凍った湖の上、午後八時過ぎ。昨夜よりずっと晴れている。 昨夜もオーロラは出ていたが、雲があって、こんな感じにしか撮れなかった↓
※オーロラというのは、高度十万メートル付近で起こる現象。これは気象現象の起きる高さの十倍ぐらいの高度である。
今夜は良いコンディション。北の地平線に白い光が動いている。午後十時ごろ、こんな瞬間がやってきた↓
***メール通信「人生のオーロラは見えたか その2」***
オーロラツアーへ参加した人は、帰国後周囲から必ず「見えた?」と訊かれる。
その時、「ほら、こんなふうに」と、誇らしげに見せられる写真がほしい。ですよね?
今回も、こんなふうにオーロラは出た。
しかし、密かに知っておいてほしいことがある。 オーロラはけっして写真と同じように見えていたわけではない。オーロラの写真は現実よりもカラフルに撮れる傾向がある。
実際にその場で見ていた人は「ここまで緑色のひらひらではなかった」と必ず言う。
オーロラ待ちをしている時北の空に光が見えたら、カメラで撮影してみるとよい。
肉眼では白いだけの光でも、それがオーロラなら写真には薄い緑色に写るはずだ。
某カメラ会社でレンズを設計している友人に、そのあたりの事を質問してみた。
「どうして、オーロラは見たままに撮れないのでしょう?」
ちなみに、彼はオーロラを実際には見ておりません。
曰く
「人が見ているオーロラってスゴク地味なんだそうです。 見た目を再現すると苦労して見に行ったのにつまらない絵(写真)が撮れてしまうのだそうです。 記憶色≠記録色の典型です。」
なるほどこれが、ひとつの結論だろう。
通常、カメラは正直に「記録色」の写真を撮る。カメラの製作者も「そのまま(記録色)」に撮れるカメラを目指す。しかし、オーロラの光は特殊なので、一般の光を「そのまま(記録色)」にとれるレンズでも、オーロラだけは「撮れてほしい(記憶色)」に撮れてしまうのだ。なんて素敵な偶然。
オーロラが、「そのまま(記録色)」に撮れてしまうカメラがあったとしたら、それは撮影者を失望させる。それよりも「撮れてほしい(記憶色)」写真になる方が喜ばれる。
ソメイヨシノの花は「そのまま(記録色)」の写真だとほとんど白でしかないけれど、印刷物にするときには、ちょっとピンクを強くするほうが「本物らしい」と感じてもらえるのだそうだ。
これは「騙されている」のだろうか?
小松はそうは思わない。現実の世界すべてに共通する事柄だ。
実際に起きている事実よりも、自分自身が感じる現実の方が重要。写真であれ報道であれ、自分自身が見たいと思う現実を喜ぶのがあたりまえ。「多くの人は見たい現実しか見ない」と言った人があったが、それは幸せに生きるためのひとつの方法ではないだろうか。
冷静に事実を判断できる能力は、優秀ではある。しかし、自分が見たいと思う現実に喜べる人の方が、幸せに生きられる。
我々が「よく撮れた写真」と思って喜ぶのは、「見たかったように撮れている写真」である。
けっして「見たまま(真実が)撮れている」ものではない。
「真実はこちらだった」と、つまらない写真を選んで生きる必要はない。
人生も同じ。
「真実はどうなのか?」と冷めた目で追及する人よりも、「なんと美しい夜だったのだろう」と、うっとりと記憶をたどれる人の方が、幸せに生きていける。幸せに死ぬことができる。
オーロラを、旅を、人生を、その事実がどうであったかを冷静に鑑定する必要はない。重要なのは、自分自身がそれを「美しいものだった」と感じられる心である。