旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

バールレ・ヘルトフ~オランダの中のベルギー飛び地

2019-11-07 12:30:00 | ベルギー
もうすぐ国境線だ

アントワープ中央駅から四十五分ほど北へ走ったところでオランダに入るが、現在両国ともにEUのシェンゲン協約加盟国なのでまったくなんの検査もない。人もいない。
↓このあたりらしい

ところが、ここからしばらくいったバールレという村に二十二か所ものベルギー飛び地がある↓グーグル・マップで↓ゴマのように表示されているのがそれ↓

バールレ村の中にベルギーが点在し、そのベルギー領のなかにオランダ領があったりして複雑極まりない。国境線が家の中を横切っている場所がいくつもある。

オランダ領は「ナッサウ」がつき、ベルギー領は「ヘルトフ」がつく。
●オランダ領バールレ・ナッサウ人口6800人
ナッサウはオランダ総督がかつてナッサウ公だったから。
●ベルギー領バールレ・ヘルトフ人口2800人
ヘルトフは今のフランドル地方を統治していたブラバント公爵をさす。

市にはそれぞれに市役所がちゃんとある。
多数派のオランダ領の市庁舎へ↓


ちゃんと旅行者用のインフォメーションがあるのだ

入っていくと

珍しい日本人グループを歓待してくれた

ここを訪問した人が出身国に場所にピンを指していった地図

↓となりの部屋に大きな市の地図があり、どうしてこんなに飛び地ができてしまったのかを説明してくれた↓

ここはオランダ領なので↓色がついているところがオランダ↓

●どうしてこんなことになったのか?
1198年、神聖ローマ皇帝諸侯の領土境界線がまだはっきりしていなかった頃、ショッテン候ゴットフリートはブラバント候に対してこの地域の土地所有権を主張した。
戦争になることを避けたいとおもったブラバント候は次のように提案した。
「未開墾の土地についてはそちらの所有を認めるが、すでに開墾がすすんだ土地については我々の所有としてほしい。」
開墾した土地からは税収が見込めるのである。
この折衷案で妥結したショッテン候とブラバント候は後にオランダ貴族とベルギー貴族にわかれていくことになり、この国境が現代までのこることになった。

細かい国境線が引かれたのは1648年
三十年戦争(宗教戦争)がウェストファリア条約によって終結したタイミングになる。

この小さな飛び地は二十世紀に役に立つ時がきた。
第一次大戦でベルギーがドイツに占領された際、ベルギー側の避難地となったのだ。
※オランダは中立国で、ドイツはオランダ領を超えてバールレ・ヘルトフを占領できなかった。
ベルギーは対ドイツ工作をバールレ・ヘルトフを使って行った。
(と、バールレ・ナッサウの案内所の方は説明した)


雨だし、先にランチにしよう(^.^)
パンケーキがオランダの名物ということで、力の入ったパンケーキをバラエティ豊かにだしてくれる店に入った↓

↓小松がきにいったのはこのあたりのリンゴをつかったこういうパンケーキ↓

↑シナモンがきいておりました
↓こちらはベーコンの下にリンゴが敷いてあるのです↓

甘みとベーコンの塩味がちょうどよい

食べ終わった頃に、雨があがった(^.^)!
国境線、見て見ましょう↓

↓道の真ん中でまがっている

こちら↓ベルギー側の標識

★ベルギー側の市庁舎を見てみたい
迷いながらたどりついたそこは、町はずれにあった↓

ここは以前に走っていた鉄道の駅だったそうだ↓
↓今、バスが走っているこの道が線路だった↓

この道はオランダだが、市庁舎はベルギー領。
つまり、ベルギー領の市庁舎に入るためにオランダ領の玄関前から入るしかないということになる。
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