カイロの考古学博物館に比べて、すばらしく質の高い展示環境である。それもそのはず、1975年12月にフランスの指導により完成した場所なのだ↓
ルクソール(アラビア語のEl Qusur=城塞 から転化した呼び方)、古代にギリシャ人はテーベと呼び、エジプト人はゥワセットと呼んだ。長い間古代エジプトの首都だったルクソールだけに発掘物は多岐にわたるが、いちばん重要なモノを厳選して見やすく展示してくれている↓
入ってすぐにあるのは、
★巨大なアメンホテプ三世の頭部(第18王朝紀元前14世紀)↓頭の部分・これだけで二メートル以上ある。あの「メムノンの巨像」の後ろにあった葬祭殿に並んでいた巨像のひとつだと推定される。
彼はツタンカーメンの祖父と言えば伝わりやすいだろうか↓花崗岩製である。
アメンホテプ三世の母は、異国ミタンニから嫁いだ人だった。言わば妾腹。
なので、継承権の正当性を宣言すべく、母がアモン神と交わった結果であると、ルクソール神殿の至聖所に刻んだ。※⇒こちらにその図像を載せました。
実際に異民族の血をひいていた、少しかわった顔立ちである。
★ツタンカーメン墓から見つかった牛(「愛と美の女神ハトホル」をあらわす)の像↓
↑目はラピスラズリ、角は銅。実にリアルに美しく表現されている↑これを見た瞬間に思い出したのは、クレタ島のクノッソス宮殿で見つかった牛の像。同じ時代に地中海の周辺で、牛は特に神聖な動物だったようだ。
●ツタンカーメンの顔をしたスフィンクス↓
ぎょっとさせられるのが、ワニの神様が王を同伴している図↓この博物館の目玉のひとつ。一度見たら忘れない。1967年に運河工事をしていて竪穴から発見された↓
★ソベク神とアメンホテプ三世の等身大像↓
ナイル川のワニは人も襲う恐れられた動物だった。なので人々は、逆に神としてあがめることで、命を守ってもらおうと考えた。
この像でもワニの右手が王の口元に「命」を表す「アンク」をさしだしている↓
このワニの口元、折れて見つかったのを復元したようだが、とてもリアルに良くできている。ワニの口元を見慣れた人でなければ、こんなリアルには彫れないだろう。 刻まれた王の名前は「ラムセス二世」になっているが、これは後に名前だけが刻みなおされただけだとされている。
・小松が今回いちばん印象にのこったのは、中王国・第12王朝のセンウセレト三世王の彫刻頭部↓他のどの時代の王の彫像も、こんなリアルな人間ぽさを持っていない。なにゆえこの時代にだけ、このような表現が良しとされたのだろうか?↓
★★★センウセレト三世王の頭部↓※現地の説明版には「SESOSTRIS Ⅲ」と表記されているが、これはフランス語での表記をそのまま英語にしょうとしたもの。「TRIS」という部分が「三世」をあらわしているのに、わざわざ「Ⅲ」をつけている。ここではより一般的な英語名で表記いたします↓
「人間そのまま」を表現したように見えるが、よく見ると、特に正面から見ると、「これはありえないなぁ」という部分がある。どこか見つかりますでしょうか?↓
それは耳!↑実物よりずっと大きくつくられたのは、「私は民衆の声を聴く耳をもってます」というアピールだったと、解釈されております。 彼の治世は三十九年ととても長く、末期は息子と共同統治していたので、継承もスムーズに行われた。息子の時代にも、この肖像表現は受け継がれていたようで、下の像は息子の★★アメンエムハト三世の像↓
父の像と同じリアルさが、この像にも見られる。
ところが、次の新王国時代になると、こういう表現はぱったりなくなり、また定番の「無難な」王の顔が表現されるようになっている。下は、新王国時代・第18王朝のトトメス三世の像↓
整った顔だち。戦争して領土を拡大したこういった戦闘的な王は、足にこんなふうに弓矢を踏んでいたりするのだそうだ↓
★★アメンホテプ・ベン・ハブ書記の座像↓
お腹がだぶついているのは、当時のステイタス。書記といっても、モノを書くだけの人ではない。仕えたアメンホテプ三世のために葬祭殿や神殿を建築した技師でもあった。たいへん優秀な人物だったらしく、死後のも彼の名前は語り継がれ、アメンホテプ三世の神殿は、「ハブ神殿」と呼ばれるようになってしまったのだった。
知的によくととのった顔だちにしあげられている。
●アケナトン王の像↓
一神教に改革しようとした王のかわった表現↑
ルクソール博物館には、ホンモノのミイラや、キリスト教時代の展示まである。それほど大きすぎず、上手にライティングされた美術館。一見の価値があります。
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クルーズ船でベリーダンスショーがあるので、それに合わせて戻ったほかにもいろいろ出演。
その後ダイニングで夕食。決まったメニューでなく、毎食の前菜・スープ・メイン・デザートそれぞれ三種類か四種類かから選択できる。北アフリカのクスクス⇒