《手造の旅》スペイン小都市めぐり五日目。アヴィラを出て一時間ほど走ると、堂々たるサラマンカの大聖堂が見えてきた。
イベロ族の町をカルタゴそしてローマが占領し継承し繁栄した拠点都市だったが、レコンキスタの時代には戦乱が長く続いて荒廃していた。
イスラム教徒の手から完全に町を奪回したアルフォンソ六世は娘のウラカと婿のレイムンドにこの町を与えた。
1218年にサラマンカ大学を創立したアルフォンソ9世は、彼らのひ孫にあたる。
現在でもヨーロッパ屈指の名門サラマンカ大学は、町の人口16万ほどのうち3万人以上を占めている。
バスを降りてしばらく行くと旧市街の中心となるマヨール広場へ出た。
ここはスペイン継承戦争に勝ってブルボン王朝ではじめての王フェリペ五世が、自分に味方してくれたサラマンカに感謝して造成したのだそうだ。アーチにはスペイン史で有名な人物の胸像が。これはセルバンテス⇒
この広場、もともとはアーケードのすぐ南にあるサン・マルティン教会の付属広場だったものを拡大・改良したそうな。ロマネスク様式のアーチが美しい教会だが、ひっそりと扉が閉まっている裏側へまわってみると、建物に埋もれてしまって、もとがどのようなものだったのかも見えない。地元ガイドさんによると「いつも閉まっている」のだそうな。
マヨール通りを大学方向へ歩いていくと「貝の家」が右手にみえてくる。これはスペインの守護聖人サンチャゴ(英語ではジェームス)のシンボルである帆立貝。巡礼路ではよく見られる。この建物もサンチャゴ騎士団に属するファミリーが自家の紋章にある帆立貝の図案を入れてデザインさせたのだそうだ。
「貝の家」の中庭を見下ろしているのは、すぐ向かいにある巨大なクレレシアの塔を持つ建物。イエズス会が1617年に建設し、現在はPontificia(法王の)大学となっている。
サラマンカ大学には中世以来の伝統で、卒業が決まった学生が赤字で壁にVICTORという文字と名前を書いている(もともとは倒した牛の血で書いたのだそうだ)。
天皇皇后両陛下も訪れた時に、その名前が書かれた
サラマンカ大学を代表するルイス・デ・レオン氏の像。
16世紀半ばに大学総長を務めた人物だが、その直前には宗教裁判によって四年ものあいだ獄につながれていた。現代につながる開明的な考え方をする人は、すぐに「異端」と難癖つけられてしまう時代だったのだ。それに負けない意志を示し、スペインが新たに征服した地の住民の人権などにも言及したという人物。
ESCUELAS MENORES=ミシュラン日本語版では「大学予備学校」と訳されていたが、単に「小さい校舎」ととらえる方がよいだろう。いずれにしても15世紀からの大学の建物の一部になる、美しい中庭である。
その一角に「サラマンカの空」と題されるフレスコ画が隠されている。
1480年代にフェルナンド・ガジェゴが描いたフレスコ画が暗い部屋にうかびあがる天球に星座が描かれたこの作品は15世紀に描かれたとは思えない現代的な写実性を感じさせたもとはこの場所ではなく、図書館の天井の為に描かれていたが、18世紀にそこが教会に改築されることになり設置された天井のために隠されてしまっていた。この教会がその場所
20世紀の半ばに移設しようとした時にはすでに三分の二は劣化してどうしようもない状況だったのだそうだ。つまり、ここに見られるのは制作された当時の三分の一だけなのである。
カトリック両王の時代にに設置された装飾壁には、その当時に流行したちょっとグロテスクな文様が描かれている。この中にカエルを見つけられれば学業成就するという伝説がある。どこ?
ここ・見つかります?※骸骨の頭の上です⇒
そうか、だからカエルをお土産に売っていたんです
この壁から入ると、中庭を囲んで当時は学部ごとの講義室があった。教会法、市民法、医学、文学なとと色別で別れている当時は宗教がいちばん上位にきていたのだろう、現在でも教会法の部屋は大ホールとして大学の行事につかわれていた青色の文学部は・・・偶然だろうがトイレになっていた
このアラブ様式の天井は書庫だった部屋
前出のルイス・デ・レオン氏が講義した16世紀の教室。木製の棒のような机が並んでいるだけだが、当時はこれでも上等な部屋で、普通は床に座っていたのだそうだ。ここにはスペイン王にして神聖ローマ皇帝のカール五世も聴講に来たと解説されていた。
●当時の卒業試験は、ひとりひとり教授に囲まれて質問攻めにされるというスタイル。その部屋の中央にはなんと司教の等身大の墓碑?が横たわっているなんでも歴代の司教の中でいちばんの知恵者だっただった人だそうな。受験者はこの人物と足の裏を合わせて座る。
知恵を分けてもらいながら、質問に答えるそうな。へぇ~(^^)
**
中世において、大学というのはまずは教会から派生した。
大学の教室が並ぶ界隈のすぐ南には、共に巨大な新旧二つの大聖堂がとなり合って聳えている。バスがこの町に近づいた時に最初に見えてきた塔がそれだ。
新大聖堂は1513年から建設がはじまり約半世紀で一応完成。堂々たるゴシックの天井を見上げる
旧大聖堂は1149年から百年以上かかって建設されたロマネスク建築。
主祭壇は16世紀に新調されたものその上部のフレスコ画もその時に画かれたものらしい近くの壁にはロマネスク時代からの墓やフレスコがたくさん見られる付属博物館に、昔主祭壇に置かれていたというマリア像。
そして、「雄鶏の塔」という名前の由来になった雄鶏もいた
現代の大聖堂は古いものばかりで構成されているわけではない。
現代の修理彫刻家が手掛けた部分には、なんと宇宙飛行士!そして、グレムリン?まで居ました(笑)↴
**
午後になって、今日宿泊のサモラの町までさらに一時間ほど走る。
四月。雨が降る事も多いこの季節だが、カラカラ猛暑の真夏に来るよりずっと良い。
幸いここ数日ずっと素晴らしい春の青空に恵まれ、菜の花が美しい道をゆく。
イベロ族の町をカルタゴそしてローマが占領し継承し繁栄した拠点都市だったが、レコンキスタの時代には戦乱が長く続いて荒廃していた。
イスラム教徒の手から完全に町を奪回したアルフォンソ六世は娘のウラカと婿のレイムンドにこの町を与えた。
1218年にサラマンカ大学を創立したアルフォンソ9世は、彼らのひ孫にあたる。
現在でもヨーロッパ屈指の名門サラマンカ大学は、町の人口16万ほどのうち3万人以上を占めている。
バスを降りてしばらく行くと旧市街の中心となるマヨール広場へ出た。
ここはスペイン継承戦争に勝ってブルボン王朝ではじめての王フェリペ五世が、自分に味方してくれたサラマンカに感謝して造成したのだそうだ。アーチにはスペイン史で有名な人物の胸像が。これはセルバンテス⇒
この広場、もともとはアーケードのすぐ南にあるサン・マルティン教会の付属広場だったものを拡大・改良したそうな。ロマネスク様式のアーチが美しい教会だが、ひっそりと扉が閉まっている裏側へまわってみると、建物に埋もれてしまって、もとがどのようなものだったのかも見えない。地元ガイドさんによると「いつも閉まっている」のだそうな。
マヨール通りを大学方向へ歩いていくと「貝の家」が右手にみえてくる。これはスペインの守護聖人サンチャゴ(英語ではジェームス)のシンボルである帆立貝。巡礼路ではよく見られる。この建物もサンチャゴ騎士団に属するファミリーが自家の紋章にある帆立貝の図案を入れてデザインさせたのだそうだ。
「貝の家」の中庭を見下ろしているのは、すぐ向かいにある巨大なクレレシアの塔を持つ建物。イエズス会が1617年に建設し、現在はPontificia(法王の)大学となっている。
サラマンカ大学には中世以来の伝統で、卒業が決まった学生が赤字で壁にVICTORという文字と名前を書いている(もともとは倒した牛の血で書いたのだそうだ)。
天皇皇后両陛下も訪れた時に、その名前が書かれた
サラマンカ大学を代表するルイス・デ・レオン氏の像。
16世紀半ばに大学総長を務めた人物だが、その直前には宗教裁判によって四年ものあいだ獄につながれていた。現代につながる開明的な考え方をする人は、すぐに「異端」と難癖つけられてしまう時代だったのだ。それに負けない意志を示し、スペインが新たに征服した地の住民の人権などにも言及したという人物。
ESCUELAS MENORES=ミシュラン日本語版では「大学予備学校」と訳されていたが、単に「小さい校舎」ととらえる方がよいだろう。いずれにしても15世紀からの大学の建物の一部になる、美しい中庭である。
その一角に「サラマンカの空」と題されるフレスコ画が隠されている。
1480年代にフェルナンド・ガジェゴが描いたフレスコ画が暗い部屋にうかびあがる天球に星座が描かれたこの作品は15世紀に描かれたとは思えない現代的な写実性を感じさせたもとはこの場所ではなく、図書館の天井の為に描かれていたが、18世紀にそこが教会に改築されることになり設置された天井のために隠されてしまっていた。この教会がその場所
20世紀の半ばに移設しようとした時にはすでに三分の二は劣化してどうしようもない状況だったのだそうだ。つまり、ここに見られるのは制作された当時の三分の一だけなのである。
カトリック両王の時代にに設置された装飾壁には、その当時に流行したちょっとグロテスクな文様が描かれている。この中にカエルを見つけられれば学業成就するという伝説がある。どこ?
ここ・見つかります?※骸骨の頭の上です⇒
そうか、だからカエルをお土産に売っていたんです
この壁から入ると、中庭を囲んで当時は学部ごとの講義室があった。教会法、市民法、医学、文学なとと色別で別れている当時は宗教がいちばん上位にきていたのだろう、現在でも教会法の部屋は大ホールとして大学の行事につかわれていた青色の文学部は・・・偶然だろうがトイレになっていた
このアラブ様式の天井は書庫だった部屋
前出のルイス・デ・レオン氏が講義した16世紀の教室。木製の棒のような机が並んでいるだけだが、当時はこれでも上等な部屋で、普通は床に座っていたのだそうだ。ここにはスペイン王にして神聖ローマ皇帝のカール五世も聴講に来たと解説されていた。
●当時の卒業試験は、ひとりひとり教授に囲まれて質問攻めにされるというスタイル。その部屋の中央にはなんと司教の等身大の墓碑?が横たわっているなんでも歴代の司教の中でいちばんの知恵者だっただった人だそうな。受験者はこの人物と足の裏を合わせて座る。
知恵を分けてもらいながら、質問に答えるそうな。へぇ~(^^)
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中世において、大学というのはまずは教会から派生した。
大学の教室が並ぶ界隈のすぐ南には、共に巨大な新旧二つの大聖堂がとなり合って聳えている。バスがこの町に近づいた時に最初に見えてきた塔がそれだ。
新大聖堂は1513年から建設がはじまり約半世紀で一応完成。堂々たるゴシックの天井を見上げる
旧大聖堂は1149年から百年以上かかって建設されたロマネスク建築。
主祭壇は16世紀に新調されたものその上部のフレスコ画もその時に画かれたものらしい近くの壁にはロマネスク時代からの墓やフレスコがたくさん見られる付属博物館に、昔主祭壇に置かれていたというマリア像。
そして、「雄鶏の塔」という名前の由来になった雄鶏もいた
現代の大聖堂は古いものばかりで構成されているわけではない。
現代の修理彫刻家が手掛けた部分には、なんと宇宙飛行士!そして、グレムリン?まで居ました(笑)↴
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午後になって、今日宿泊のサモラの町までさらに一時間ほど走る。
四月。雨が降る事も多いこの季節だが、カラカラ猛暑の真夏に来るよりずっと良い。
幸いここ数日ずっと素晴らしい春の青空に恵まれ、菜の花が美しい道をゆく。