旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

マドリッド

2015-04-23 12:35:09 | スペイン
《手造の旅》「スペイン中部小都市めぐり」も最後は大都市マドリッド。
ホテルを出て徒歩でアトーチャ駅へ。
古いドーム型の駅は、現在植物園空間に改築されている
ここから地下鉄に乗ってSOL=太陽の門広場をめざす。
マドリッド地下鉄のドアは自分であける方式

ソル広場、スペインのゼロ㌔地点表示
ここからマヨール広場そして周辺の路地を入ったところに、刺繍や生地といった布製品・材料の店ばかりがあつまっている一角を教えてもらった。

調べてみると、この店は百年以上の歴史をもっている。

ポンテホスというエリアになるそうな。ここがこの名前になっているのはこういった製品があつまっているからなのか、それとも場所の名前をとっているのか?


こんな道路標示も
あのゴヤも「ポンテホス子爵夫人像」というのを画いているし。

今日はデスカルサス修道院へ行く事にした。
現役の女子修道院で今でも二十人ほどが日々生活している場所。なので、見学も限られた時間に限られた人数ずつ専属のガイド付きでのみ可能となる。

開館時間を待つ行列ここを創立したファナ・デ・アウストリアはカール五世の末娘にしてあのフェリペ二世の妹にあたる。

ポルトガルの王太子ジョアン・マヌエルに嫁いだが、18歳の時に16歳の夫が没し、生まれたばかりの息子(のちのポルトガル王セバスティアン1世)をリスボンに残してスペインに呼びもどされていた。

マドリッドに戻った彼女は、四年後の1559年、自分が幼少期をすごした場所を修道院にして住み始めた。それがこのデスカルサス修道院である。
生まれてすぐに引き離された息子セバスティアンの肖像は、マドリッドの母のところに送られて、母は手紙を書いたが、実際に会う事はなかった。
セバスティアンはちょっと変わった性格の王に育っていき、1578年にはモロッコで戦死してしまった。
その知らせも、ファナはこの修道院できいた筈である。


この修道院は日本にも関係がある。伊達正宗の使節としてやってきた支倉常長が、1615年2月に修道院付きの教会にて洗礼を受けている。

入場時間を指定されて、待ち時間の間に有名なチュロス屋さんへ
一人前の量何本とかいう規定はない? もってきてくれた彼女は、皿からチュロスの一本が床に落ちても気にしない、拾いもしないで去って行った。そして、二人で一人前でもとても食べきれない量のチュロスであった。

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お土産を何か…ということで百貨店の地下食品売り場を訪れて見つけたひと品。
丸い缶の中に12粒のブドウがはいっている。これはスペインらしいスペインでは年越しの鐘にあわせて12粒のブドウを食べる習慣があるのです。
中身、どんなのかまだ開けておりません。。

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昼食は王宮近くの広場に面したカフェでピンチョスをいろいろこれ、きのうの夕方よりもずっと美味しかった。見た目は似ていても店によってずいぶんちがいます

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午後は定番のトレドへ。
今回スペインははじめてという方もおられる。ならば少しは定番箇所もおさえておこう。トレドは「もし一日しかスペインに居られないのならトレドを見ろ」と言われる町。

まずは、町を見渡す有名な展望台
何回も来ているが、このすぐ近くの丘の上を発掘しているのにはじめて出会った。かなり大きな遺構のようだ。

ローカルガイドさんにきけば、アラブ時代の砦の跡があることは以前から分かっていたのだそうだ。
やっと予算がまわってきて発掘できているとのこと。
さらに下の川の近くには、新しく公開されたというアラブ時代の浴場の跡が見えた

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トレド街中を定番観光をして、18時過ぎにマドリッド市内のホテルへ戻る。
今晩はフラメンコのオプションを設定した。
フランメンコのオプションは店によってずいぶん違う。「雲泥の差がある」といっても良いかもしれない。

「まぁ、ちょっとどんなものか見てみよう」というのならばなんでも良いのかもしれないが、小松が設定するからにはお勧めできるところでなくてと思った。
当然、料金にも何倍ものひらきがあるが、今回は妥協せず、マドリッドで最高と言われる店を予約した
二十年も前になるだろうか、この店で見たブランカ・デル・レイというフラメンカの踊りは忘れられないものだった。当時は夜中のセカンド・ショーを見なくてはホンモノのすごいフラメンコは見られないといった時代で、団体客がいなくなっても眠さをこらえてなんども来ていたが、彼女のパフォーマンスは圧倒的で、ほんとうに目が覚めた。

今、この店はコンセプトを一新して、ダイニングとしても楽しめるようにしたとマドリッドの手配担当からきいていた。アメリカのNews Week誌にて「死ぬ前に行きたい世界の千の場所」のひとつにも選ばれたと友人が教えてくれた。ならば、小松も行ってみましょう。

★トリュフのエマルジョン入り野菜のオーブン焼き
トリュフの風味がふわっと香り、今回食べた料理でいちばん洗練された味わいでした。
●アンチョビ、焼きピーマン、イディアサバルチーズ、ピクルスビネガーのサラ ダの”コカ” (パイ生地ベース)
●地鶏肉(59℃の真空調理)ポートワインソースかけ、トリュフポテトとベラ産パ プリカ風味ミガス(パン、オリーブオイル、ニンニクとパプリカを使った代表的 なスペイン料理)添え


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翌日、帰国便に乗る日だが、夕方の飛行機にしたのでゆっくり見学時間がある。
最近リニューアルした考古学博物館を訪ねた。ここでのいちばんの見ものは改装前も今も、「エルチェの貴婦人」紀元前5世紀ごろ、ローマがやってくるずっと前の時代に製作されたとされている。

顔の横の大きな飾りは、いまでもエルチェのある地方の女性民族衣装とに受け継がれているそうな。
発見された当時はフランスがルーブル博物館に所蔵していたのが、1941年にスペインに返還されたとなっていた。

この年代には隠された意味が読み取れる。
1941年は第二次大戦中、フランスがナチス・ドイツの支配を受けていた時代にあたる。
ヒトラーは、友好国であるフランコ将軍のスペインに、フランスが「強奪した」ルーブルが所蔵するスペインの宝を返還する事でひとつ恩を売ろうと思ったのだろう。
フランコ将軍のスペインは結局最後まで第二次大戦には参加しなかったのだが。

この像のとなりには全身像である「バサの貴婦人」もある。こちらは発掘のもようをもっと詳しく紹介していたこの東洋じみた雰囲気のある像は奉納者たちだとされている

今回訪れたサモラからの品もあった。この象牙の箱はアラブかもしくはそれ以前のヴィシ・ゴート時代のものと考えられている。ふたの部分にアラビア語の文字が書かれていて、これゆえにイスラム教徒の工人によると思われているが、そうなのだろうか。

博物館入口の庭には地下へ降りる部屋があり、ここがアルタミラ洞窟を再現した展示となっている

英語の解説も併記されているので、時間があればもっとゆっくり見学したい場所だ。売られていた英語の博物館ガイドには個々の作品の十分な解説はなかったので。

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博物館からすぐちかくのコロンブス広場。これはコロンブスが最初に乗っていったサンタ・マリア号をあらわすモニュメント

ここから二ブロックほどのところに、小松が十に年前に行ってずっと記憶に残っているレストランがあった 大昔に撮影した料理の写真を見せると「ああ、今もありますよ」。この老舗は、幸いにも当時とほとんど変わらないメニューを置いていた。それだけ人気がありいつも注文してくれるファンがいるという証だ。
海老の網焼きは定番 飴色たまねぎがとろとろのイカの墨煮 二人前からの牛肉

★デザートの中に、Cuajadaクワハーダという羊のチーズのメニューがあった。
バスク地方でよくつくられているもので、羊でもぜんぜん癖のない味である。添えられている蜂蜜とともにシンプルにいただきます。

容器のかたちは、バスク地方でこれをつくるときに使っているというカイクという木製の容器をかたどっているそうな。知っていなくちゃ分からない事ですね。

今回の旅の最後、おいしくいただきました<m(__)m>

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