生きていく場所がないという孤独を抱えていることが伝わってくるようになると、「無縁社会」が浸透してきた日本からみても、それほど特殊な状況ではないと思えてくる。
又、孤児院にいる少女が、卒業したら行く場所がないため、何とか修道院に入れないかと修道女にお願いする場面があるのだが、前作『4ヶ月、3週間と2日』にも通じるルーマニアを見つめる監督の視点は厳しい。治療費や薬代が払えないと入院もできない。ある年齢に達すると、行き場所がなくてもこどもを放り出す孤児院。養子を労働力とみなす里親。壁画がないからと認められない修道院。息のつまるような閉塞感とともに、現実は、世間は、車の窓に容赦なくかかる泥水のようなものかもしれない。
そして、当初の神父や修道女たちの科学的な無知という私の見方も、少し違ってくる。いかがわしいと予想していた神父だが、理論的で高潔な人物だったり、単純だと思っていた修道女長は限りなく善意の人だったり、「悪魔祓い」という行為を科学的な無知による暴走と一言でくくれない複雑さがある。ヴォイキツァにとっては、信仰などそれほど重要ではない。修道院は自分の居場所を確保する屋根であり、生きる場所だから固執しているだけだ。自分の生きる場所確保と、精神状態が不安定になり暴力的になったアリーナをとどめるための窮余のひとつとして選択肢にあがったのが「悪魔祓い」だった。そして、修道院も人々も、本来のキリストの愛を見失っていく。閉ざされた組織の中で、個人はどこまで理性的にふるまえるのだろうか。
高い密度の映像、人物描写、多くの事を考えさせてくる映画、寒々とした風景とともに、こんな映画が私は好きだ。
尚、亡くなった女性は医師により統合失調症の診断がされていたが、悪魔祓いの儀式によって急性心肺不全により命を落としたそうだ。神父と4人の修道女は不法監禁致死罪で逮捕され、実刑がくだされた。現在は、出所しているが、再び僧衣を着る事は認められていない。
原題は、「丘をこえて」という意味だそうだ。何と意味しんな言葉だろうか。
製作・脚本・監督:クリスティアン・ムンジウ
原題:Dupa dealuri
2012年ルーマニア・フランス・ベルギー合作
■アーカイヴ
・『4ヶ月、3週間と2日』